第2話
◆
スエア共和国の北部は標高が高く、空気が澄んでいる代わりに冬の訪れは早く、すでに霜が降りていた。
俺はスエア第三の都市ウルスランのオープンカフェで、その男と対面していた。
「アムン国だって?」
口に近づけていたコーヒーカップを止めて、目の前にいる大男をまじまじと見てしまった。自分がとんでもないことを言っているのに、全く興味がないように男が頷く。
男はツツ・リュリュリクという名前で、知的な顔の作りをしているが、体はがっしりとしていて、どこかちぐはぐだった。その目元には知性的な柔らかい光があるが、この男が供与した兵器で死んだ人間が見れば、反吐が出ただろう。
「そうだよ、イカロス。アムン国だ」
「あそこは軍事政権と複数の武装組織が殺し合っている、この世の地獄だぞ。何故、整備士にすぎない俺がアムン国へ行かなきゃならんのだ」
もうコーヒーを飲む気は失せて、カップは乱暴にテーブルに戻した。しかしツツは少しも動じていない。何かの確信があるようだが、俺に都合のいい確信のわけがない。
「イカロス、きみは流れの、雇われるだけの整備士だ。違うか?」
「違わないさ。しかし俺だって命は惜しい」
「報酬は桁違いだ」
おいおい、と思わず俺が食ってかかろうとした時、さっとツツが懐から小切手帳を取り出したので、思わず動きを止めてしまった。
ペンが手の中に手品のように出現し、さらさらっと数字が記入され、こちらに向けられる。
……なるほど、法外な額だ。
「これならまぁ、短い時間なら雇われてもいい、気もしないでもないが、断りたい気持ちの方が強い」
判然としない回答をしたのは、まだなんとか逃げられる気がしたからだ。俺自身の欲望にも、ツツの計略からも。
しかしツツの方が上手だった。
「ここに書いたのは、前金だ」
「前金て言うと……」
「半額だ。仕事が終われは残り半分が支払われる」
答えられなかった。
目の前の金額が前金? 本気で言っているのか? 俺は念のためにどこの通貨で支払われるのか、確認してみた。間違い無く、オルタミス共和国の通貨であるオルタミス円だった。
さっき放り出したばかりのマグカップに手を伸ばしていた。ゆっくりゆっくりと手に取り、ゆっくりゆっくりと口元へ運ぶ。
しかしどれだけ時間をかけても、解答は見つけられそうもなかった。
遊んで暮らせる、などという表現があるが、俺は別に遊んで暮らしたくはない。今、提示されたばかりの報酬があれば、ちょっとした工場が建てられる。いや、工場はすでにある。俺の親父は整備工場をやっている。個人経営だ。
飛び出してだいぶ経つが、忘れたことはない。
ちょっとは楽をさせてやれるだろうが、さて、あの頑固者が受け入れるだろうか。
ともかく、今、金を手に入れるか、見逃すか、それを決めなくては。
コーヒーは非常に苦かった。ついでに冷めていた。
「どうするね、イカロス。他に回そうか」
「ちょっと待て」
もう一口、コーヒーに口をつける。変化があるわけもない。
「アムン国に行って、俺が直すべきスタンドアッパーが本当に存在するのか?」
「スタンドアッパー専門でもあるまいが、まぁ、あるだろうな。あの国はいわば、先進国の兵器実験場の一つでもある」
「まさか最新鋭機があるとか。いや、それはないな。機体がバリバリの新世代機でも、見合った操縦士がいないだろうな。なら、スタンドアッパーの集団戦の訓練施設みたいなものか」
気づくと俺が喋り続けていて、ツツは口を閉じている。咳払いして、もう一度、確認する。
「仮にスタンドアッパーがあるとしよう。自動車の整備でもいいかもしれん。スタンドアッパーと比べればはるかに楽だからな。だが、交換するパーツはどこから出てくる。お前が空輸でもしてくれるのか?」
「現地調達だ」
……マイゴッド。
「念のために確認するが、弾薬はどうなる。武装勢力だかが潤沢な在庫を抱えているのか? あまり聞きたくないが、まさか弾薬も、銃器自体も、現地調達か?」
「まさにね」
信じられん。
そこらの小川に水浴びに行くわけでも、裏山に登るわけでもないんだぞ。
内戦の激戦地に、整備士一人で放り込んでどんな仕事ができる? 交換するパーツもなく、補給もないに等しい? そういう立場の人間は、整備士ではなく、もっと、こう、生贄という表現の方が正しいのでは。
正真正銘の人身御供だ。
「降りたい気持ちになってきた」
「降りるか?」
コーヒーの味も温度も変わらないが、しかし俺の心理は、どうやら変わっていたようだ。
「最後に一つだけ、確認する。その返答次第だ」
「質問をどうぞ」
「莫大な報酬は誰が支払う? アムン国の国軍ではないし、武装勢力には払える額ではない。第三国だな?」
そうなるな、とツツが頷く。
「どこが代理戦争をやらせているんだったかな。ヴァルバロッサ十字教国と……」
「あまり深入りするな、イカロス。整備士が知るべきことじゃない」
「武器商人は知っているのに?」
「情報を知っていることが、時には盾にもなる。しかし危険な火薬でもある」
雇い主をいえ、とは言えなかった。俺をツツを介して雇おうとしている奴は、姿を見せたくないどころか、影も見せたくないのだ。そして俺が影でも踏もうとしたら、地雷原が待ち構えているだろう。
律儀にコーヒーを飲み干し、俺は腕組みした。
最後の決断だった。
桁違いの報酬。極端な命の危機。困難な仕事。不愉快な陰謀。
どこかどう見ても、楽しい仕事ではない。
しかし、まあ、時には冒険も必要だろう。
「受ける」
俺がそう言葉にすると、ちょっとだけツツが口元を緩めた。
言わないでおいたが、報酬をきっちり受け取れたら、俺を利用した奴に少しは意趣返しをしてやるつもりだった。
ツツは持っているカバンから書類を取り出し始める。それはアムン国への渡航を許可する書類、偽の身分証明書、アムン国で使える紙幣の束。そして飛行機のチケット。
「チップを見せてくれ。連中の敵味方識別用の信号を入れておく」
右手を差し出しながら、念のために確認する。
「俺が肩入れするのは、アムン解放軍でいいんだな?」
「そうだ。少数の武装組織で、劣勢だ」
あまり聞きたい情報ではなかったな。気合いを入れろ、ということだと解釈しておこう。
右手首に端末が当てられる。すぐに離されて、俺は自分の端末でチップの情報を確認した。アムン出版社の社員という情報が加わっている。
「出版社に偽装する武装勢力なんているのかよ……」
何はともあれ、俺は報酬と陰謀の匂いに負けたのだった。
その日の夕方には飛行機に乗り、五時間をかけてアムン国の隣国に到着し、そこで飛行機を乗り換えてさらに一時間の後、発展途上国のアムン国の唯一の国際空港に降りたのだった。
空港では滑走路脇にスタンドアッパーが二機、駐機姿勢でいるのが見えた。見えたが、あまりにも旧式で、空港の設備としてそこにいるのか、それともアムン国軍が何らかの示威行為としてそこに置いているのか、わからなかった。
あれがもし、軍用のスタンドアッパーとして使われているのなら、アムン国軍はたかが知れているというものだ。
空港ではパスポートをチェックされたが、ツツの仕事は完璧だった。
閑散とした建物を出ると、わっと現地民が群がってくる。荷物を持たせろ、タクシーを紹介する、ホテルまで送る、そんな言葉が行き交う。俺は全部を突っぱねて人々を押しのけ、自分で荷物を運び、自分でタクシーを選ぶ。下手なことをすると荷物を奪われ、車内という密室で銃で脅され、不愉快なことになる。
タクシーと言っても、どれも塗装は薄汚れていて、車体も傷だらけだった。
俺は一番、年寄りそうな男が運転するタクシーに乗ろうとしたが、気が変わってすぐそばの市場の入り口に停車しているトラックで、暇そうにしている爺さんに声をかけた。
向こうも観光客に声をかけられて困惑していたが、俺は「国際ホテルまで連れて行ってもらえるかな」と一方的に伝えた。爺さんは咥えていたタバコを吐き捨てると「乗りなさい」と意外に丁寧に言った。
道すがら、俺はこの爺さんに「明日、ちょっと山まで連れて行って欲しい」と頼んでみた。
これにはさすがにホテルへ連れて行く以上の抵抗があったようだが、俺は紙幣を何枚か握らせて、翌朝、ホテルに迎えに来る約束を取り付けた。
ホテルで休息を取り、翌朝には意外に寝心地がよかったベッドに別れを告げて、約束の時間にホテルの前に出てみた。
通りに人がちらほらとして、車も通っている。
トラックは姿がない。
すっぽかされたかな、と思った時に、鈍いエンジン音とともに爺さんのトラックがやってきた。この時ばかりは、礼として車の整備をしてやってもいい、とすら思った。
爺さんは俺の前で車を止めると前日と同じように、「乗りなさい」と低い声で言った。
乗ってから、冗談として用意しておいたセリフを口にしてみる。
「朝食がまだなんですが、どこかに美味い店、知ってます?」
さすがに老人はため息を吐いたが、すぐに車を動かした。
美味い現地料理が食えた。本当に車の整備をしてやりたかった。
そんなこんなで、俺は実にスムーズに密林へと案内され、その奥にある武装勢力と合流したのだった。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます