第IX話 社会人のスキル

 “辺りにカップルがいるから”というよくわからない理由で手を繋ぎ、そのまま咲希先輩の自宅まで歩いてきた。咲希先輩の自宅は、職場では上司を務めているとは思えないほど普通のアパートであった。まぁ俺の住んでいるアパートに比べたら綺麗であるが。

 ——ていうか、何で今日は咲希先輩の家に泊まる事になったんだっけ。


「ちょっと散らかってるけど上がって!」


 いつの間にか俺から手を離していた咲希先輩は玄関の扉を開けながらそう言ってきた。


「……お邪魔します」


 俺は少し頭を下げながら言うと、玄関から咲希先輩の自宅へ入っていった。

 咲希先輩の自宅はアロマを焚いているのか甘い香りが漂っており、家具や物もきちんと整理整頓されて清潔感のある内装だった。俺の借りている部屋は整頓している訳ではないがそもそも家具が少ないので自ずと整っているように見える故、不思議と咲希先輩の自宅に親近感が湧いた。


「うわっ、これ消し忘れちゃってたのぉっ!?」


 リビングに来た途端、咲希先輩は驚きと焦りの声を出して加湿器のような機械に駆け寄るとそれの電源を切った。どうやらこの甘い香りの発生源はアレのようで、家を出る時に消し忘れたみたいだった。


「別に今は消さなくてもいいんじゃないですか?」

「ううん、これは寝る時に付けるの」

「加湿器じゃないんですかそれ」

「そうなんだけど、これは良い香りを出すヤツなの。私、全然寝付けないタイプだからこれが無いと寝れないの」

「そうだったんですか」


 短時間であれば何ともないが、長時間この香水みたいに甘い香りが充満する空間に居たら体調が悪くなりそうだ。そんな空間でないと眠れないだなんて、一体どんな体質なんだ。


「えーっと、とりあえずお風呂沸いたら先に入っていいよ」

「あ、はい。わかりました」

「それに、いつまで立ってるの? 何処でも構わないから座りなよ」

「じゃあ失礼します」


 俺は咲希先輩に言われるがまま、その場に座り込んだ。晩飯にあの量のラーメンを食べたからか、座った途端に眠気が襲いかかってきた。しかし幾ら何でも地べたに寝るのは失礼に値する……そう思い、俺は無理矢理重い瞼を開け続け、不意に寝てしまわないよう適当に目をキョロキョロしたりした。

 

「さてたすくん、お風呂に入ってきちゃって」

「え、まだ沸けてないと思うんですけど」

「水代節約の為に、半分くらいお湯が溜まったらもう止まるようにしてるの。あ、でもシャワーは幾らでも使っていいからね。因みに、バスタオルとかパジャマとかは後で持っていくから気にしなくていいよ」

「……わ、わかりました。じゃあお先に」


 俺はそう言ってリビングを出ていき、脱衣所を見つけるとそこで服を脱いでバスルームにて半分しか溜まっていない浴槽に浸かろう……と思ったが、ここは他人の家。流石に身体を洗ってから入るべきだと思い、俺は椅子に座ってシャワーを浴びる。

 浴びている最中、脱衣所の扉が開く音がシャワー音に紛れながらも聞こえてきた。恐らく咲希先輩がバスタオルとパジャマを持ってきてくれたのだろう。


「あれ、たすくんって最初に身体洗う派?」


 扉の向こうから、咲希先輩の問う声が微かに聞こえてきた。


「え、あ……はい」


 普段は最初から浴槽に浸かるタイプだが、それを言うと印象が悪くなるような気がしたので咄嗟に俺は嘘をついた。


「そっか。まぁ時間気にせずゆっくり浸かってねー」


 咲希先輩のその声が聞こえた次の瞬間、脱衣所の扉を開ける音と足音がシャワー音に紛れて聞こえてきた。恐らく咲希先輩が脱衣所から出ていったのだろう。

 一旦シャワーを止め、髪を洗おうとシャンプーの容器が置かれた場所に目を向けると、俺は視界に映った光景を思わず二度見した。


「こ、これは……」


 高級感のあるシャンプーとトリートメントの容器、そしてよくCMで見るような(最近流れてるのかわからないが)ボディソープの容器。これだけ見れば普通の光景なのだが、その横には特撮ヒーロー……今日俺が急遽アフレコしたあの“ツヴァイク”がプリントされた、所謂が置かれていた。それだけは殆ど使われた形跡が無いのも相まって、異質な雰囲気を放っていた。

 予想外にして意味不明な光景に、俺は思考停止してその場で暫くの間硬直し、余計な詮索をしてしまっていた。“客人はこれを使えという事なのか”とも考えたが、恐らく一回しか使ってないんじゃないかと思うくらい使用感が無いし、咲希先輩に隠し子がいるという訳でも無さそう……いやそもそも仮に居たとしたら尚更使われた形跡が無いのも謎だ。

 ていうか何で俺他人のバスルームでこんな悩んでるんだ、と無駄に考える自分が馬鹿馬鹿しくなり、普通のシャンプーを手に出して髪を洗い始めた。



 髪と身体を洗い、浴槽に浸かった後、幼児用シャンプーに対する疑問を胸に秘めたまま脱衣所に出る。目の前には先ほど咲希先輩が置いていった大きめのバスタオルとパジャマがあった。


「……うーん」


 俺は唸り声を上げながらもバスタオルを手に取り、身体を拭き始めた。

 ふと、パジャマに目を向けた。てっきりユニセックスのジャージとか普通の白Tシャツとかだと思っていたが、男性が普段私服として着ていても違和感なさそうな服であった。その隣にはトランクスのパンツも置かれていた。

 先程からずっと思っていたが、ずいぶん用意周到な気がする。如何なる場面において臨機応変に対応出来るのは社会人として必要なスキルではあるが、バスタオルはともかく男物のパジャマ……それに加え、男物の下着まで用意出来ているのは不自然だ。これらの服を咲希先輩が普段着ているようには思えないが……。


 ——流石に、考え過ぎか。


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