第3話 禁門の変

 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、1863年(文久3年)に公武合体派である会津藩と薩摩藩らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、長州藩兵は任を解かれて京都を追放され、藩主の毛利慶親と子の毛利定広は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や大坂に潜伏した数名の長州藩尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。


 先の政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、横浜港の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局への復帰を望む声が高まることとなった。


 長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が論じられた。進発論を主張したのは来島又兵衛、真木保臣らであり、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。慎重論を重く見た長州藩は、率兵上京を延期する代わりに来島を視察の名目で京都に向かわせた。京都の長州藩邸に入った来島は、火消装束や鎖帷子などを購入し、会津藩主・松平容保への襲撃を企てるが、警備が厳重だったため実現しなかった。


 そんな中、雄藩による参預会議が失敗に終わり、公武合体派の諸侯が相次いで京都を離れたため、これを好機と見た久坂と来島は強く進発論を訴えた。


 そして、6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていった。慎重派の周布政之助、高杉晋作や宍戸真澂らは藩論の沈静化に努めるが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは山崎天王山、宝山に、国司、来島らは嵯峨天龍寺に、福原元僴は伏見長州屋敷に兵を集めて陣営を構えた。


 6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉った。長州に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿もいたが、薩摩藩士・吉井幸輔、土佐藩士・乾正厚、久留米藩士・大塚敬介、田中紋次郎は議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、7月17日朝廷に建白した。


 朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には有栖川宮幟仁・熾仁両親王、中山忠能らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。禁裏御守衛総督・徳川慶喜は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る孝明天皇に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押され、やむなく挙兵した。


 7月19日、御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。

 戦闘の行方を健や正雄も見ていた。2人は幕府側についていた。健は母親を思い出していた。彼は物心ついた頃には父親はいなかった。正雄は昭和57年に生まれた。500円通貨が誕生した年だ。幼い頃は『仮面ライダーBLACK』や『光戦隊マスクマン』を見て育った。

「あ〜ケツが痒い」

 健が突然言ったので正雄は吹き出しそうになった。

「ちゃんと尻拭いてるのか?」

「トイレットペーパーなんてないから、ケツが痒い」

 この時代にはエリエールもネピアも存在しない。だから、木の葉や布を使って尻を拭いていた。

 1857年12月8日に、アメリカ合衆国の実業家ジョセフ・ガイエティーが、"J C Gayetty N Y (J・C・ガイエティー・ニューヨーク)" の名を透かし印刷で紙面に載せた巻き取り型のトイレットペーパーを痔の医療用製品として生産し始め、これがトイレットペーパーとして世界初の工業製品であった。


 日本では、明治中期頃より古紙が原料の塵紙とパルプが原料の落とし紙や京花紙などが主に用いられていた。また、明治時代末からは巻き取り型のトイレットペーパーも使われ始めたが、当時は舶来品が占めていた。それでも、そういった変化は都市部での話で、農村部では、大正時代の頃まで木の葉や藁のほか、古来の籌木が用いられ続けていた。


「ウォシュレットが恋しい」

 健は鎧を脱いで尻を掻きたかった。

 健は井上真央が主演を務めた『花燃ゆ』を思い出した。東出昌大が長州藩士、久坂玄瑞くさかげんずいを演じた。禁門の変と呼ばれる戦いをリアルに体験しようとは2015年には思いもしなかった。

 

 一時福原隊と国司信濃・来島隊は筑前藩が守る中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、乾門を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。狙撃を受け負傷した来島又兵衛きじままたべえは自決した。

 これは史実通りだ。戦で死ぬことはなかった山県有朋が死んでしまったので健は歴史が変わるかと思った。

 又兵衛は文化14年(1817年)1月8日、長門国厚狭郡西高泊村、無給通組の下士・喜多村政倫の次男として生まれたが、天保7年(1836年)、大津郡俵山村の大組(八組)の上士・来島政常の婿養子となった。天保12年(1841年)、柳川藩の大石神影流の創始者大石進に剣術を学んだ。弘化3年(1846年)、江戸に出て剣術修行に励み、武芸の達人となった。


 嘉永元年(1848年)に帰国、家督を継ぐ。同年10月に手廻組に入隊後、藩世子の駕籠奉行など藩の要職を歴任した。翌嘉永2年(1851年)、養父の政常が病死したため、来島家累代の名前を継承し、来島又兵衛政久と改名した。


 文久3年(1863年)、藩命により猟師を集めた狙撃隊を率いて上洛。八月十八日の政変で尊王攘夷派が追放されると萩に戻り、高杉晋作が奇兵隊を創設したのに触発されて、又兵衛も遊撃隊を組織して自ら総督となり、互いに連携して国事にあたった。


 翌元治元年(1864年)、前回の政変で失った長州藩の失地回復のために激烈に出兵を主張し、禁門の変の前に家老福原元僴らと共に上洛、薩摩藩国父島津久光の暗殺を計画したが失敗。一旦長州に戻り、藩主毛利敬親に改めて出兵を促した。


 6月に福原・益田親施・国司親相・久坂玄瑞らと再度上洛、7月19日に変が起こると、又兵衛は風折烏帽子に先祖伝来の甲冑を着込み、自ら遊撃隊600名の兵を率いて、激戦を繰り広げた。しかしこの禁裏内の蛤御門の戦いで、当時薩摩藩兵の銃撃隊として活躍した川路利良の狙撃で胸を撃ちぬかれた。助からないと悟った又兵衛は、甥の喜多村武七に介錯を命じ、自ら槍で喉を突いた後、首を刎ねられて死亡した。享年48(満47歳)。


 真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知ったが、それでも御所南方の堺町御門を攻めた。

「又兵衛の死を無駄にするな!」

 真木が吠えた。

 筑後国久留米(福岡県久留米市)の、水天宮の神職の家に生まれる。


 文政6年(1823年)に神職を継ぎ天保3年(1832年)に和泉守に任じられる。国学や和歌などを学ぶが水戸学に傾倒し、弘化元年(1844年)、水戸藩へ赴き会沢正志斎の門下となり、その影響を強く受け水戸学の継承者として位置づけられる。この関東遊歴により水戸では鹿島神社の小川修理、日下部伊三治と国事を論じ、江戸では安井息軒、塩谷宕陰、橘守部といった名士と交わった。弘化4年(1847年)9月23日、野宮定祥・定功父子により孝明天皇の即位の大礼を拝観したことで尊王の志を更に強くするに至った。


 天保学と呼ばれる学派を立てるだけでなく、嘉永5年(1852年)2月、同志と計らい藩政改革の建白を久留米藩主であった有馬慶頼(後の頼咸)に上らせたが、却って罪を得て久留米より離れた下妻郡水田村の大鳥居理兵衛のもとに蟄居を命じられた。理兵衛は真木の弟で水田天満宮へ養子に出ていた。


 幽囚生活は、文久2年(1862年)2月までおよそ10年に渡ったが尊王の志はより強くなった。

 その寓居・山梔窩さんしかには筑前福岡藩士平野国臣、清河八郎などが訪ねてきている。


 大久保利通(一蔵)らと、薩摩藩の最高権力者である国父・島津久光を擁立しての上洛を計画し、文久2年に久光が上京すると京で活動する。寺田屋騒動で幽閉され、その後は長州藩に接近する。

 長州藩主に「長州一藩のみが列強を相手に攘夷をしても勝ち目はない。全国一丸となって事に当たる必要がある。そのためには天皇が攘夷親政を進められること以外には道はない」という意見具申をし採用された。しかし、この奥には「夷狄御親征名目で進発あそばし、直ちに都を大阪に移し、皇政復古の大号令を天下に布告し、大艦を造り、武備を整え、対外的武力の充実を図る」という考えがあった。そしてこの考えのもとに御親征促進運動を推し進めた偽勅の乱発に対し、孝明天皇の怒りを買い、八月十八日の政変が起きた。


 文久3年(1863年)8月18日、会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した八月十八日の政変が起こると、七卿と共に長州へ逃れる。


 楠木正成の崇拝者として知られ、今楠公と呼ばれた。毎年、楠木正成の命日には楠公祭をおこない、その思想と実践は、後の湊川神社を始めとする人物顕彰神社の創建や、靖国神社を始めとする招魂社の成立に大きな影響を与えた。


 真木は、開明派の橋本左内や横井小楠、近代国家への展望を持った倒幕派の大久保利通、坂本龍馬などと比べ、西洋事情に対する洞察も知見も乏しかった。その思想は観念的な攘夷論で「我が国は神州であり、たとえ国土・民族が滅亡することがあろうともあくまでも攘夷を断行すべきである」という偏狭な国粋主義に留まった。膨大な政治改革建策も名分を正すための施策が大多数を占め、具体的内容に至っていなかった。真木の掲げた「倒幕、そして王政復古」は封建国家から近代国民国家をめざしたものではなく、庶民から見れば支配者が将軍から天皇に入れ替わるだけの事であったが、明治維新の大義名分として大いに活用された。真木は死後、皇国史観によって改めて評価された。


 久留米藩で真木の思想を引き継いだ攘夷派藩士は、明治維新後の久留米藩難事件で薩長による新政府への反乱に加担して処刑・投獄されている。

 

 健と正雄は新選組のすぐ近くで戦っていた。土方歳三や山南敬助、原田左之助などの名だたる侍の戦いぶりを目の当たりにした。

 池田屋事件のときの喀血が有名な、沖田総司は参戦していないようだった。

 健は山県有朋から奪ったエンフィールド銃で戦った。エンフィールド銃は、椎の実型の弾丸を用いるライフルマスケットであることから、長い射程と高い精度を持つが、当時の他国のライフルやライフルマスケットの中で群を抜くと言うほどでもなく、肩を並べる程度のものであった。しかし、エンフィールド銃が他国のライフルマスケットで圧倒的に勝るものは二つあり、それは、共に使用されたエンフィールド弾薬包から成り立つ「装填のしやすさ」と「銃身内の清潔性の高さ」である。

 エンフィールド弾薬包を用いたエンフィールド銃の装填はとても容易で、.568口径のプリチェット弾やエンフィールド弾を包んだ弾薬包は、銃身の口径と僅かな差しかないにも関わらず、抵抗なく装填することができた。.550口径のエンフィールド弾はより装填がしやすく、弾薬包に包まれた状態でも、弾丸の直径は銃身の口径との差が大きいことから、装填に対する抵抗は.568口径の弾丸のそれよりももっと少なく、ラムロッドの重量だけで弾丸は銃身の底まで滑り落ちていった。発砲を繰り返せば、弾薬包に付着している蜜蝋が溶け、弾丸は自身の重量のみで銃身の底まで滑り落ちていった。

 

 健は久坂玄瑞を撃ち殺すことに成功した。

 天保11年(1840年)長門国萩平安古ひやこ本町(現・山口県萩市)に萩藩医・久坂良迪、富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾で四書の素読を受けた(この塾には1歳年長の高杉晋作も通っていた)。ついで藩の医学所・好生館に入学したが、14歳の夏に母を亡くし、翌年には兄・久坂玄機が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、15歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。17歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。身長は6尺(約180cm)ほどの長身で恰幅がよく、声が大きく美声であった。片目は少しスガメであった。


 翌安政4年(1857年)晩春、正式に松門に弟子入りした。


 松下村塾では晋作と共に「村塾の双璧」、晋作・吉田稔麿・入江九一と共に「松門四天王」といわれた。松陰は玄瑞を長州第一の俊才であるとし、晋作と争わせて才能を開花させるよう努めた。そして、安政4年(1857年)12月5日、松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。


 安政6年(1859年)10月、安政の大獄によって松陰が刑死した。


 文久元年(1861年)12月、玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った(参加者は桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊輔、山縣有朋ら24名)。


 文久元年頃から玄瑞と各藩の志士たちと交流が活発となり、特に長州、水戸、薩摩、土佐の四藩による尊攘派同盟の結成に向けて尽力し、尊王攘夷運動、反幕運動の中心人物となりつつあった。


 玄瑞は長井に何度を議論を挑み、また藩主への具申をしたが、藩論は覆ることはなかった。文久元年、公武合体の考えに沿うように和宮の降嫁が実現した。


 このような中、玄瑞は全国の「草莽の志士糾合」に賭けざるを得なくなる。文久2年(1862年)正月14日、坂本龍馬が剣道修行の名目で、武市半平太の書簡を携え、玄瑞との打ち合わせのため萩へ来訪した。馬関の豪商白石正一郎と結び、白石宅をアジトにして、薩摩の西郷隆盛、土佐の吉村寅太郎、久留米、筑前の志士たちとも謀議を重ねた。松門の同志は血盟を交わし、桂小五郎は、繰り返し藩主親子、藩の重臣たちに、長井雅楽弾劾を具申し続けた。4月、玄瑞は同志と共に上京し、長井の弾劾書を藩に提出する。6月、玄瑞は長井要撃を試みるが襲撃の時機を逸したため、藩に長井への訴状も兼ねて待罪書を提出するも、京都にて謹慎となる。しかし、桂小五郎らは攘夷をもって幕府を危地に追い込む考えで、藩主・毛利敬親に対し攘夷を力説し、7月6日、長井失脚に成功した。

 

 玄瑞は謹慎中の文久2年(1862年)8月、『廻瀾條議』と名付けた建白書を藩主に上提した。これが藩主に受け入れられ、長州藩の藩論となる。藩論は航海遠略策を捨て、完全に尊王攘夷に変更された(長井は翌年2月自刃を命ぜられた)。


 時期が再び到来した。なお、このクーデターの背後には、孝明天皇の「攘夷は希望するが、倒幕には反対する」という考えがあった。


 この情勢のなか、玄瑞は政務座役に任じられ、藩の要職として後事を策するため、京都詰めを命じられた。その間、三条実美・真木和泉・来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めていた。


 しかし玄瑞は、元治元年(1864年)4月、薩摩藩の島津久光、福井藩の松平春嶽、宇和島藩の伊達宗城らが京都を離れたのを機会と捉え、急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を要請した。


 6月4日、長州にて進発令が発せられた。また、池田屋事件の報が国許に伝わると、藩は上下を挙げて激発したとされている。玄瑞は来島又兵衛や真木和泉らと諸隊を率いて東上した。


 6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し、朝廷に奉った。この段階では長州藩に同情し、寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わってきた。また、その頃幕府は諸藩に令を下し、京都出兵を促していた。


 7月17日、男山八幡宮の本営で長州藩最後の大会議が開かれ、大幹部およそ20人ほどが集まった。玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないとして、兵を引き上げる案を出したが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄った。玄瑞は「今回の件は元々、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島の進撃論と対立した。来島は「卑怯者」と怒鳴り、「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と座を去ったとされている。最年長で参謀格の真木和泉が「来島君に同意を表す」と述べたことにより、進撃と決定した。玄瑞はその後一言も発することなくその場を立ち去り、天王山の陣に戻った。


 諸藩は増援の兵を京都に送り込んでおり、その数2万とも3万ともされる。対して長州藩は2,000に満たない数の兵力で戦いを挑むこととなった。蛤御門を攻めた来島は会津藩隊と交戦したが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、指揮官の来島が狙撃され負傷すると長州軍は総崩れとなった。来島は自害した。この時、狙撃を指揮していたのが西郷隆盛だった。


 史実では越前藩兵を破れず、玄瑞は寺島忠三郎らと朝廷への嘆願を要請するため侵入した鷹司邸で自害する。

 また、遺命を託された入江九一はしかし鷹司邸を塀を乗り越えて脱出した時に越前藩士に発見され、槍で顔面を突かれて死亡するはずだが、新選組に寝返った。


 落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失した。


 生き残った兵らはめいめいに落ち延び、福原・国司らは負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退した。天王山で殿となっていた益田隊も敗報を聞くと撤退して、長州へと帰還した。


 主戦派であった真木保臣は敗残兵と共に天王山に辿り着いたが、益田らその他の勢は既に離脱しており、合流に失敗した。真木らは兵を逃がし、宮部春蔵ら17名で天王山に立て籠もった。20日に大和郡山藩の降伏勧告を無視し、21日に会津藩と新撰組、健や正雄に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり、火薬に火を放って自爆死した。大沢逸平はその場を逃れ、真木の遺言を高杉晋作や三条実美らに伝えるために長州藩に向かった。

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