第8話(3) 長距離走

 そして放課後。私達は早坂家で着替えを済ますと、そのまま外に出た。


 服装は、二人共トレーニングウェア。さすがにプライベートで体操着を着る気にはなれず、服はソフィアちゃんの物を借りた。


 上半身は半袖はんそでのTシャツの上にジャージの上着、下半身はレギンスの上にショートパンツと、寒い季節に対応したちとなっている。


 正直、動いていないと少し寒いが、走り始めれば次第にちょうど良くなるだろう。


 二人の服は色こそ違うが、デザインは同じ。いわゆる、ペアルック状態だ。

 別にいいけど。


 ちなみに、メインの色は私が黒、ソフィアちゃんが水色となっている。レギンスの方は、二人共に黒だ。


 マンションの敷地内で、軽く準備体操をする。

 足首、ひざ、アキレスけん、腰、肩は特に怪我けがをしやすい箇所かしょなので、重点的に行う。


「準備出来た?」

「うん。ばっちり」


 ソフィアちゃんの問い掛けに、私は力強くうなずく。


「じゃあ、いおは私の後ろに付いてきて。止まる時は手上げるから、その場で足踏みね」

「はーい」


 小学生よろしく、私は元気よく返事をする。


 敷地を出て歩道に足を踏み入れたところで、ソフィアちゃんが振り返る。


「行くわよ」

「うん」


 私の返事を受け、ソフィアちゃんが走り始める。

 その後に私も続く。


 ペースは普段私が走っているものよりもやや遅い、一キロ七~八分の間といったところ。


 現状、呼吸は安定しており、疲労も感じない。これなら、いくらでも走れそうだ。

 ……もちろん、実際には無理だけど。


 車道や駐車場の手前では足踏みをしながら、安全第一で初めの十分じゅっぷんを消化する。


「どう?」


 前を走るソフィアちゃんが、こちらを一瞥いちべつしてそう私に尋ねる。


「このくらいのペースだったら、まぁ」


 日頃から週に一・二回は走っているし、まだ余裕だ。今のところは。


「なら、五十分行っちゃう?」

「それは無理」


 走り切れないとかそういう話ではなく、その後の行動ひいては明日の諸々もろもろ支障ししょうをきたす。

 特に明日はバイトもあるので、あまり無理は出来ない。


「冗談よ」


 振り返りソフィアちゃんが、笑う。


 うん。だろうとは思ったけど、一応拒否しておかないと万が一という事もある。相手がソフィアちゃんなら、尚更なおさら警戒が必要だ。


 いくら遅いペースとはいえ、走り続ければそれなりに疲労は溜まっていく。

 走り始めて二十分あまり。体全体にちょうどいい疲労感が広がり始め、ここで足を止めたら気持ちよく終われるんだろうなという弱気な考えがふいに頭をよぎる。


「後十分。頑張がんばれ」


 そんな私の思考を読んだかのように、ソフィアちゃんがこちらを向き、短い言葉でそう発破はっぱを掛けてくる。


「後十分……」


 対して私は、言われた言葉をただそのまま返す事しか出来なかった。


 更にそこから五分が経ち、私の体、特に足が重くなり始める。ぼうというとさすがに大げさだが、それに近いものはある。


 たかが五分、なのに、こんなにも差が出るなんて……。


 残り時間がやけに長く感じる。

 後四分、後三分、後――


 突如とつじょ、前方を行くソフィアちゃんのスピードが緩み始めた。

 それを見て、私もスピードを落とす。


 足を止め、腕時計を見る。


 いつの間にか、走り出してから三十分以上が経過していた。


 残り数分は割と本気で記憶がない。それくらい、いっぱいいっぱいだった。


 とはいえ、やっと終わったぁ……。


 その場にへたり込みそうになるのを、気合と根性でなんとか耐える。


 疲労感相手に、理性と羞恥心しゅうちしんかろうじて勝利を収めた。


「じゃあ、帰ろうか」

「……」


 マンションに向かって歩き始めたソフィアちゃんの背中を、私は無言で追い掛ける。


「距離は四キロちょっと。この調子なら五キロも余裕でしょ?」

「いや、余裕じゃないし」


 プラス一キロという事は、ここから更に七分以上走らなければいけない事になるわけで……無理。というか、死ぬ。


根詰こんつめ過ぎても疲れるだけだし、次は金曜日ね」


 金曜日。つまり、四日後。たしてそれまでに、私の気力は戻っているのか。とりあえず今はエンプティ、からけつだ。


「でも、良かったわね」

「何が?」

「三十分走っただけでこの調子なら、何もせず当日を迎えてたらもっとひどい事になってたわよ、絶対」

「……まぁ、うん。そうだね」


 それは確かに、その通りだと思う。何せ本番は、時間も距離も今の比ではないのだから。


「でも――」


 と、突然足を止めたソフィアちゃんが振り返り、私に人差し指を突き付けてくる。


「当日、本当に辛かったら歩きなさいよ。無理は禁物。分かった?」

「うん……」


 その圧に押され、私はわずかにたじろぐ。


「よろしい」


 私の反応に満足したのか、そう言ってソフィアちゃんがうれしそうに笑う。


 この笑顔が見られただけでも、三十分以上走ったかいがあったというものだ。

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