第8話 黙って、溜まって

 芽理の浮気現場をこの目で見てしまった俺は、別に動揺する事もなくあくまでハッタくんとして芽理達に接した。


「大変よな、こういう着ぐるみに入ってるオッサンって……」

「あ! あれ乗ろうよ!」

「あ、ちょ待てよ!」


 芽理は当然目の前のハッタくんが俺だという事に気付かないまま、何処かへと走っていった。

 大学生活で垢抜けたとはいえ、当時は思春期だったとはいえ……俺はあんな女の事を好きだと思っていたのか。今にして思えば、付き合わなくて正解だったかも。

 ——とはいえ、幼馴染ゆえに昔からアイツの事を知ってた俺からすると少しショックだ。あんなに笑顔が可愛くて純粋無垢だった女の子が、今じゃ男遊びに夢中なクソビッチだもんな……はぁ。

 しかしこうして浮気現場を間近で見ると、少し優に同情してしまう。父親の会社が倒産して確定で大学に通えなくなり、唯一の救いである彼女にも浮気され……あの頼みを了承しておくべきだったか。


「あぁあもう……考える事多いな最近……!」


 俺は着ぐるみの中で、外に漏れないような小さい声で感情を吐き出す。

 サキが同棲する事になってからというもの、様々な事がこの短期間で頻繁に起こるようになった——まるで、物語が始まったかのように。



 ——昼休憩にて、俺は咲希先輩に呼ばれてオフィスへ戻ってきていた。昼休憩のオフィスには誰も居らず、従業員はというと昼飯を食べに園内のレストランへ行っている。


「うーん……痣、朝よりかはマシだけどまだ治んないね」


 咲希先輩はガーゼを剥がし、頬の痣を見てそう言う。

 あれから、芽理と知らんチャラ男に遭遇する事は無かった。恐らく午前中に帰ったんだろう……待て、今日って平日だよな、大学って平日の午前中に行かなくていいのか?

 大学のスケジュールはわからないが、学校が休みなのかそれともサボったのか……まぁ恐らく後者だろうな。


「……たすくん、聞いてる?」

「え、あ、すいません……ちょっとボーっとしてて」

「ねぇ、どうしたの? なんか今日のたすくん変だよ?」


 咲希先輩は俺の顔を覗き込むように見つめてそう問う。

 精神状態が不安定だと、普段の行動に支障が出るらしい……俺としては無自覚なのだが、やっぱり他人から見ると明らかなのだろうか?


「……そうですか」

「“そうですか”じゃなくて! 何か嫌な事でもあったのなら、どんな内容でも相談に乗るよ?」

「…‥じゃあ、幾つか」

「うん!!」


 俺の秘めたる思いを打ち明けようとすると、何故か咲希先輩は嬉しそうな表情に変わった。やっぱりこの人、他人の不幸が蜜の味だと思ってるタイプだ。


「——もし10年後、自分が死ぬって決まってたら……どうします?」

「え? あ、そういう感じ?」

「はい……だから前にも言ったじゃないですか、意外としょーもないって」

「ううん、しょーもないなんて思ってないよ。ただ何かこう……恋愛相談的な感じだと思ってたからさ」

「……そうですか」


 ——まぁ悩みの中には恋愛相談的な感じなものもあるのは強ち間違ってないのが何とも……。


「うーん……その未来って、変えられないの?」

「変えられるんじゃないですか」

「そっか。じゃあ一つ質問、たすくんは私に死んで欲しい?」

「……いや」

「じゃあ生きてよ」

「え?」

「たすくんが死んじゃったら私多分めっちゃ悲しむと思う。悲しくて悲しくて……天国まで追いかけちゃうかも」

「……そうですか」


 咲希先輩のそんなまともじゃない返答は、当然俺の悩みというか疑問を晴らしてくれる事は無かった。まぁあまり期待はしていなかったが。


「大体、たすくんはまだお酒も飲めない子なんだからそんな事気にしなくても大丈夫だよっ!」


 咲希先輩はそう言うと、オフィス内に誰も居ないのを良いことに割と強い力で俺を抱き寄せてきて、まるで我が子に対するようにがしゃがしゃと頭を撫でてきた。


「ちょっ!何してんですか先輩っ!?」

「……ごめん。ちょっと踏み込んでみた」


 我に帰ったのか咲希先輩は少し恥ずかしげな声でそう言うと、俺の頭から手を離す——が、抱き寄せたまま動こうとはしなかった。


「人戻ってきたら騒がれますよ」

「大丈夫、昼休憩終わるまでまだ時間あるし」

「いやそういう問題じゃなくてですね」

「——たすくんは歳上のお姉さんにこうされるの、嫌?」

「嫌っていうか……恥ずかしいです」

「ん? どれどれ〜」


 俺の言葉を聞くと、咲希先輩は俺の顔を覗き込むべく、自身の顎を俺の肩に乗せてくる。俺は自身の表情を見せない為に顔を背ける。

 ——別に嫌悪という訳ではないが、鳥肌が立つ。


「あぁんもう……たすくんの恥ずかしがってる顔、見たいのにぃ」

「何も面白くないですよ、俺の顔なんて」

「そう?可愛いと思うけど」

「そんな事無いですよ」

「——あれぇ……? いつもなら“そうですか”って言うのにな〜……?」


 咲希先輩は俺の耳元で煽るように囁く。

 コイツ、俺が後輩で先輩に太刀打ち出来ないからって……ここで先輩としての圧力を利用してくるのは卑怯だ。


「……」

「——ごめん、ちょっとやり過ぎた……」


 沈黙した事で俺が怒っていると判断したのか、咲希先輩は謝ると腕を離して俺を解放する。


「俺達はあくまで先輩後輩の仲です。そのラインを超えるような事は……控えてください」

「う、うん……わかった」

「じゃあ戻ります」

「あ、待って!」


 俺はオフィスから出ようとすると、咲希先輩に呼び止められる。


「なんですか」

「——ガーゼ貼るよ。まだ治った訳じゃないし……だから、こっちおいで」


 俺は自身の頬にガーゼが貼られていないことに気付き、仕方なく咲希先輩の元へ歩いていった。また抱き寄せられるんじゃないかとヒヤヒヤしていたが、流石に2回目は無かった。


「……それで、他には無いの?」

「何がですか」

「相談。ほら“幾つか”って言ってたから」

「ああ……実は午前中、俺が学生の時に好きだった女子が居たんですよ。まぁ着ぐるみ着てたんで向こうは気付かなかったみたいですけど」

「その子の事、今も好きなの?」

「いえ全く。それにもう……アイツは変わってしまいましたから」

「そっかぁ。その変貌具合にショック受けちゃったんだ?」


 まだ詳しく言っていないにも関わらず、咲希先輩は俺の心情を言い当てる。


「何でわかったんですか」

「だって女の子は、男が絡むと変わっちゃうんだよ……良くも悪くも、ね。それに、他人からの見え方は悪くなっちゃうね」

「……そうですか」


 咲希先輩のその言葉は、まるで咲希先輩自身に対してにも言っているように思えた。

 でも確かに、芽理は優と付き合い始めたであろう頃からスキンシップが増えていたような気がする。同時に可愛さも増していた……と思っていた。でもそれが優と付き合い始めたからだと知った上だと、あまり良い変化とは言えない気がする。


「……はいっ、終わり!じゃあ午後も頑張ろっか」

「……はい」


 俺はガーゼが痣を覆うように貼られている事を確認すると、頷いてオフィスを出ていった。



 それから着ぐるみを着て過ごし、結局芽理達の姿を見る事は無いまま、退勤時間を迎えた。今朝はサキと喧嘩してしまった為、帰るのが気まずい……そういう日に限って、何で時は過ぎるのが早いんだ。

 しかし着ぐるみって、寒い時期だと良いなんて思ってたが……隙間から冷たい風が入ってきて結局地獄であった。もう2度とやらないも胸に誓い、ため息を吐きながらオフィスに戻ってくると、二つの人影があった。


「あれは……」


 人気の無いオフィス内の人影の正体は、1人は咲希先輩で、もう1人は咲希先輩より歳上の数少ない男性従業員だった。

 どうやら2人は何かを話しているようだが……咲希先輩の方はどこかつまらなそうな表情を浮かべ、男性従業員の方はどこかよそよそしかった。何故か俺は物陰に隠れて盗み聞きをした。


「それで……咲希さん」

「なに?」

「単刀直入に言いますね、俺と……付き合ってください!!」


 俺は予想外の会話に声が出るのを必死に堪えた。なので心の中で叫ばせてもらおう。


 ——ぇええええええええええ!?


 いや確かに咲希先輩は可愛らしい顔立ちをしている為、振り返らない男は居ないだろうが……まさか告白の現場に居合わせるとは思わなんだ。


「——ごめんなさい」


 俺は咲希先輩の予想外のような、想像通りのような返答に声が出るのを必死に堪えた。なので心の中で叫ばせてもらおう。


 ——ぇええええええええええ!?


 いやそこは断らないだろ!? まぁ確かに好きでもない男と付き合うと後が大変だが……向こうは勇気出して告白したんだぞ!?

 うわ……ちょっと可哀想だ……。


「……そう、ですよね。何となくそんな気はしてました」

「ごめんね。私、恋愛とか興味ないんだ」

「えっ、咲希さんはてっきり侑に思いを寄せてるもんだと」

「だって……たすくんは、私の弟だから」


 咲希先輩が相手の男に言った言葉は、恐らく俺と相手の男を困惑させた。


 ——俺が、咲希先輩の弟……?

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