第10話(3) マラソン大会

 遠くの方で、ペラッ、ペラッと、紙をめくる音がした。

 不規則に聞こえてくるその音は、遠い昔、子供の頃の記憶が呼び起こす。


 あれは私が、まだ小学校低学年だった頃、熱にうなされていた私の横でお母さんが本を読んでいた。音のしている間は、確実にお母さんがすぐ側にいてくれる。だから私は、その音が好きだった。


 まぶたを開く。


 眠っていた、ようだ。


 場所は分からない。眠る直前に何をしていたかも思い出せない。分かるのは、自分が今テーブルにうつ伏せている事だけ。


 体を起こす。その拍子ひょうしに、掛かっていた毛布がずるりとり落ちた。


 自分で掛けたのか、あるいは……。


「お母さん……?」


 右斜め前に座る女性に、そう話し掛ける。


 先程まで昔の事を思い出していたからだろう。目の前の女性をお母さんだと思ったのは。


「いお、起きたのね」


 ぼやけていた視界が徐々に正常なものに戻り始め、女性の姿をはっきりととらえる。


「ソフィアちゃん」

「よっぽど疲れてたのね。お茶してる間に寝ちゃったのよ」

「え? あ、そうなんだ――」


 そこでふと思う。今何時だろう、と。


「てか、今何時!?」


 一気に思考が覚醒した。


 まずい。今日はバイトがある日だ。どれだけ自分が寝たか分からないが、もしかしたら――


「大丈夫。まだ二時過ぎだから」

「あぁ、そう」


 早坂家を訪れたのは十一時頃。その後に二人でお風呂に入って、部屋着に着替えて、昼食を作りそれを食べ、そしてリビングでお茶、という流れだ、確か。

 なので、どんなに長く見積もっても、私が寝ていた時間は二時間以内。まぁ、昼寝の範疇はんちゅうと言えるだろう。


「何読んでるの?」


 状況を把握した私は、ソフィアちゃんの手の中にある本について尋ねる。


 夢現ゆめうつつに聞こえてきた音の正体は、ソフィアちゃんがそれのページをめくる時のものだったらしい。


「これ?」


 そう言って、ソフィアちゃんが読んでいた本の表紙をこちらに見せてくる。


「あ」


 思わず声が出た。


 見覚えのある表紙だった。というか、ウチにある本のものだ。


「もしかして、いおも持ってた?」

「うん。表紙がまず気になって、手に取ったら、これ、映画化されたやつだって」


 漫画まんが的なというより、イラスト的な表紙の絵に最初に目をかれた。そして、少し長く変わったタイトル。


 この作品が映画化されたものだという事は知っていたが、その内容までは手に取った当時知らなかった。知らなくて良かったと、読んだ今は思う。いわゆる、ネタバレ禁止要素が強い小説だったからだ。

 更に言えば、最後まで読んだ後に、もう一度読み返したくなる、そんな作品でもあった。


「いおは、映画の方は見たの?」

「ううん。本の内容があまりにも良くて、どんな感じに変わってしまうか、少し怖いなって」


 小説は他の媒体ばいたいと違って、ほとんど文章だけで内容を伝えなければいけない。それはとても難しく、またとても素晴らしい事だ。絵で伝えられないからこそ、上手うまく文章に昇華しょうかし切らなければいけない。

 よく漫画と小説を比べる人がいるが、そもそも比べる事自体がおかしい。サッカーと野球ぐらい、その二つは別の存在なのだ。上も下もない。あるとしたら、その人の好みぐらいだろう。

 ちなみに私は、小説の方が好きだ。


「ソフィアちゃんはその本、どのくらいまで読んだの?」

「最後まで。今は二周目してるとこ。なんか、読み返したくなっちゃうのよね、これ」


 やはり、ソフィアちゃんも私と同じ感想を抱いたらしい。


「ねぇ、いおは、この話どう思った?」

「どうって……。いいお話だなって。物語の完成度も高いし、文章も読みやすくて疲れない、それでいていつまでも読み終えたくないような作品」


 本当にいい作品には、矛盾とジレンマが生じる。早く続きが読みたいと思う一方、この作品を読み切ってしまうのが勿体もったいないとも思う。

 なので私は、その手の作品は三日以上掛けて読む事にしている。大切な人からもらったお菓子を、少しずつまむように。


「終わりが明確に分かってる恋愛って、どんな感じなんだろうね」

「え?」

「ほら、この作品って、そういうお話じゃない?」


 確かに、ヒロインの方は、その事をあらかじめ知った上で主人公に近付いてきている。


 別れが近い内に訪れる事が分かっているのにそれでも会いに来る。その気持ちを完全に理解する事は、私には難しい。けど――


「私も同じ立場ならそうするかも」


 しなければいけないという理由とは別に、そうしたいと思い行動に移す。


「たった数ヶ月でも大切な人の隣にいれるなら、私はきっと」

「そっか……」


 私の言葉をめるように、ソフィアちゃんがそうつぶやくように口にする。


「え? 何? ソフィアちゃん、どこか遠くに行く予定あるの?」

「ううん。別に。ただ聞いてみただけ」

「なら、いいけど」


 あせった。


 両親の事もあるし、ソフィアちゃんの場合特に有り得ない話ではない。それだけに、今の話に何か裏があるのではないかと、思わず勘繰かんぐってしまった。


「いおも起きた事だし、お茶入れ直すわね」


 そう言うとソフィアちゃんは、本をテーブルの上に置き立ち上がる。


「うん……」


 二人分のカップを手に、キッチンのある方へ向かうソフィアちゃんの背中を、私はぼんやりと目で追う。


 別段おかしなところはない。


 やはり、先程の話はソフィアちゃんが言うように、ただ聞いてみただけ、だったのだろう。


 前に向き直り、テーブルの上に置いてある本をなんともなしに手に取る。


 しおりはさまっていたページを開く。


 そこには、ヒロインが主人公に真実を告げるシーンが書かれていた。

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