誓いを

破った人

 世界には数多くの宗教が存在し、それと添うように数多くの神というものが存在している。例えば、神の絶対的な愛を説いて回ったキリスト。例えば、絶対の幸福のために奮闘したブッダ。例えば、ギリシャ神話の主神たる全知全能のゼウス神。例えば、日本神話に登場する太陽神たる天照大御神。挙げていけばキリがない。


 が、俺は神なんてこれっぽっちも信じていなかった。「神よ」と天を仰ぐ人々を見て憐れむくらいには、神などの神秘に対して懐疑的だったのだ。信じられるのは神ではなく「金と自分自身のみ」だと、そうして日々を過ごしていた。


 しかし、それももう過去のことだ。俺は神を目にし、そして奇跡を手にした。今でもあの日を思い出せる。神が俺の前に姿を現し、その神秘を与えてくれた日のことを。



 俺は、表立って口にできないようなことを仕事としている。いわば反社組織の一員だ。法律に背くようなことを生業として生きている。規制されているアウトな薬の密売や、裏筋の住人へ流す重火器等の密輸入、ウチの組織から金をかすめた奴への制裁や、人身売買など。常に危険と隣り合わせで、死と共に歩いているような日常だった。


 神に会ったあの日も例外ではなく、この日は薬の売買のため売人と会う約束をしていたのだ。商談等の重要な職務はもちろん上層部の人間が行っているが、あいにく薬の受け渡しなどは下っ端の役目で。

 組織に入ってからまだ2年の俺は、直属の上司に「取ってこい」と雑に仕事を投げられ、取引先場所へと赴いたのである。

 それにしても「取ってこい」とは。あの人は俺のことを犬かなんかと勘違いしているのではないだろうか。

 なんて、この組織において上司に逆らうことは死に直結することもしばしばある。結局、自分の身が何よりも可愛い俺は、心の中で中指を立てつつも顔にはニコやかな笑みを浮かべて、上司からの仕事を2つ返事で承った。


 しかし、向かった先で待ち構えていたのは薬と売人だけではなく。なんと武装した輩までいたのだ。「取ってこい」という命令を遂行するために尽力したものの、こちらの人間はたったの3人。対する売人側の人数はゆうに10を超えていて。しかもこちら側は充分な装備はなにもなしときた。もう死への片道まっしぐらである。


 パァンとはじける銃声にカランと跳ねる薬莢、ヒュンと空を切る鉄バットに肉を叩く生々しい音。

 仲間の呻き声と水の滴り落ちる音、どさりと倒れ伏す音。目まぐるしく移り変わっていく現場に、いつの間にか俺も固い地面と抱擁していた。


「今後は、先の約束通りに進めさせていただきます」

「よろしく頼む」


 冷たい地面で横になりながら売人と武装集団の話に耳を澄ます。


 あぁ、そうか。俺たちは都合の良いカモだったのか。


 薄れゆく意識の中、楽し気に言葉を交わす彼らの足音を追いかけた。言葉だけでなく届く足音もどこか浮足立っているような気がするのは気のせいか。


 多分きっと、俺はここで死ぬんだろうな。


 両サイドで動かなくなった同僚を見て自分の行く末を思う。撃たれた箇所が熱い、体が鉛のように重たくて、冷たい地面が気持ちいい。


 思えば本当にくだらない人生だった。親父は酒浸りの暴力野郎で、お袋は男好きの気狂いで、俺もどうしようもないバカで。

 学校を知らなければ文字も知らない。友がいたことも無ければ親の温もりも覚えがない。知っているものといえば、この世がいかに狂っているか、救いがないかということくらいだ。


「あぁ、クソ」


 こんなところで俺は惨めにも最期を迎えないといけないのか。かすれた声で悪態をつく。いつか、あのクソ親父とバカお袋を見返してやろう、誰よりも幸せになってこの世を嗤ってやろうと思っていたのに。


 悔しい、ただひたすらに悔しい。『お前みたいなクズに幸せはふさわしくない、もったいない』とでも言われているような気分だ。裏社会で生きてもう2年も経つ。いつでも死を覚悟していたはずなのに、いざソレを目の前にすると身がすくむ。あぁ、まだ。


「死にたく、ないなぁ」


 ポツリと呟き目を閉じた。キーンと耳の奥で甲高い音が鳴り、次第に暗がりへと引っ張られていく。閉じて塞いで、意識が落ちてしまいそうになった時、ふと場違いな音がすることに気が付いた。


 チリン チリン――……


 鈴の音だろうか。血なまぐさい臭いに乗って、軽やかで澄んだ音が聞こえる。


 チリン チリン


 遠くから幾重にも重なって聞えるその音は、徐々にこちらへ近づいてきているようで。沈みそうになっていた意識を引き上げられる。


 チリン チリン チリンッ


 遠くで響いていたはずの鈴が耳元でひときわ強く鳴った、かと思うと声がした。生まれてこのかた22年、1度だって耳にしたことがないような身の毛のよだつ、けれども甘い声が。


「君、まだ生きていたいかい?」


 声が問う。

 

 耳から脳内へ届いているようで、直接頭の中で滑るその声はすぅっと体の内へと溶けて行って。固いコンクリートに伏せて力の入らなかった体にピリッとした電流が走った。


 まだ生きていたいか、だって? 当たり前に決まっているだろう! 俺はまだ幸せを知らない、安らぎを得たことも無い。愛を知りたい、妻を迎え我が子をこの腕に抱きたい。穏やかで平和な日々をゆっくりと過ごしてみたい。


 願えるほどの、願うことが許されるほどの殊勝な人間でないことは俺自身が1番理解している。それでも、そうであるとしても。


「いきたい」


 心の底からの願いを口にした。踏みつぶされたカエルや首を絞められたニワトリのように聞くに堪えないしゃがれた声だったが、耳元でささやく声の主には届いただろう。現に、肯定の意を示すようにチリンッと鈴が一鳴きした。


「可哀想なヒト。人並みの当たり前を知らない憐れなヒト」


 声が連なる。暴かれたという恐怖よりも、背に添えられた温もりに驚いてしまう。声の持ち主は一体なにものなのだろうか。温もりを感じられるということは、少なくとも実体のあるモノなのだろうけれど。


「幸せを君にあげよう」


 ぼんやりと体が温まる。愛も幸せも知らないけれど、きっと。こういう温もりのことを指すのではないだろうか。


「期限は今から77年。人並み以上の月日を君に」


 黒霧に覆われていた頭の中が晴れ、つまりかけていた息もスムーズに出し入れし始める。凶弾が抉った肉が引き攣って塞がり、生々しい傷はみるみる姿を消していった。


「願いの代わりに1つだけ誓約を」


 力の入るようになった拳を握ったり開いたりしていると、またも耳元で声がした。

 体が動くようになったのかと首を回そうとしたが、なぜだか動かない。血を流し過ぎたせいで動けないのとはわけが違う。例えるのならば重力そのものに押さえつけられているような、そんな感じだ。眼球や手指は動かせるのに、体そのものは依然として動かいない。

 ……いつまで冷たいコンクリートと口づけていなければならないのだろうか。


「これからの人生において、賊害を行わないこと。誓える?」


 コンクリの感触に顔を顰めているとそう告げられた。が、告げられた言葉の意味が分からなかった俺は、尋ね返した。


「賊害?」

「殺傷のことさ。特に人に対する殺傷。今後一切それを行わないと誓ってもらわないと、君にはなにも与えられない」


 殺傷。つまり他害や殺人のことだと理解し、それを今後一切絶対にするなと言われたのだと、改めてその言葉を頭の中で転がす。

 正直、今の職場にいる内は否が応でもソレに手を染めてしまうことになるだろう。しかし。


「誓う、誓います……!」


 死にたくないという願いだけが先走り、これからのことを考える間もなくそう返した。


「そう。じゃあコレを」


 カランと軽やかな音がすぐそばで聞こえた。首を動かせないため確認はできないが、おそらく先ほどからたびたび聞こえていた鈴が地面に転がった音だろう。しかし、何故?


「誓いの証。もし君が誓約を破ればこの鈴が君を裁くから。気を付けてね」


 その言葉とチリンッという鈴の音を最後に、辺りを包んでいた妙な温かさが霧散した。

 

 と同時に、鉛のように凝り固まっていた体もようやく動かすことに成功した。コンクリに両手をついて「よっこいせ」と言いながら上体を起こす。あぐらを組んだ足の上で両手を開いたり閉じたりを繰り返した。 


「……生きてる」


 生きている。俺は、ちゃんと。


「生きている」


 ぐっと拳を握りしめて生きている実感を噛みしめた。感覚が無くなってうっすらと白く色が変わっていた皮膚はいつものような健康的な色に戻り、警鐘を鳴らしていた頭の中も嘘のように静まり返っている。何度か死にそうな目に遭ってきたけれども、ここまで死を近くに感じたのは初めてだった。本当の意味での死を実感したのは、今日が初めてだったのだ。当たり前にあったはずの命が、人生が。奪われそうになって初めてその尊さというものに気づくことができた。


「は、ははは」


 思わず笑ってしまう。


 俺は生きている、生きているんだ! 死を乗り越えて息をしている! 俺は選ばれた人間なんだ、神はきちんと俺を見ていてくれた!


 狂ったように1人で笑い続けた。両隣で冷たくなった同僚が伏せているのに、気づかぬふりをして笑い続ける。いや、気づかないふりよりももっと惨い。死んだ2人を嘲るように声を大きくした。


 俺のことを「学もない木偶の棒」だと嗤い、「無用の長物」だと影口を叩いていた奴ら。俺よりも真っ当に生きてきて、愛も幸せもその身に受けてきた奴ら。でも、選ばれたのは俺だ。神様は俺を選んで生かしてくれた!


「ざまぁねーなぁ!」


 親にも社会にも見放された俺を、あの『神』だけはきちんと見つけて手を引いてくれた。その事実だけがどうしようもなく心の隙間を埋めてくれて。


 ――……だからだろう。神と交わした約束、その証たる鈴が怪しげに輝いていたことに気が付けなかった。



 走る走る。ただひたすらに走る。


「はっ……はっ……」


 腕を振り、腿を上げてひたすら前へ。息が上がり、喉奥で鉄の味が広がっても足を止めることはない。 


 なぜなら俺の背後には明確な死が迫ってきているから。


 こうなるに至った経緯を思い返す。多分きっと『コレのせいだ』という思い当たる出来事は確かにある。


 それは今は亡き父母の死因。あの2人は俺が殺した、殺してしまったのだ。神との約束を破り。


 神と出会ってから裏社会から足を洗い、真っ当な人生を手にした俺は、至極緩やかな日々を過ごしていた。1月1万の安いボロアパートで暮らし、時給800ちょっとの町工場で働き、裕福とは言い難いがそれでも、穏やかな日々を送っていたのだ。


 それが壊されてしまったのが今から数時間前。現在の仕事を始めて1年と半年。寝る間も惜しみ、汗水流して働く日々の唯一の癒しである休日。賃貸と同じくすり切れてボロが目立つブラウン管のテレビを眺めている最中に、ソレは訪れた。


「あぁ、いた! この子よ、この子があたしの子! 代わりに払ってくれるわ。だからお願いよ、命だけは……!」


 鍵もかけていない玄関扉を開け放ち、キーンと耳に響く声で叫ぶ女は、自身の腕に縋り付く男と主に情けなく震えながら俺のことを指さした。

 突然のことに頭が追い付かない俺は、間抜けに口を開いて玄関の方を見る。「代わりに支払う」とは、一体なにを?


「この男が。ふん、ならさっさと失せろ」


 招かれざる来訪者たちは俺を放って話を進める。怯える男女――……俺のことなどもう忘れたと思っていたクソみたいな両親は、周囲を囲う黒服のうち一等良いスーツ身を包んでいる男にそう言われるとパッと駆け出し、またたく間に姿を消した。


「はぁ……」


 スーツの男がこめかみを抑えてため息をつく。相変わらず俺は、間抜けな顔を晒したままだ。


「おいお前、金はあるか?」

「あ、いや。そんなにないッス」

「だろうなぁ」


 再び男がため息をついた。重いため息だったがどうしてだろう、楽し気な色が見えたのは気のせいだろうか。


「一応話しておくと、お前の親はウチで金を借りやがったあげく返せないとほざきやがった。額は300万。手前らの命で返せと言ったら子共を差し出すと騒ぎ出す始末。で、今ここに至る訳だが、理解したか?」


 ドカリと俺の目の前に座り込んだその男は、これまでの経緯を事細かに説明してくれる。イカツイ見た目に反して案外いい奴なんだな、と場違いなことを考えながらも頷いた。


「よし。ならお前さんに2つ選択肢をやろう。お前さんの命か、お前さんの両親の命か。どちらかを選べ」


 そう言って男は、俺に一丁の拳銃を差し出してきた。


「死ぬときは頭一択で頼むぜ。それから実行する前にはこの番号に一報入れてくれや」


 すれた畳に黒く重厚な光を放つ銃をコトリと置き、その上に数字の並んだ小さな紙きれを置いたスーツの男。膝に手を当てて立ち上がると、「じゃあな」と言ってヒラリと手を振り他の黒服を引き連れて姿を消した。

 誰もいなくなっていつも通りの1人の部屋。ようやく戻って来た日常の中、嵐のような出来事だったなとしばらく目を瞬かせていたが、目の前に置かれた拳銃と先ほどまでの出来事を思い返し、本当の意味で現状を理解し始めた。


 親の尻拭いの為に自死するか、親を殺すか、なんて。


 なんと腹立たしい最悪の2択だろう。また俺は、あんなクソ共のせいで不幸を被らなければならないのか。親らしいことなんて何もしてくれなかったくせに、こんな時だけ家族面しやがって。そう思うと自然と銃に手が伸びていて。


 ――……気づいた時にはジメジメとした路地裏にいて、仄暗い煙を吐く拳銃を片手に握りしめて立ち尽くしていた。俺のすぐ目の前には、眉間に穴を開けて倒れ伏す男女がいる。俺とよく似た顔の男と、よく似た目をした女が。


「は、は……」


 乾いた笑いが口から零れ落ちる。


「ようやくだ、これでようやく俺は!」


 裏社会とのしがらみも清算し、そうして己の枷であった両親の呪縛もたった今この手で断ち切った。本当の幸せの1歩を、踏み出せたのだ。


 踏み出せたはずだったのに。



「はッ……はぁッ……!」


 忘れていた。忘れていたんだ。 


 仕方ないだろう。生きることに必死だったんだ!


 誰にともなく言い訳を並べながら走る。足がもつれて無様に転んでも、擦りむけた皮膚が痛んでも、それ以上に恐ろしいモノが徐々に距離を詰めてきているという事実から逃げ出したくて。こちらを喰い明かそうという殺意を隠すこともせず嬉々として迫りくる影に、泣きべそをかきながら足を動かした。


「クソッ、なんでこんな!」


 どうしていつもこうなんだ。俺はただ生きていたいだけなのに。ただ幸せになりたかっただけなのに!


 暗い路地をひたすらに走る。町の喧騒はもうずいぶんと遠く、自身の不規則で重たげな足音と荒い息。それからずり、ずりとナニカが地面を這いずる音しか届かない。

 両親の死体の前で笑っていた時、突如として姿を現したその影は何を口にすることもなく、ただ淡々とぴったりと後ろを追い距離を詰めてきていた。真っ暗で夜よりも暗い、海の深淵や彼方の宇宙のような追手は、静かに、けれども着実に近づいてくる。


 もうすぐ後ろにソレは迫っていた。ずり、ずりと地面を這う音が真後ろで聞こえる。どうすればいいんだと焦っていると、目の前の曲がり角からぬっとナニカが伸びてきた。


 ずるりと這い出てきたソレは、背後に迫るモノとよく似ていて。


 チリン……という鈴の音が、聞こえた気がする。

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