第2話 オメガトロン
4月25日、一氏はどこかへ姿を眩ませていた。
「早く探さないと、お龍の命が危ないぜよ」
龍馬は泣きそうだった。
お龍は中川宮の侍医であった父が死んで困窮していた頃に龍馬と出会い妻となる。薩長同盟成立直後の寺田屋遭難では彼女の機転により龍馬は危機を脱した。龍馬の負傷療養のため鹿児島周辺の温泉を2人で巡り、これは日本初の新婚旅行とされる。龍馬が暗殺された後は各地を流転の後に大道商人・西村松兵衛と再婚して西村ツルを名乗る。晩年は貧窮の内に没した。
健と龍馬は吉田神社へやって来た。
2月2日には平安時代から宮中で行われてきた古式による追儺式が行われる。『鬼やらい』と称し、盾と矛を持った方相氏が青・赤・黄の三匹の鬼を追いつめ退散させる。
同じ日に行われる疫神祭は、当神社独特の厄除け法で、厄塚により一年の無病息災を祈願するものだ。
令和の時代にはこの近くに京都大学があったな?と、健は思った。
やがて、辺りは闇が訪れた。
オレンジ色の彗星が堕ちた。
健と龍馬は明治時代にタイムスリップした。
1867年(慶応3年)に江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が朝廷に対し大政奉還を行った。これにより、朝廷は玉松操と大久保利通らが作成した「王政復古の大号令」を宣言。薩摩・越前・土佐・尾張・芸州の五藩がこのクーデターに与した。1868年(明治元年)1月、京都付近において薩摩・長州両藩兵を中心とする新政府軍と旧幕臣や会津・桑名藩兵を中心とする旧幕府軍との間に武力衝突が起こった(鳥羽・伏見の戦い)。これに勝利を収めた新政府軍は慶喜を朝敵として追討し、二条城に退去していた会津藩・桑名藩・旗本は辞官納地の命令により、慶喜と共に大坂城に退いた。慶喜は薩摩藩の罪状を弾劾した「討薩表」を提出して京都に進軍したが朝敵となって討伐され、大坂城を軍艦・開陽丸で脱出し、江戸城へ逃亡。新政府軍は江戸へ軍を進めた。大久保一翁や山岡鉄舟の尽力もあって新政府軍を代表する西郷隆盛と旧幕府軍を代表する勝海舟との交渉が成功し、同年4月11日(新暦5月3日)、江戸は戦火を交えることなく新政府軍により占領された(江戸開城)。東北諸藩も奥羽越列藩同盟を結成して会津藩を助けたが次々に新政府軍に敗れ、7月29日に越後長岡城落城、同年9月22日には激しい戦闘の末に会津若松城が落城して会津藩も降伏した。次いで庄内藩が降伏すると、1869年6月27日(明治2年5月18日)には旧幕府海軍を率いて箱館を占領していた榎本武揚らが五稜郭の戦いに敗れて降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。
健と龍馬は1869年4月末の東京にいた。
馬車や洋装の人々が行き交い、新しい時代になったことを感じさせる。
「そういや、天皇っていつから東京に来たんだ?」
健は龍馬に尋ねた。
「知らねーよ、その時代のこと」
「あっ、そうか」
健は龍馬の喋り方に違和感を覚えた。
天皇は同年12月に一旦京都へと戻るが、翌1869年(明治2年)3月28日再び東京へと行幸する。 この時政府は、「東京城西 ノ丸ヘ御駐簾、依テ、皇城ト称ス」と発令した。
この年の4月はこんなことが起きた。
4月8日 - アメリカ自然史博物館、設立。
4月13日 - ジョージ・ウェスティングハウスが空気ブレーキの米国における特許を取得。
4月18日(明治2年3月7日) - 日本にて東京奠都のため、明治天皇が京都を出発。
4月26日(明治2年3月15日) - 日本で、天文方および浅草・九段の天文台が廃止される。
その頃、2021年ではこんなことが起きていた。
4月5日
コロナウイルスの感染者が増加傾向にある宮城県・大阪府・兵庫県において、蔓延防止等重点措置を発令した。また、4月12日からは東京都・京都府・沖縄県にも拡大した。
4月7日
京都大学医学部附属病院で、新型コロナに罹患した影響により肺がほぼ機能しなくなった女性患者に対して夫と息子の肺を移植する世界で初めてとなる11時間に及ぶ生体肺移植手術を実施。術後の経過は良好で、順調にいけば患者は約2か月後に退院できる見通し。
4月25日
政府は、新型コロナウイルスの感染拡大を受け、東京都、大阪府、兵庫県、京都府の4都府県を対象に3度目の緊急事態宣言を発出した。期間はゴールデンウィーク終了後の5月11日まで。
磯子菜々緒はつくば市内にある研究所で働いていた。この所、あちこちで流星が目撃されている。
流星の元になる小天体は、0.1ミリメートル以下のごく小さな宇宙塵から、数センチメートル以上ある小石のようなものまで様々な大きさがある。こうした天体が地球の大気に数十キロメートル毎秒 (km/s) という猛スピードで突入し、上層大気の分子と衝突してプラズマ化したガスが発光する(小天体が大気との空力加熱などにより燃えた状態が流星として見えているわけではない)。これが地上から流星として観測される。通常、流星は地上より150キロメートル (km) から100 km程度の高さの下部熱圏で光り始め、70 kmから50 kmの高さの中間圏で消滅する。しかし、元の小天体が特に大きい場合などには、燃え尽きずに隕石として地上に達することがある。なお、見た目に消滅する場合にも流星塵として地球に降り注いでいる。
明るさがマイナス3等からマイナス4等程度よりも明るい流星は、火球と呼ばれる。中には満月より明るい光を放ち、夜空全体を一瞬閃光のように明るくするものもある。
流星現象を引き起こす物質(流星物質)は、彗星あるいは小惑星が太陽に近づいたときに放出したものである。彗星は太陽に近づくたびに無数の
流星は小さく、大気圏内で燃え尽きる。隕石の形で地上に落ちるのではなく、小さな塵(宇宙塵)に散らばって地上に降り注ぐ。
火球は流星の中でも惑星より明るいものをいう。火球は小惑星軌道から来た物質が主である。火球を生じたあと、まれに燃え尽きないで地上にまで落下する天体があり、これを隕石という。火球は非常に明るいので、夜間だけではなく昼間でも観察、撮影される場合がある。
マスクが苦しい。あ〜海外行きた〜い。
最近はYou Tubeで『俺たちの勲章』って刑事ドラマを見ている。
まだ、菜々緒が生まれる前のドラマだ。松田優作と中村雅俊が主演だ。あと、『マッドポリス』っていう渡瀬恒彦主演の刑事ドラマ。『リカ』という高岡早紀主演のホラー映画が面白い。高岡演じるリカはメチャクチャ足が早い。
4月26日
有給を使ってつくば市内のホテルに婚カツパーティーに行った。昭和天皇や江口洋介が来たことがあるらしい。全くダメだった。金の無駄だ。
4月30日
リーダーの
「磯子さんもこれからも頑張ってね?」
菜々緒ももらい泣きした。
仕事から帰ってきて歯医者に予約をした。夜はMステを見た。霜降りの粗品が出ていた。
風呂に入りハイボールを飲んで寝た。健と海と遊んでる夢を見た。
花火みたいな音が外でしたので、一瞬目を開けた。窓の外を見ようと思ったが、眠気に負け再び夢に堕ちた。
健と龍馬は廃墟の街を歩いていた。かつては大名屋敷があったところだが、王政復古により徳川家は没落し、浮浪者が徘徊していた。
2人は昼下がりの日本橋にやって来た。
周囲をぐるりと水路で囲まれたこのエリアは、珍しく武家地と町人地が混在していた。陸揚げされたばかりの材木が林立する楓川西岸(材木河岸、上左から海賊橋を渡ると、楓川と日本橋川が交わる三角地帯が現れる。橋名の由来になった海賊奉行の
茶屋に入り、健は買ったばかりの読んだ。この年の3月に新聞が刊行されている。
1月に蝦夷共和国ってのが出来たらしい。
慶応3年(1867年)に15代征夷大将軍徳川慶喜が大政奉還を行って江戸幕府が消滅し、山岡鉄太郎の斡旋により新政府軍の大総督府参謀である西郷隆盛と徳川家陸軍総裁の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定した。慶応4年(1868年)8月19日夜、海軍副総裁榎本武揚は開陽丸を旗艦とする軍艦4隻(開陽、回天、蟠竜、千代田形)と運送船4隻(咸臨、長鯨、神速、美賀保)の8隻の艦隊を率いて蝦夷地の箱館に向かった。途中仙台で会津戦争で敗走した残党などを吸収して、総勢二千数百名となり、10月20日に鷲ノ木に上陸。上陸後、数日で五稜郭を攻略し、箱館を占領した(箱館府知事清水谷公考は敗走した)。
12月15日には蝦夷地全島平定の祝賀祭(蝦夷地領有宣言式)が催され、榎本を総裁とする仮政府の樹立を宣言した。
明治元年(1868年)10月に榎本が函館入港中の英仏両艦長に明治新政府との仲介を依頼した「榎本武揚等歎願書」によると、榎本は蝦夷地に向かった目的について、徳川家の禄高が70万石に制限されたことによって禄を離れざるを得ない旧幕臣を蝦夷地に入植させ、農林漁業や鉱業などを興すとともに、ロシア帝国の南下に対する北方警備につかせることを画策したと説明している。
健は無性にコーヒーが飲みたかった。令和だったら住んでいたアパートの近くに自販機があったから、よくGEORGIAを買って飲んでた。
日本にコーヒーが伝来したのは江戸時代徳川綱吉の頃で、長崎の出島においてオランダ人に振舞われたのが最初であると考えられている。その後、黒船来航と共に西洋文化が流入し、長崎、函館、横浜などの開港地を中心として西洋料理店が開店するようになり、そのメニューの一部としてコーヒーが一般庶民の目に触れるようになる。慶応2年(1866年)に輸入関税が決定され、正式にコーヒーが輸入された1877年(明治10年)頃になると、日本でもコーヒーを商品として取り扱う地盤が出来上がった。
日本で正式なコーヒー輸入が始まる前から、横浜居留地内では既にコーヒーハウスを兼ねた休憩所が営業していた。1864年にビクトリア・コーヒーハウスとカフェ・デュ・ジャポン、アリイエ・カフェなどが、1870年にカフェ・デュ・コメルスが開店したことが確認されている。明治の初め頃、横浜居留地へ異人館見物に来た人に対して、その家で働くコックが50銭をもらいうけて外国人を見物させ、コーヒーを飲ませていたという記述がある。その際に「コーヒーが毒じゃないかというので見物人が大騒ぎした」と伝えられている。
榎本らは総裁として徳川家の血統を引く者を迎えることを希望していた。一方で榎本は王政復古による「皇国」をあからさまに否定したことはなく、1868年8月の榎本の「檄文」は「王政日新は皇国の幸福、吾輩も亦希望する所なり」と述べつつ「強藩の私意に出で、真正の王政に非ず」と新政府側の諸藩を非難している。
「お龍さん大丈夫かな〜」
大福を食べて龍馬は満面の笑みだ。
「うん、うまい」
「流星が落ちないと元の時代には戻れないだろうな」
健は新聞を畳んだ。
「まさか、未来に来ちまうとは思いもしなかったぜよ」
「龍馬さん、土佐の殿様って名前なんだっけ?」
健は龍馬を試すことにした。大河ドラマ『龍馬伝』では近藤正臣が演じていた。
「
山内 容堂 、文政10年10月9日〈1827年11月27日〉- 明治5年6月21日〈1872年7月26日)は、幕末の外様大名。土佐藩15代藩主。酒と女と詩を愛し、自らを好んで「
「ボスを呼び捨てですか?」
「細かいなぁ〜」
「龍馬さんの母上って元気ですか?」
「ピンピンしてる」
「ひっかかったな!」
龍馬は天保6年11月15日(1836年1月3日)、土佐国土佐郡上街本町一丁目(現・高知県高知市上町一丁目)の土佐藩郷士(下級武士・足軽)坂本家に父・坂本直足(八平)、母・幸の間の二男として生まれた。22歳年上の兄(権平)と3人の姉(千鶴、栄、乙女)がいた。坂本家は質屋、酒造業、呉服商を営む豪商才谷屋の分家で、第六代・直益のときに長男・直海が藩から郷士御用人に召し出されて坂本家を興した。土佐藩の武士階級には上士と下士があり、商家出身の坂本家は下士(郷士)だったが(坂本家は福岡家に仕えていたという)、分家の際に才谷屋から多額の財産を分与されており、非常に裕福な家庭だった。
龍馬の父・坂本直足は婿養子として坂本家を継いだ人物で、実祖父の山本家(山本信固)や、その弟・宮地信貞(宮地家を相続)は共に白札郷士であり、龍馬は血統上は上士の人物である。
幼少時は泣き虫で弱虫のひ弱な少年であった。実母の幸を10歳の時に病気で亡くす。以後、姉の乙女が母代わりに龍馬を教育している。
健は大学時代、幕末ゼミに所属していた。そのときの努力が今になって報われた。
「おかしいですねー、10歳のときに亡くなってるはずじゃ?ちなみに、幼い頃より猫を愛して、眠る折も猫を懐に抱いていたらしいです。その由縁か、龍馬さんを懐妊していたときも、猫を抱いていたため、生まれたあなたの背中に黒々と毛が生えていたってはずなんですが……」
龍馬は二の句が告げないようだ。
「化けるなら、ちゃんと研究しないと」
にわか龍馬の正体は
玉山は天変地異を制御する凄いアイテム、『オメガトロン』を発明したが、
菜々緒が花火だと思っていたのは流星だったのだ。
玉山は明菜を助けるために闇サイトで買ったケータイ型拳銃(ガラケー型でダイヤルを押すとアンテナ部分から実弾が発射され、連続で4発の弾丸を発射できる)を懐に忍ばせ、深夜のつくば市内を彷徨っていたが流星とともに明治時代にやって来た。
玉山は廃墟で会った怪しげな男に遭遇した。彼は黒いシルクハットを被っていた。
玉山の背後には大猫が迫りつつあった。
大猫は、日本各地の何箇所かに伝わる巨大な猫の怪異である。代表的なものとして「麻布の大猫」などといった名で知られる江戸笄町の大猫がいるほか、同じ江戸市中の大崎袖ヶ崎、紀伊国(現在の和歌山県および三重県南部)、越後国(現在の新潟県の本州地域)などに、それぞれ個別の大猫の記録がある。
大猫は鋭い爪で玉山を切り裂こうとしたが、男が手にした杖を天空に掲げると暗雲が立ち込め、ゴロゴロと雷鳴が轟き稲妻が大猫を貫いた。大猫は腸をぶちまけ、真っ黒焦げになり死んだ。
「魔法を起こしたいのなら悪いことをするといい。私はもう長くない。肺の病を患っておる。そなたにこれを授ける」
男はシルクハットを玉山に手渡した。
その直後、男はドス黒い血を吐いて死んだ。
玉山はシルクハットを目深に被った。
コイツがあれば風間を倒せるかもしれない。
玉山は微かな希望を抱いた。
健と大野が茶屋から出ると、とっぷり日は暮れていた。怪しげな老人が電信柱の陰から現れた。電柱は当時としては日本に普及されたばかりだった。
「金よこせ」
老人は細長い銃を手にしていた。
幕末に大量に輸入されていたエンフィールド銃だ。
イギリスで開発された雷管式の前装施条銃で、軽歩兵などが装備する軍用銃として用いられていた。
輸入当初は、ミニエー銃と誤認されていたため、幕末日本ではミニエー銃とも呼ばれており、のちにミニエー銃と区別するためにエンピール銃といった呼称が付けられた。
また、
健は正雄から譲り受けた
健は正秀で老人を斬りつけようとしたが、老人の方が動きが早く、エンフィールド銃の引鉄を弾いた。衝撃で健の体は後ろに吹き飛んだ。
正雄は角槻弓を構えたが、臆することなく老人は「飯食わせろ」と正雄の方を向いた。
そのとき、老人の腹から刀の切っ先が現れたから正雄は腰を抜かした。撃たれたはずの健が正秀で老人の背中を突き刺したのだ。健はもしものときの為に防弾チョッキを着ていたのだ。
老人の正体は長州藩士の
幼名辰之助、通称は小助、文久4年(1864年)以降は狂介・小輔・狂助・狂輔。変名として萩原鹿之助の名も用いた。明治4年以降に有朋の諱を称した。号は明治四年まで素狂、以降は無隣庵主、含雪。
長州藩の足軽として生まれ、学問を修めて松下村塾に入り尊王攘夷運動に従事。高杉晋作が創設した奇兵隊で軍監となり、戊辰戦争で転戦した。明治政府では陸軍・内務省のトップを歴任し、二度の首相を経験し、伊藤博文に匹敵する藩閥の最有力者となった。伊藤の死後は最有力の元老となり、軍部・官界・枢密院・貴族院に幅広い藩閥を構築し、明治時代から大正時代の日本政界に大きな影響力を保った。
流星がキラリと光った。
ピンク色の流星が近くに落ちた。江戸へタイムスリップした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます