第10話(1) マラソン大会

 マラソン大会当日。天気は快晴。まさに運動日和びよりだ。

 風は少しあるが、気になる程ではない。走りにも影響らしい影響はないだろう。


 土手を下り、川辺に降り立つ。


 体操服姿の生徒達が学年ごとに固まっていた。学年が上がるにつれ、スタート地点の方に近い場所で待機している。すなわち、それがスタート順という事だ。


 一つの学年が出発してから十五分後に次の学年がスタートする形になっているので、私達が走り出すまでまだ三十分以上の時間がある。そのため、特に一年生はおしゃべりに華を咲かせ、休み時間のように騒がしかった。


 かく言う私は、というと……。


 深呼吸を一つ。

 気持ちがわずかに落ち着いた――ような気がする。


 間もなく本番という事で、私は例によって緊張感にさいなまれていた。


 ベストカップルコンテストやスウェーデンリレーの時よりかはまだマシだが、それでも鼓動こどうの速さはいつもの比ではなかった。


「てい」

「――ッ」


 突如とつじょ横から脇腹を突かれ、私は思わず声にならない声を上げる。


 咄嗟とっさに大声を上げなかった自分をめてあげたい。


「何するの!?」


 私は犯人をにらみ、そう抗議した。


「緊張してるみたいだったから」


 全く悪びれた様子なく、ソフィアちゃんがそんな事をのたまう。


 その表情はいたって真面目まじめで、とぼけている感じは一切見受けられなかった。本当にたちが悪い。


「だからと言って、不意ふい打ちは止めて。びっくりするでしょ」

「何言ってるの。驚かなかったら、意味ないじゃない」

「……」


 いやまぁ、それはそうなんだけど。


「練習したし大丈夫よ」

「うん……」


 ソフィアちゃんとは結局五度一緒に練習を行い、五十分もゆっくりしたスピードながら一回だけ走り切った。

 距離は七キロ弱。本番とほぼ同じ長さだ。けど――


「気楽に行きましょ。もしダメだったら、骨は拾ってあげるわ」

「骨って……」


 ソフィアちゃんの大げさな物言いに、私は苦笑いを浮かべる。


 一体私は、これからどこに赴くというのだ。戦地か? ……いや、マラソン大会か。

 たかだが七キロ走って戻ってくるだけだ。何を気負う必要がある。


「ふー」


 と、大きく息を吐く。


 ……よし。


「もう大丈夫。落ち着いた」

「そ。なら、良かった」


 言いながら、ソフィアちゃんがかすかに口角を上げる。

 られて、私の顔にも自然と笑みが浮かぶ。


「あ、そうそう」


 微笑から一転、表情を真面目なものに変えながら、ソフィアちゃんがそう口にする。


「本当に辛くなったら迷わず歩くのよ。無理は禁物。歩いてでも帰ってこればいいんだから」


 それは、菊池先輩にも言われた事だ。


 もちろんそのつもりだが、出来る限り完走にはこだわりたい。文字通り最後まで走り切る、本当の意味での完走に。

 何せこれは、マラソン・・・・大会なのだから。


「と言っても、いおは限界まで頑張っちゃうんだろうけど」


 私の心情を見透かすように、ソフィアちゃんがそんな事をあきれ半分といった感じに言う。


「よくご存知ぞんじで」

「当たり前じゃない。私を誰だと思ってるの?」

「?」


 答えが分からず首を傾げる私の耳に、ソフィアちゃんが顔を近付けてくる。


「いおの恋人でしょ」


 そんな事を耳元でささやき、ソフィアちゃんは悪戯いたずらっ子のような顔で笑うのだった。


 三年生と二年生の姿がスタート地点から消え、女子の先頭が帰って来始めた頃、いよいよ一年生の番がやってきた。


 まずは一組が呼ばれ、号令と共に走り始める。次に二組、その次に三組。そして――


「一年四組、前へ」


 山城先生の声に導かれるように、私達は動き出す。


 並び順は特に決まっていない、適当だ。

 前方には体力自慢か何も考えていない生徒が固まり、後方には体力あるいはやる気がない生徒が固まる。私達はそのどちらでもない、中間層だ。


「位置に付いて」


 その声で、スタートの態勢を取る。


 瞬間、なんとなく周りの空気がぴりついた気がした。


「よーい。どん」


 前方が動き始め、私もそれに続く。


「じゃあ、また後で」


 言うが早いか、ソフィアちゃんの姿が人混ひとごみに消える。


 私とソフィアちゃんではペースが違う。別に仲がいいからと言って、仲良しこよしで一緒にゴールしなければいけないわけではない。少なくとも、私達はそういう関係ではない。


 スタート地点を自身の体が越えたタイミングで、私はストップウォッチモードにしていた腕時計のボタンを押す。


 安物の腕時計に、GPSなんて大したものは付いていない。

 スタートボタンとストップボタンを押してタイムを計る。ただそれだけだ。

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