第20話(2) 体育祭(午後の部)
カランコロンと音を立てて転がるバトンを、すぐに木野さんが拾い上げ、再び走り始める。
幸い、後続との差があった事で、接触等の大きなトラブルにはならなかった。
しかし、秋元さんが作った差はほとんどなくなり、百メートル付近で木野さんは二人に抜かれ、三位まで後退した。
止まった事によるロスもあったのだろうが、何よりバトンを落とした事による精神的なショックが大きかったのだろう。明らかに、走りにキレがなかった。
それでも木野さんはなんとか持ち
「ごめんなさい、水瀬さん」
泣きそうな声で、泣きそうな顔で、木野さんが私にバトンを差し出す。
クラスの順位が掛かったレースだ。自分のせいで負けたらという思いがあるのだろう。
だから、私はあえて笑って言った。
「大丈夫」
「え?」
驚きの表情を浮かべる木野さんの手から、バトンを奪い取る。
一位とは三十メートル程、二位とも二十メートル程の差が付いていた。けれど、焦りはない。私が一位になる必要はない。ただその差を詰めて渡せば、ソフィアちゃんがきっとなんとかしてくれる。つまり――
「大丈夫」
自分に言い聞かせるようにもう一度口の中で呟き、私は前を追い掛ける。
まずは二位の背中を捉える。話はそれからだ。
聞いた話によると、一年生女子に陸上部で短距離を専門にしている生徒は四人しかいない。そして、その全員がアンカーを務めるらしい。
もちろん、他にも足の速い子はいるだろうけど、端から諦める程の実力差がある生徒はこの三走にはいない――はずだ。そして、もっと言えば、三百メートルの走り方を知っている生徒もおそらくはいない――はず。
希望的観測を含めたそんな予想をエネルギーに変え、私は前だけを見て走る。
今は、後ろに追いつかれる事なんて考えない。私は出来るだけ前で、ソフィアちゃんにバトンを渡すんだ。
ソフィアちゃんの教えを守り、最初は速度をセーブして入る。
ハートは熱く、けれど頭は冷静に。
最初の五十メートルで、前二人との差を数二・三メートル程縮める。
僅かな差ながら、それが私に力をくれる。
百メートル。更に五メートル程前との差が縮まる。
なんだろう。こんな時なのに楽しい。クラスの順位が掛かっていて、現時点では負けているのに。この高揚感は何? 歓声のせい? それともクラスの順位が掛かっているから? 分からない。分からないけど――
口元に自然と笑みが零れる。木野さんを安心させようとわざと浮かべた笑みではなく、もっと本能的な、体全体から湧き出るような笑みが。
百五十メートル。明らかに、前の二人が落ちてきている。二位との差は五メートル程。一位との差も二十メートルといったところか。
いける。捉えられる。
二百メートル。二位の背中を捉える。
まだだ。焦る気持ちを抑えて今は足を溜める。勝負は最後の直線。そこで仕掛ける。
そして、最後の直線に差し掛かる。
コーナーを利用して外に
相手も追いすがるが、もう足が限界のようでじりじりと後ろに下がり始める。
残るは、前方二十メートル先にいる一位だけ。体力も速度も体のキレも私の方が上。だけど、三百メートルという距離において、最初に生まれた三十メートルのアドバンテージはやはり大きかった。
追いつけない。足りない。勝てない。私じゃ一位になれない。けど――
「それでいい」
私がここで勝つ必要はない。私はソフィアちゃんが勝つ確率を少しでも上げるために、前との差を詰められるだけ詰める。後は――
「いおー、ラストー」
ソフィアちゃんの声が聞こえた。
ソフィアちゃんが私の事を待っている。
先程とは違う笑みが零れる。嬉しい? 楽しい? とにかく、ポジティブな感情によって生まれる笑みだ。
一位はすでにバトンパスを終えている。その距離は十五メートル程。
「ソフィアちゃん、お願い」
そう言って、前方にバトンを差し出す。
「任せて」
ソフィアちゃんが私からバトンを奪い取る。そして、次の瞬間――
消えた。
いや、正確には凄く速いスピードで走っていったのだが、そう錯覚するくらいその速度は速かった。
トラックの中に入り、肩で息をして膝に手を付きながら、顔だけ上げて私は叫ぶ。
「いけー! ソフィアちゃん! 追い抜けー!」
その時私は、初めて高校で声を張り上げた。
しかし、と私は思う。
ソフィアちゃんも速いが、一位を走る女子生徒も同じく速かった。
本職として、陸上部以外には負けられないという意地もその走りには篭っているのかもしれない。気迫が見ているこちらにまで伝わってくるようだ。
そのため、ソフィアちゃんが五十メートルを通過した辺りでは、二人の差はほとんど変わらなかった。むしろ、少し差が開いているようにすら見える。
どちらも私からしたら異次元の速さだった。
三走に本職の人がいなくて本当に良かった、と私は今更ながらほっと胸を撫で下ろす。
男子同様女子も、アンカーは二人の生徒の一騎打ちとなった。
三位の生徒も決して遅くはないが、前の二人と比べるとその速さは幾分か劣る。多分、追いつく事はないだろう。
ソフィアちゃんが百メートルを通過する。差はやはり縮まらない。
この辺になると、一位のクラスの生徒には安堵が、二位のクラスの生徒には焦りが生まれ始める。応援の仕方にその様子がよく表れていた。
百五十メートルをソフィアちゃんが通過。まだ差は縮まらない。
ソフィアちゃんが二百メートルを通過する。ここでようやく二人の差に変化が見られた。五メートル程差が縮まってきたのだ。
ソフィアちゃんが迫ってきたというよりかは、前の女子生徒のペースが少し落ちてきたという感じだろう。勝たなければというプレッシャーから、若干ハイペース気味の入りだったのかもしれない。
二百五十メートルをソフィアちゃんが通過。ここで更に五メートル程差が縮まり、一位のクラスの応援にも多少焦りが混じり始める。逆にウチのクラスの応援には更に力が篭る。
ソフィアちゃんが三百メートルを通過する。一位との差はほとんどなくなっていた。やはり、前の女子生徒のペースが落ちている。
勝負は最後の直線に。
そこで私はソフィアちゃんの話を思い出す。
人間が全速力で走り切れる距離は三百メートルらしい。つまり、どんなに速いランナーでもペース配分が必要という事だ。そして、三百メートルを超えた後、そこから先に必要なのは根性と速度を乗せる事だという。
直線に入り、ソフィアちゃんの走りが変わる。先程までより力強く、まるで一歩一歩全身を前に押し出しているようなそんな走りに。
一方、前を走る女子生徒の走りは疲労が隠し切れず、フォームも崩れ落ちている。
無理もない。三百メートル以上走ってきた上に、初めオーバーペース気味に入ったのだ。心も体も限界に近いのだろう。
残り五十メートルという所で、外から抜きに掛かったソフィアちゃんがそれまで単独一位だった女子生徒に並んだ。
ちらりと横を見て、女子生徒は最後の力を振り絞るように僅かに速度を上げた。
まさにデッドヒート。合計一キロの距離を走って、残り数十メートルまで一位が分からないなんて。
「ソフィアちゃん!」
私はこの数十秒の間に何度叫んだか分からないその名を、もう一度呼んだ。
それを受け、にやりとソフィアちゃんが笑った。そして――
歓声のヴォルテージがまた一層上がった。
ここに来て、ソフィアちゃんの速度が更に上がったのだ。
二位になった女子生徒をソフィアちゃんが引き離す。彼女にもう追いすがる力はなく、ただその差が開いていく。
推進力を得て、グングン前に進む金髪碧眼の美少女。その口元には笑みが浮かんでいた。
ソフィアちゃんが握り拳を掲げ、ゴールテープを切る。
終わってみれば圧巻のレース運び。一年生に限って言えば、今日もっとも活躍したのは間違いなくソフィアちゃんだろう。
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