第7話 傷ついて、気付いて

 ——その日、夢を見た。


 俺が真っ暗闇に独りぽつんと立っていて、遥か遠くに光がある。手の届かないところにある筈なのに、その光が“温かい”とわかる。

 夢というのは、その人の心情を様々な形に変えて見せるものらしい。


 ——もしこの状況が俺の心情だというのなら……俺は、



「起きなさい、もう朝よ」


 サキのそんな言葉で、俺は夢から覚めて重い瞼を無理矢理開く。目の前には、俺の顔を覗き込むように見下ろすサキの顔があった。


「……サキ」

「何かしら」

「……おはよう」

「っ!? え、ええ……おはよう」


 俺の何気ない言葉に、サキは何故か動揺しながら返す。

 ——久々に誰かに“おはよう”って言って、返ってきた気がする。


「何だよ?」

「い、いえ? 貴方にも“挨拶をする”という脳があった事に驚いていたのよ」

「挨拶は生きていく上での基本だろ……」

「——私、貴方に一度も“ただいま”を言われた事無いのだけれど?」

「それはっ……あぁ、そうだな」


 俺は釈明しようと口を開いたが、言い訳をするのをやめて素直に頷いた。

 今まで家に帰ってきても誰も居なかったのが当たり前だった俺にとって“ただいま”という言葉はただ虚しいだけのものだった。誰も居ない家で言っても返ってくる訳が無くて、ただ自分の孤独さをより強調するだけで……寂しくなるのだ。

 ——誰かと遊びたくても、友人なんてもう自分から居なくしてしまったから。


「あら意外ね。いつもの貴方なら醜い言い訳を垂れ流すのに」

「事実だしな」

「ふぅん? まぁいいわ、朝ご飯なら出来てるから食べなさい」


 サキに言われ、俺はベッドから身体を起こすと、テーブルの上にはハムと目玉焼きが乗せられた食パンが皿の上に置かれていた。


「……いただきます」


 俺は手を合わせると、パンを手に取って口いっぱいに頬張る。こんがりと焼かれたパンとハムに半熟の黄身が割れ、サクサクという小気味良い音と食感と共に卵黄のまろやかな味わいが口に広がる。そこにハムの塩味がアクセントとなって“食べたい”という欲を掻き立てる。


「熱さはどう? 舌は火傷していないかしら」

「大丈夫」

「そう。なら良いの……ほら、貴方は猫舌で料理が熱い如きで泣き叫ぶでしょう?」


 サキは最後にまるで思い出したかのように余計な事——全ての猫舌の人を敵に回す台詞を言い放った。


「いい加減、毒を吐くのめたらどうだ?」

「——じゃあ貴方も、“死にたい”って言うのめたらどうかしら」

「っ……!?」


 その言葉を発した時のサキの声は、いつもより一段と低かった。表情も目から下はいつもの澄まし顔だが、その目には底知れぬ未だかつてない程の“怒り”が伺え、睨みつけてくる。

 俺はまるで蛇に睨まれた蛙のように硬直してしまった。その怒りはもはや殺気に発展しそうで戦慄……情けない言い方をするのなら、怯えてしまったのだ。


「ねぇ教えて。どうして貴方は私の冗談に本気で答えるの?」

「……それは」

「先に言っておくけれど、ボケのつもりなら全くもって面白くないから」

「——ボケじゃねぇよ」


 俺は内心怯えながらも、サキの言葉に本音で返す。


「は……?」

「だが誤解しないでほしい、もちろん死にたいって訳じゃねぇ……けど、ぶっちゃけ死んでもあんまり悔いは無いっつーか」

「貴方……それ本気で言っているの?」

「……」

「答えなさいよッッ!!」


 サキは俺に怒号を浴びせると、胸ぐらを掴んで壁に叩きつけてきた。本当にこのまま殺されてもおかしくない勢いだった。

 にも関わらず、俺は何も言い返せなかった。


「……」

「何故私が毒を吐くか……? そんなの、“生きる事”を軽視している貴方が許せないからよッッ!!」

「……」

「世の中には生きたくても生きていられない人や、生きる事を許されない人だって居るのよ——未来の貴方もそうだった……!」

「え……?」


 サキの目は殺意の籠った怒りではなく、いつの間にか他人を思う悲しみへと変わっており、涙が流れていた。


「未来の貴方は、普通の人として生きる事を許してもらえなかった……!」


 そしてサキの告げた一言で、未来の俺がどんな末路を辿ったのか……なんとなく察した。


「……そうか。俺、未来で死ぬのか」

「ッ!!」


 そう呟いた瞬間、サキの目は再び怒りへと変わり、俺の頬を全力で殴ってきた。あまりの強さに、俺は地べたに手をつけた。


「どうしてなの……!? 何でそんな簡単に死を受け入れてしまうの…!? どんなに死を望んでいたとしても、結局最期には生きる事を渇望する……少なくとも満足して死んでいく事なんてない、それが人間でしょう!?」

「……」


 俺は何も言い返さずに無言で立ち上がり、仕事に向かう為の準備を始める。歯を磨いて、制服を着て、時間を確認して……この時の空気は異常で、今までで味わったことの無いほどの気まずさだった。

 

「——夜、雪が降るらしいわよ」


 家を出ようと玄関に手を掛けた時、サキが俺を引き止めるようにそう告げた。


「そうか。じゃあちょっと遅くなるかもな」


 俺はサキにそう返すと、そのまま外へ出て仕事場に出向いて行った。

 外は本当に雪が降るのかと疑うほど……そして、俺の気持ちとは真逆に雲一つない晴天であった。世界を照らす眩しい太陽が、まるで曇った心の俺を励ましているように感じた。



「ちょぉおっとぉ!? たすくんどうしたのその痣!?」


 バスに乗り込んだ途端、既に乗車していた咲希先輩が俺の顔を見ていつも通り、周りの事など気にも留めずそんな声を上げる。

 ——痣が出来るほどだったのか、サキの拳は。


「……ちょっと朝、寝ぼけて転んだ拍子に運悪く頬を強打しまして」

「えぇ……本当に大丈夫? 最近のたすくんいくら何でも不運過ぎないかなぁ? ちょ、とりあえず隣座って」


 言われるがまま、俺は隣に座らされる。すると咲希先輩は自身の鞄から小さい簡易的な救急箱を取り出して、頬の痣を手当し始めた。


「何でそんなの持ってるんですか」

「だって目の前で怪我してる人を見捨てるの嫌だからさ……あ、ちょっと痛いかもだけど我慢して」


 咲希先輩はそう言って、手当の最後に痣を覆い隠す程の大きなガーゼを押し当て、サージカルテープで貼り付けた。

 仕方ないとはいえ、痣の部分を押し当てられた為相当な痛みが襲ってきたが、流石に成人間近の青年が痛みで声を上げるなんて出来ず、必死に堪えた。


「——うん、これでよし。相当強い力でぶつけたんだね……痛かったでしょ」

「まぁ……それなりに。ていうかこれ目立ってないですか」

「仕方ないよ、でも安心して。上司権限で今日は表に出ないような仕事にしてあげるから……ね?」

「……そうですか」


 優しく微笑むような、少しドヤっているような……どちらとも捉えられる表情をする咲希先輩に、俺はいつも通りの返答をした。



「……」


 葉田中遊園地のマスコットキャラ“ハッタくん”の着ぐるみを着て、風船を片手に園内の目立つ所で俺は突っ立っていた。風船を欲しいが為に近付いてくる子供に、コミカルな動きをしながらそれを渡す。

 ——うん、確かに表に顔は出てないが……これは違うんじゃないか?


 男である俺は基本的にオフィスで仕事をする事がなく、パソコンと睨めっこするような事務仕事は大体女がしている。だが接客も基本的に女がやる為、数少ない男がする仕事と言えば力仕事……テレビ業界で例えるなら裏方の仕事で、オフィスに居ないにも関わらず客に顔を見せる機会は滅多にない。

 ——“やりがい”なんて一切無い、ただ人の笑顔を見るだけの仕事だ。その表情が出来るまでに、どれだけの苦悩や苦労があったかも知らない……無責任な笑顔。


 “世の中には生きたくても生きていられない人や、生きる事を許されない人だって居るのよ”


 そんな仕事中でも、今朝サキに言われた言葉が何度も頭の中から離れなかった。まるで“逃げるな”と言われてるような感覚だ。

 ——そんなの知るか……と、心の中でささやかな抵抗をする。日本の海の向こう側どころか、この日本ですらそんな感じで生きられない人が居るのはもちろん知っている。

 でも、だから何なんだよ……俺には関係無いだろ、他人の事情を持ってくるのは筋違いだろ。


 “どうしてなの……!? 何でそんな簡単に死を受け入れてしまうの…!?”


 生きる事が許されない人が居るから、当たり前のように生きている人生を幸せに感じろ、だなんてふざけんな。そんなに生きて欲しいのなら、今のこの環境を少しでも良く……。


「……!」


 まさか、サキが俺の為に朝飯を作ってくれたり、色々してくれるのは……。


「あー見て見て! かわいーっ!」


 ——やばい、人が来た。俺は急いで気持ちを切り替え、向かってくる人に向けてコミカルな動きをしながら手を振る。


「別にそうでもなくね?」

「いやいや可愛いよ! ねっ、えーっと……名前知らない人!」

「いや知らんのかい、てか人ちゃうやん」

「え、中におじさん入ってるよ、ね!」


 カップルらしき二人組の女はそう言ってハッタくん(in俺)をぎゅっと抱きしめてきた。彼氏とのデートで気分が浮ついてるのか……まぁどちらにせよシラフであれば中々にヤバい奴だ。歳的には俺と同年代くらいだと思うが、何でこう俺の世代はイカれたヤバい奴が多いんだろうか。


「おいおい子供の夢壊すな?」

「あははは!」

「てかマジで芽理のセンスわかんないわ…」

「違うよ逆だよ、みんなが私に追いついてないだけっ!」

「おぉ新時代のその先行くな?」


 あぁうぜぇ、こういう友達以上恋人未満みたいな関係且つ掛け合いするカップル本当に嫌い。お互い一歩踏み出せず、初々しくも甘酸っぱい——そんなカップルだったら素直に応援できるんだが。

 ……ん、ちょっと待て。今コイツ“芽理”って言ったか? 着ぐるみって視界が悪いから人影しかわからない。俺は着ぐるみの中で視界を調節し、ハッタくん(in俺)に抱きつく女を確認する。


「……!?」


 俺の目の前には、確かに芽理が居た。だが大学に入って垢抜けたのか、髪型はパーマがかかってており、服も随分派手な色のものを着ていて、淡く化粧までしている。俺の知っている芽理とは全くの別人と言っていいほど、明るくなった印象を受ける。

 そして隣にいる男は優ではなく、もちろん俺も知らない……恐らく同じ大学のヤツだろう。複数人で遊びに来てるという訳でもなさそうだし、芽理には一応彼氏がいるというのに他の男と二人きり……という事は。


 ——ははーん、これはこれは……中々衝撃的な現場を見てしまったな。

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