それからというもの、与一の気配が付きまとって離れない。

 鈴の音。律儀に揃えられた履き物。それだけではない。この座敷に見えない何かがいるような、そんな気配。今も食卓の上に置いた紙切れが、風もないのに舞い落ちる。まるで、誰かが横を通ったときの勢いで飛んだかのように。

「……いい加減にしろよっ!」

 思わず、声を上げていた。薄気味が悪い。

 俺は軽く風呂にでも入って、気分を落ち着かせてから寝ようと思った。立ち上がると、洗面所へ向かう。着物を脱ごうとして、ふと視界の端に入った鏡に目を疑い、手を止める。鏡に目をやると、そこには血だらけの自分の顔があった。割れた頭部から、血が滝のように流れ、その間から覗く目は、見開いてこちらを真っ直ぐに睨んでいる。

 ……違う。自分の顔じゃない。これは……、与一の顔……。

 あの夜、滅茶苦茶に頭部を殴打して殺した、忘れもしない……自分が殺したのだから……与一の死に顔……。

「うわああぁぁぁっ!!!」

 思わず、後ずさって鏡から身を離した。

『ねぇ……』

 鏡の中の口が、ゆっくりと動いた。自分のものとは違う動きをしている。

『僕らは双子。産まれたときも一緒なら、死ぬときも一緒だよね?』

 微笑むような口元で、血だらけのその男は告げた。


* * *


 ……もう、駄目だ。精神は限界に近付いている。外にいても家にいても、あいつの気配が付きまとう。

 なんで、俺が行ってもいない場所で俺を見たという人がいるんだ。なんで、物の位置が勝手に変わってるんだ。なんで、自分以外には誰もいないのに、夜に、障子に似たような人影が向き合うようにして二つ並んでいる?

 家の中だけじゃない。それは、たびたび俺の前に現われた。気が狂いそうだった。もう、どこにも逃げ場はない。もう、何も考えられない。俺は一日を家の座敷でただぼんやりと過ごしていた。

『……双子はいつでも一緒だよね?』

 どこからか、あいつの声が聞こえる。

『だから、死んでも一緒。そうだよね?』

 繰り返し繰り返し、こんな言葉を囁いている。

 ……ああ、五月蝿い五月蝿い五月蝿い!

「黙れ! いい加減にしろ!」

 俺は耐えきれずに立ち上がると、声の出所を探す為に、部屋を歩き回った。最早、人ではない与一を黙らせることが出来るのかどうかは甚だ疑問だが、行動せずにはいられなかった。

 障子を開けて、外に耳を傾けてみる。声の大きさは変わらない。部屋の端から端へと移動する。声の大きさは変わらない。

「畜生っ! いったい、何処にいる!?」

 俺は玄関へ向かった。やはり声の大きさは変わらない。そして、次に洗面所へ向かう。風呂場の戸も開けてみるが、やはり変わらない。何処へ行っても、声は近くもならなければ、遠くもならない。まるで、変わらないのだ。

 いくら、たいして広くない家とはいえ、声の聞こえる大きさが変わらないわけはない。すぐ近くに与一がぴたりと寄り添って声を発しているような薄気味の悪い感覚。そう。まるで、すぐ傍に与一がいるような……。

「まさか……」

 そう思った瞬間、気付いてしまった。声が何処から発せられているかを。

『ふふふ……』

 与一が小さく笑う。

 そう、その声は自分の口から出ていた。与一は、俺の口を使って喋っていたのだ。自分から出ている声なのだから、移動しても声の大きさが変わらないのは当然だ。思わず口を押さえた。しかし、それも何の意味もなく、口からはなおも、自分の意思とは無関係に声が紡がれる。体中に冷や汗が流れる。

 ふと、背後から視線のようなものを感じ、何も考える暇もなく、俺は素早く振り返った。振り向いた先には鏡があり、鏡に映った自分の顔と目があった。何故か、うっすらと笑っている。

 ――違う。あれは俺じゃない。

 与一だ。

 与一が俺を見て、怪しげな笑みを浮かべている。それは、まるで黄泉の国へと誘うかのように。

「うわあああああああ!!」

 俺は思わず、狂ったように叫んだ。

 ――いや、本当に狂っているのかもしれない。死者が現れる筈なんてないのに。

 俺には与一の存在が赦せなかった。常に俺の一歩先を歩き、俺の欲しかったものすべてを持っていた与一。そんな与一と双子の兄弟であることで、俺はどれだけ引け目を感じたことか。

 与一を殺し、もうそんな苦悩も感じることはないと思っていた。なのに、死んでもなお、俺を苦しめるつもりなのか。

 与一の声なんて聞きたくない。与一の顔なんて見たくない。俺の前から失せろ。


 ……消えてしまえ。


 俺は部屋にあった燭台を手に取った。ずっしりとした重みのある燭台で、あの時と同じように、鏡の中で微笑む弟を殴りつけた。勿論、鏡は音を立てて割れ、蜘蛛の巣のようなヒビが入った。

 しかし、まだ鏡は与一の姿を映している。俺は再度、燭台を振り上げた。何度も何度も繰り返し叩きつける。鏡はついに粉々になり、破片は床の上に散り散りになった。与一の姿が見えなくなり、俺は荒い呼吸を整えながら、安堵する。

『……ふふ……』

 しかし、それも束の間だった。与一は、また人の口で笑う。小馬鹿にするかのように、クスクスと笑っている。

 ……ああ、もう苦悩することはないと思っていたのに。死んだ後も双子の弟に苦しめられる羽目になるなんて。俺はどうにかして、弟の存在を自分の前から消し去りたかった。

 思えば、生まれた時から俺の人生は双子の弟に支配されていたのだった。俺が生を赦されたのも、弟の所為によるものだった。そんな俺を、今度は黄泉の国へと道連れにするつもりなのか。

 闇から現われた、血まみれの赤い手が、俺を掴む。

「黙れ黙れ黙れ黙れ!!!」

 俺は再び、燭台を振り上げた。

 そして――。


 後に残ったのは、真っ暗な闇だけだった。


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