第X話 嫌い

 用意されたパジャマを着てリビングに戻ってくると、普段咲希先輩が寝ているであろうベッドの隣には絨毯を折り畳んで厚みを出し、その上にバスタオル並みに薄い敷布団というあたかも“急遽用意しました感”が凄い寝床が敷かれていた。

 今の時期は冬真っ只中で、こんな寝床では寒過ぎて例え睡眠薬を飲んでいたとしても眠る事なんて出来ないだろう。まぁ仮に眠れたとしても、目を覚ます事は無さそうだが。


「あっ……ごめん、まさかたすくんが泊まるなんて想定してなかったから、こんな貧相なベッドしか用意出来なかったの」

「そう、ですか」


 申し訳なさそうにそう言う咲希先輩に、俺はその綺麗に整ったリビングには似合わない貧相なベッドを見つめながら頷いた。

 ——パジャマと下着はちゃんと男物を用意してたくせに、か?


「私がこっちで寝るから、たすくんはベッドで寝て良いよ」

「いえ、大丈夫です。せっかくんですから、俺がこっちで寝ます」

「えっ、でも……」

「——“人の好意を受け取るのも、社交辞令の一つ”……なんですよね」


 俺はあの激安ラーメン店で咲希先輩から告げられた言葉を、今度は逆に俺が咲希先輩に告げた。

 上司からの配慮を無下にするのは部下として失礼であるし、それ以前に上司が貧相な寝床で部下が温かいベッドというのはそもそも構図的におかしい。

 これは建前で、本音を言うとあれだけ用意周到だった咲希先輩がベッドを用意出来ていない……確かにベッドは服と違ってすぐに用意出来るような物ではないとはいえ、それを抜きにしてもこれはあまりにも不自然だ。咲希先輩に何か意図があるのだとすれば俺がこの寝床で寝る事でそれを砕くことが出来るし、単なる偶然であるのなら社交辞令という言葉で片付けられる。


「——もぉ……わかった、じゃあ私がベッドで寝るからね。でも寒かったりしたら言ってね?」


 咲希先輩は呆れながらも何処か安心しているような優しい表情でそう言うと、俺の横を通り過ぎて脱衣所へ足早に向かっていった。

 咲希先輩のリアクションは少々意外だった。てっきり意地でもベッドで寝かせるつもりだと思っていたのだが……やっぱり俺の考え過ぎだったのだろうか?

 女というのは何を考えているかわからない、だから関わる際はどんな小さな行為にも常に警戒しなければならないのだ。何気ない行動ですら訴えられれば男側が負けるこの世の中では特に。


「はぁ……しんど」


 咲希先輩が脱衣所に入っていったのを確認すると、俺は寝床に寝転がりため息を吐きながら本音をぶち撒ける。

 咲希先輩の家は内装的にも広くて家具もそこまで多い訳ではないのに、謎の圧迫感を感じる。しかも相手は女であり上司である為、楽な体勢になっていても身も心も全く休まらずずっと気が張っている。

 今この瞬間、俺は1日でも泊まる事にした自分を恨み、そして後悔した。家に帰ってもサキが居る為面倒な事に変わりは無いが、不思議とアイツには気を張らなくて済むのだ。


「……てか何で俺こんな気を遣ってんだろ。別に好きでもねえ、寧ろ嫌いな女に」


 ふと、我に帰った。

 ずっと社交辞令として気を遣ってきたつもりだったが、今の俺はプライベートであり、それは咲希先輩もそうだ。つまり今の俺達は上司と部下ではなく歳上の女と年下の男でしかないのだ。

 そもそも俺が咲希先輩を内心嫌っている理由……実は俺には咲希先輩と同い年くらいの姉がいるのだ、名は瀬里香。

 瀬里香は恵まれた顔によってアイドル活動をしており、バラエティ番組にも何度か出演しているらしい……まぁそんな事はどうでもいいが。まぁ咲希先輩からすればほぼ八つ当たりみたいなものなのだが、同い年という事も相まってどうしても瀬里香と重ねてしまうのだ。


 ——俺が独りで寂しい寂しいと嘆いている間に、自分の夢に向かって人前で笑顔を見せていた……妬ましくて大嫌いな姉と。

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