流星クエスト
鷹山トシキ
第1話 聖なる魚籠
2020年12月
伏見の桃山地区は東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には巨椋池が広がり水運により大坂と京都とを結ぶ要衝の地であった。
伏見城は三度に渡って築城され、最初の城は朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に建設を始めた。このとき築かれたものを指月伏見城、後に近隣の木幡山(桃山丘陵)に再築されたものを木幡山伏見城と呼んで区別され、さらに木幡山伏見城は豊臣期のものと、伏見城の戦いで焼失した跡に徳川家康によって再建された徳川期とに分けられる。豊臣期の伏見城は、豪華な様式が伝わる。
指月に築かれた伏見城は築城開始から2年後の1594年(文禄3年)に秀吉が入城し、更にその2年後の1596年(文禄5年)に完成をみるが、その直後に慶長伏見地震によって倒壊した。このため、指月から北東約1kmの木幡山に新たな城が築き直されることになり、翌1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没した。
秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失した。なお、立てこもっていた徳川家の家臣らが自刃した建物の床板は、供養も兼ねて京都市の養源院、正伝寺などで天井板として再利用されたとの言い伝えがあり、血天井として現在も生々しい痕を見ることができる。
もう夜も深い。🌠
「あっ、流星だ」
青い流星は健のすぐ近くに落ちた。
健は安土桃山時代にタイムスリップした。
城の周りには武家屋敷が連なっていた。
前田玄以や石田三成、宇喜多秀家などの屋敷があった。宇治川が流れていて、その上に豊後橋が架かりその先は向島城が聳え立っていた。
向島はもと巨椋池中に浮かぶ島の一。村の沿革については「京都府地誌」は「豊臣氏桃山在城のとき,宇治川の前岸にあるを以って向島と称す。
その後漁農家聚落をなし一村の形をなす。慶長中,向島村の称を用う」と記してある。
豊臣秀吉は伏見・宇治間を結ぶ道を宇治川左岸にに沿って建設したが、これを槙島堤といい向島村はこの堤防上に位置した。
文禄三年(1594年)伏見城の出城として向島城がこの地に建設され、一時は伏見城下町の町もでき、一部の地域は町場として発展した。
豊後橋は現在は観月橋と呼ばれている。豊後橋北詰十字路の西北部に大友豊後守屋敷があって、そう呼ばれた。
1597年1月の京都を健は散歩していた。
前から背の高い男がやって来た。
「あれ〜ここはどこぜよ」
大河ドラマとかで聴いたりしたことがある声だ。
「もしかしたら、坂本龍馬さんじゃないですか?」
「そうぜよ、おまんは誰ぜよ?」
「卜部健っていいます」
「にしても、おまん、ここはどこぜよ」
ちょっとやらしいな。
「伏見だと思います」
それにしても龍馬はイケメンだ。今まで大河ドラマで福山雅治や玉木宏などが演じたが、竹内涼真に似ていた。健は女に欲していた。大学時代にホテルでの面接の時に知り合った、
『仕事のない人とはつきあえない』
こーゆーイケメンは他人の女にまで手を出したりする。早めに暗殺しないといけなさそうだ。
派遣の仕事はボーナスや退職金はなく、貧窮していたので副業をしなくてはいけなかった。健は殺し屋を副業とすることで車を得たりしていた。
藤原組組長の
龍馬はことの経緯を説明した。
慶応2年(1866年)1月8日、小松帯刀の京都屋敷において、桂と西郷の会談が開かれた。だが、話し合いは難航して容易に妥結しなかった。龍馬が1月20日に下関から京都に到着すると未だ盟約が成立していないことに驚愕し、桂に問いただしたところ、長州はこれ以上頭を下げられないと答えた。龍馬はそれ以上桂を責めることはしなかった。しかし薩摩側が桂の帰藩を止め、1月22日、薩摩側からの6か条の条文が提示された。その場で検討が行われ、桂はこれを了承した。これにより薩長両藩は後世薩長同盟と呼ばれることになる盟約を結んだ。龍馬はこの締結の場に列席している。盟約成立後、木戸は自分の記憶に誤りがないかと、龍馬に条文の確認を行い、間違いないという返書を受け取っている。
盟約成立から程ない1月23日、龍馬は護衛役の長府藩士・三吉慎蔵と投宿していた伏見の寺田屋へ戻り祝杯を挙げた。だがこのとき、伏見奉行が龍馬捕縛の準備を進めていた。明け方2時頃、一階で入浴していた龍馬の恋人のお
そのとき、青い流星が堕ちて龍馬はこっちの世界にやって来たのだ。
健に声をかける者がいた。
「若いの、強くなれ。それがこの時代を生き抜くコツだ」
彼こそが時の天下人、豊臣秀吉だった。
それから健は秀吉に引き取られ、ライバル・龍馬と共に甲賀の棟梁、
光俊は近江国甲賀郡信楽庄小川の国人。当初は南近江守護の六角氏に属したが、六角氏の没落後は織田信長に属した。天正10年(1582年)本能寺の変が起こり、堺にいた徳川家康が脱出を試みた際、五男、光広が家康と同行していた長谷川秀一と誼があったため、光広の連絡を受けて家康を援護することを決め、嫡男光太とともに信楽へと一行を招き入れた。家康の伊賀越えには三男光雅や光広らに甲賀衆を付けて伊勢白子まで道中警固させた。天正12年(1584年)伊賀越えの際の功労から山城・近江国内に所領を与えられた。その後は豊臣秀吉に仕え、豊臣秀次に於萬の前を側室として送り込むなどして信楽・近江諸領・伊賀・山城・大和の計8万石の所領を有するに至ったが、秀次の失脚に連座して改易となり、信楽に蟄居した。
健はサザエさんのタラちゃんを思い出した。本名はフグ田タラオっていうんだった。健はあの真面目キャラはあまり好きではなかった。
そんな健の元に秀吉の側近、石田三成が訪ねてきて、秀吉の正室・北政所の護衛の任を与えられる。1597年2月1日のことであった。
北政所は自分の生い立ちを大阪城で話し始めた。
杉原定利・朝日殿の次女として尾張国朝日村(現在の愛知県清須市)に生まれる。兄弟は木下家定、長生院、杉原くま。のちに叔母・ふくの嫁ぎ先・尾張国海東郡津島(現在の愛知県津島市)の浅野長勝の養女となる。
永禄4年(1561年)8月、織田信長の家臣・木下藤吉郎(豊臣秀吉)に嫁ぐ際、実母・朝日に身分の差で反対されるも、兄の家定が自らも秀吉に養子縁組すると諭したため無事に嫁いだ(通説では14歳)。当時としては珍しい恋愛結婚であった。結婚式は周囲に反対されたことと夫の身分の低さから藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。ふたりの間には子供がなかったので、加藤清正や福島正則などの秀吉や自身の親類縁者を養子や家臣として養育していった。
永禄11年(1568年)頃から数年間は、美濃国岐阜に在住。この間、信長に従って上洛していた秀吉は京で妾を取り、石松丸秀勝をなしている。
天正2年(1574年)、近江国長浜12万石の主となった秀吉に呼び寄せられ、秀吉の生母・なかとともに転居した。この後は遠征で長浜を空けることの多い夫に代わり、城主代行のような立場にあった。天正10年(1582年)の本能寺の変の際には長浜城にいたようで、明智方の阿閉氏が攻めてきたので、大吉寺に避難をしている。
その後、秀吉とともに大坂城に移り、天正13年(1585年)、秀吉が関白に任官したことに伴い従三位に叙せられ、北政所の称号を許される。天下人の妻として北政所は朝廷との交渉を一手に引き受けたほか、人質として集められた諸大名の妻子を監督する役割を担った。この頃、何らかの症状による便秘に苦しんでおり、10月24日付のおね宛ての秀吉の書状の中で、「大便」の文字が三度、「下くだし」(下痢)の語が二度でてくる。
天正16年4月14日(1588年5月9日)、後陽成天皇は聚楽第に行幸し、5日後無事に還御すると、諸事万端を整えた功により北政所は破格の従一位に叙せられている。
天正20年(1592年)、秀吉から所領を与えられており、平野荘に約2,370石、天王寺に3,980石、喜連村約1,405石、中川村約491石など、合計1万1石7斗であった。
文禄2年(1593年)から始まった文禄・慶長の役で秀吉は前線への補給物資輸送の円滑化を目的に交通の整備を行い、名護屋から大坂・京への交通には秀吉の朱印状が、京から名護屋への交通には豊臣秀次の朱印状が、そして大坂から名護屋への交通には北政所の黒印状を必要とする体制が築かれた。
北政所は秀吉が側室の淀姫ばかり可愛がるので面白くなかった。あまり友達もおらず接するのは家臣か女中のみで寂しい思いをしているのではないかと案じた健が北政所を誘い出す。
北政所は健と友達になれたのかなと尋ねるが健はその問いには答えなかった。礼として健は秀吉から聖なる
食品工場では殴られたり罵声浴びせられたり酷い目に遭った。それに比べて秀吉は俺を大切に扱ってくれる。健は豊臣家のために尽力することを決めた。
だが、運命は訪れた。
同年2月25日、秀吉が前田利家が挙兵した軍に暗殺された。場所は庚申塚(現在は京都教育大付属養護学校がある)で大雪が降っていた。利家は、万が一に備えて"連判状"に秀吉暗殺に自身と徳川家康が加担している文章を書きそれを後世に残すために隠れた場所に保管するように指示した。
3月1日深夜、家康は五条の橋(現在は松原橋)の上で利家の手で暗殺され、天下統一の後継者は利家となった。家康は腹から血をボタボタ流した。利家は短刀を鞘にしまい、ニタリと笑った。
3月半ば、健は利家を恐れるあまり出奔する意思を固め、中村一氏直属の忍となるため残る意思を固めた龍馬は決別の証として幕末から持ってきた刀を健に渡した。龍馬は亡き秀吉から刀を譲り受けていた。
中村一氏は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。豊臣政権の三中老の一人。
早くから織田氏の家臣であった羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。天正元年(1573年)頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
秀吉の命を受け、石山合戦や天正10年(1582年)の山崎の戦いでの鉄砲隊指揮などで武功をたてる。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに参戦した。同年、蜂屋頼隆の後任として和泉国岸和田城主となり3万石を拝領し、和泉国衆を傘下に、大坂の防衛および来たるべき紀州攻めに備える役割を与えられた。和泉国はいまだ秀吉政権に服属しておらず、紀州の根来衆や本願寺残党勢力により各地を支配され、緊張状態が続いていた。
天正12年(1584年)、正月一日早々から紀州勢により岸和田城への襲撃が行われ、その後も大坂を狙った攻撃が相次ぐが、一氏らはそれらを撃退した。3月22日から大坂および岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同月21日に徳川家康を相手とした小牧・長久手の戦いのために秀吉軍主力が尾張へ向けて出陣した間隙をぬったものであり、秀吉は一旦大坂に引き返すなどの苦戦を強いられている)、一氏は劣勢ながら岸和田城を守り切り、翌天正13年(1585年)の反転攻勢においても主導的役割を果たした。
天正13年(1585年)近江国水口岡山城主になり6万石を拝領、従五位下式部少輔に叙任された。天正18年(1590年)の小田原征伐においては羽柴秀次隊の先鋒を務め、ほぼ単独で松田康長の守る山中城の主要部分を攻略。この功により戦後、関東に移封となった家康の抑えとして駿河府中14万石を拝領する。また、文禄4年(1595年)駿河直領(蔵入地)の代官として駿河一国を任され、慶長3年(1598年)三中老の一人に任命された。しかし三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は静岡市の臨済寺にある。
合戦には弟の中村一栄や、家督を継いだ長男の中村一忠が出陣し、美濃で戦った。戦後、その戦功によって伯耆一国米子城17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、慶長14年(1609年)に一忠が急死。跡継ぎのいなかった中村家は断絶。江戸幕府により改易された。
「宮本武蔵になるわけじゃないんだから、1つで十分じゃ」
2人はそれぞれの道は進んでいった。
4月10日
健は鴨川近くの桜を眺めてから、東寺近くのアジトに戻ると仲間の
伊兵衛は利家の命も狙っていた。
「三成を倒せたんだ!利家だってきっと倒せるはずだ!」
「復讐なんてもうやめろよ!」
健は伊兵衛を叱咤した。
それから日がたち、利家の部下である
円業は室町時代の人間だが、青い彗星が落ちたことでこっちの世界にやって来た。
健が1人秀吉の仇を取るため襲撃をかけるが、それと同時に一氏からの命令を受けた龍馬が手下と共に利家暗殺のため行動を開始。一氏は自身が秀吉の後継者として天下を統べる存在として利家暗殺を企てていたのだ。だが一氏から口封じのため龍馬は竹藪で吹き矢で殺されかけるが利家の暗殺も失敗。
龍馬は捕まり拷問を受けることとなってしまう。
一氏は水責めを行った。
水責めとは、水を顔にかけ続け、または多量に飲ませるといった方法による拷問の総称。古来洋の東西を問わず様々な方法が考案されてきた。窒息させる効果と、冷たい水で体温を奪う効果がある。
龍馬は密室や箱に閉じ込められたまま、その中に水を入れ続けられた。脱出できない限り、溺死と隣り合わせの状態だ。
飛鳥は健に龍馬を助けたら後々で面倒なことになるからやめろと忠告するが健は龍馬を助け出しアジトに運び入れる。だが飛鳥の杞憂は現実となってしまい、一氏は龍馬の愛する恋人、お龍を人質に取ったのだ。
「このまえ、桃色に輝く彗星が落ちてな?そのとき、江戸ってところに行ってきた。西郷とかいう奴、若いのになかなかやりおる」
家康が死んだので江戸幕府は開かれないのでは?と、健は思ったが息子の秀忠が江戸時代を開いていた。
4月20日
健は三条河原で磔刑されることとなった。
そこで龍馬は聖なる魚籠の存在を思い出し、鴨川に赴いて釣りをした。サツキマスを釣り上げ魚籠に入れたが何も起こらなかった。日本の固有亜種でサクラマスの亜種とされる。降海型や降湖型はサツキマス、河川残留型(陸封型)はアマゴと呼ばれる。サツキマスとアマゴを比べた場合、大きさや模様が大幅に異なることが多く、一見すると別の種に見える。本来、日本海側や琵琶湖には生息していないが、無秩序な放流により福井県や富山県の日本海側の河川にも生息する。
しばらくすると今度はオオサンショウウオが釣れた。
日本列島南西部(岐阜県以西の本州、四国、九州の一部)における固有種である。和歌山県の個体群は過去に人為移入された個体に由来していると考えられている。青森県から鹿児島県にかけて捕獲例はあるが、誤認されたチュウゴクオオサンショウウオも含め人為移入と考えられている。 また、京都市域における外来種によるオオサンショウウオの遺伝子汚染の実態調査により、賀茂川では在来種は絶滅した可能性があり、別水系の上桂川でも雑種化が進行していることが確認された。
獲物を魚籠に入れると弓矢に姿を変えた。
🏹角槻弓 《つのつきゆみ》 - 田村語りおよび坂上田村麻呂伝説で藤原俊宗が使用した弓。また『田村の草子』『田村三代記』などでは神通の鏑矢を通して親子の確認がおこなわれる。
龍馬は健の処刑直前に黒い馬で駆けつけて矢を放った。1本だった矢が、2本、3本と増えて数え切れないほどになり、敵を全て射抜き、健を助けることに成功した。
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