七 月夜の狸


 皓々と月の輝く夜、シシはお堂を出、境内におりた。招いてもいない来客を感じとったのである。

 見ると月影の中、年配の男が立っていた。

 枯茶からちゃ路考茶ろこうちゃ丁子煤竹ちょうじすすだけの縞の着物に懐手ふところで侠客きょうかく風で恰幅のいい男だ。


「これは中沢なかさわの親分さん、どうしました」

「どうしたッてぇことも……まあ、あるな」

「おやおや。親分さんともあろう狸が歯切れの悪い」


 シシは微笑むが、その目は笑っていない。

 これは神社の山の脇を流れる沢の中程、通称中沢地区を束ねている化け狸だ。

 あやかしの内とはいえ化け狸は所詮は狸。仲間には化けぬ狸も多いということで、生粋の妖からは軽んじられることも多い。まして神の眷属けんぞくたる獅子と狛犬とは、向こうの方から隔てを置かれることもあって仲が良いとはお世辞にも言えなかった。


「最近は、常世とこよに人の子が入りこんでいると聞くが、本当かい」

「ほう、もう噂になっていますか」


 きっと自分の目で確かめてから来たくせに白々しく訊く親分に、シシはあっさりうなずいた。

 現世うつしよに生きるべき人の子、つまり健が常世の神社を訪ねて来るのだ、神域の端境はざかいが揺らぐのは仕方ない。

 これしきの小さな揺らぎ、神々からはどうでもよい程のものなのだが、なまじ少しの霊力を持つ近隣のむじなどもには気になるらしい。言っているのは狸、穴熊、てん白鼻心ハクビシンといったところか。

 だからとさかしらに口を出そうとする化け狸に、シシは冷たく言った。


「あれは、うちの童子わらしのお気に入りなので」

「そうなのかい。人の子とは感心しねェがな」

「童子は元々、人の屋敷で人と暮らす妖ですよ」

「そりゃあわかってる。だが、ここに入れることはないだろう。神気が乱れて山の生き物が戸惑ってンのよ」


 主語を大きくしてみせるが、つまりは中沢の狸が中心でごねているだけのはずだ。そんな繊細な狸ではなかろうが、とシシは内心でせせら笑った。

 シシは童子を大切に大切に思っている。健があれこれ言われるのは構わないが、童子にケチをつけられるのは我慢がならないのだった。


「大した乱れでもないでしょうに狸達は敏感だ。だがあの子は私や童子が招いたわけではなく、自らここに入ったんですよ。八年も前にね」


 今さら言われても、と匂わせながらシシは親分狸を門前払いしようとした。それでも一応親分と言われる狸である、すごすご引き下がりはしない。


「自分の力で常世に来たなんてな、神の内の人だなァ。会ってみてぇもンだ」


 ジッとシシと視線を合わせ、凄んでみせる。シシは鼻でわらった。


「ご自由に」


 親分は一瞬鼻白んだ顔をしたが、無言でニヤリとしてきびすを返した。そして歩き出しざまトン、と軽く跳んだと思うと空中で一回転し、着地した時にはもう丸々と太った狸になっていた。

 トトト、と狸は姿を消した。



 残ったシシは、明るい月を見上げた。

 昔、健と同じように神社に入り込んだ娘がいた。彼女は普通に人の世で生きることを受け入れたものだが、果たしてそれで良かったのかどうか。


「獅子。誰を思い出している」


 お堂から姿を見せたのはコマだった。今は人のなりで、相変わらずの無精髭に銀鼠ぎんねずの着流し。月の光に目を細め、わずかな笑みを浮かべて歩み寄る。


「狛犬よ、おまえも想う相手を失くしておれば、わかるだろう」

「童子は忘れ形見のようなもの、か」

「座敷わらしの力で豊かになった山に住みながら、態度がでかい。いっそ童子がどこかに行けば、どうなるのやら」

「嫁にやると?」

「嫌な言い方をするな。普通に家住みの座敷わらしに戻すだけだ」


 コマは肩をすくめて月を見た。

 童子が来て以来しばらく変わらなかったここの暮らしが、健によって動き始めている。


「狸親父相手にタケルは大丈夫か」

「タケルが童子に相応しい男なら、なんとかなるだろう。なんとかできるくらいでないと困る」

「まるで父親だな」


 コマはフッと笑ってクルリと一回転した。そこにいるのはもう、生きた狛犬だ。


「寝るか」


 シシも呟くと、クルリとした。並ぶ狛犬と同じぐらいの体格の、白金の毛並みの獅子が出現する。

 銀の狛犬と対になって月に輝く様は神々しい。まさに神の使いの狛犬達だった。

 二頭は器用にお堂を開けて中に入り、眠る童子に寄り添った。





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