第2話 地獄

 男は嗅ぎなれた臭いに目を覚ました。


「さっさと起きろ!」

「ッ!」


 彼はその言葉に咄嗟に飛び起き、そして大きく横に跳ぶ。すると、目も覚めるような打音が轟いた。


「ンだよ。ヤツらの手先か……ッて、あ? 何処だ? ここ」


 男は辺りを見渡した。



 血の染み込んだような真っ赤な土。


 太陽が無いにも関わらず、真っ赤な空が辺りを照らしている。


 そして目の前にいるのは――異形の怪物。



「誰だ? テメェは」

「ふん。起きないから一度殺してやろうかと思ったが、起きたならいい。ついてこい」


 真っ赤な肌に鋭い目付き。その全身は筋肉の鎧に包まれており、ボロい布切れを纏っている。


 そして、何より特筆すべきは額に生えた一本角。


 聞いた者を恐怖させるような酷く冷たい声。その声を聞けば、誰もが理解わかってしまう。自分が弱者だと。


 ――蛙が蛇に睨まれた時のように。


 ――人に殺される家畜のように。



 圧倒的な力の差。少しでも反抗すれば殺されるだろう、と理解してしまう。






 しかし、ここにはその理に反する例外がいた。


「ははッ!」


 男は嗤った。


「カミサマって奴は俺の味方なんだろうなァ! こんなにステキなサプライズを用意してくれるなんてよォ! ……くく……はは……ハーッハッハッ」


 そうして男は一頻り大声で笑った後、ふうと長く深く息を吐いた。


「正気に戻ったか? それとも一回殺した方が――」


ろうぜ、バケモノ」



 キィィィン、と金属同士がぶつかり合う音が辺りに響き渡る。


「ぬ?」


「ハハッ。かっってェなァオイ! 燃えちまうじゃねェかよォ!」


 真っ黒な棍棒をへし折らんばかりの勢いで男が蹴った音だ。しかし、その棍棒は折れるどころか傷一つ入らない。


「……別の世界の住人か」

「あァ? なに言ってんだ? 来ねェからこっちから――」


「ならば仕方ない。一度死んで貰おう」


 男が咄嗟に右に跳んだのは、やはりその経験がせる技なのだろう。


 ――しかし、完全に避けきったはずなのに、男の左腕はぱっくりと裂けていた。


「あァ? ッんでだ?」


 男は右腕で真っ二つとなった左腕を血糊で繋ぎ止めた。神経まで繋がった訳でも無いので、当然動かすことは出来ない。


「チッ……アイツが居ねぇっつうのに……ツバでも付けときゃ治るか?」

「……痛みに弱い訳でも無い……中世の戦士……違う、諜報員か? いや、それにしては強すぎる」


 鬼はその男の様子を見て訝しむ。男は隙だらけだったと言うのに鬼は動かなず、観察するのみ。それを見て、男のこめかみがヒクヒクとうごいた。


「ごちゃごちゃうッせェなァ! 来ねェならこっちが行くぞ!」


 ダン、と強く土を踏みしめる音。鬼はそれに反応して棍棒を振るおうとした。



 しかし、男の蹴りはより速く、そして重くなっていた。


「ぬぅっ!」

「かっっっってェ!」


 ミシリ


 棍棒が軋む。


「調子に乗るなァ! 人間風情がァ!」


 しかし、足りなかった。


 全速力のトラックに跳ねられた以上の衝撃が男を襲った。


「ぐぅっ……」


 サッカーボールを蹴るように、野球のボールを打つように男は吹き飛ばされた。


 内蔵がかき混ぜられ、遠心力で血が正常に巡らなくなる。


 その勢いのまま地面に何度も何度も叩きつけられる。


 ミシリ、と胸骨の軋む音。


 ぐちゃり、と足の肉の潰れる音。


 常人ならばすぐに死ねただろう。


 しかし、男は頑丈であった。


「くっ……そが。気持ち悪ィなァ! オイ!」


 男はふらつく頭を抑えて立ち上がろうとした。



 けれど、また倒れてしまった。見れば、右脚の関節が一つ。増えていた。


「折れたってか? クソ、二肢潰されたか」


 男はどうにかバランスを取って立ち上がると、すぐ傍に鬼が来ていた。


「大人しくするならこれ以上攻撃はしない。諦めろ」


 人為らざる者はじっと男を見た。もしも諜報員ならば、殺せと言うだろう。もし違ったら――


「あァ? 舐めてんのかァ?」





 確実に狂っている者だろう、と。


「ならば死ね」


 鬼は大きく振りかぶる。片脚で、しかも内蔵を潰した後に動ける人間は居ないだろう、と。




 それでも、鬼は油断していた。まさか、攻撃してくると思っていない、しかも、自分と同等かそれ以上の速さでしてくるとは思っていなかったから。


 ブチリ、と何かが千切れる音がした。


「ぁ……?」


「窮鼠猫を噛む、ってな。死にかけの生物が一番強えんだよ。それに――」


 男の脳裏に映るのは一人の少女。


「アイツの方が強ェよ」


 首だけになった鬼が最後に聞いたのは、その言葉であった。


「あり……えん」



◆◆◆



 後に残るのは勝者の呼吸のみ。血の染み込んだ息を吐きながら男は倒れた。


「だァ、クソ。バカ痛ェ。だが、死なねェ」


 男は何度も……それも、気が遠くなるような数の死線をくぐって来た。そのお陰で。どれぐらいで自分が死ぬのか把握していた。


 左腕が裂け、右脚が潰れて、内蔵が傷つけられても男は自分が死なないと確信していた。


「クソ、一旦寝るか」


 男は痛む腕を抑えながら瞼を閉じようとした。





 しかし、その瞬間。濃密な死の臭いが風に運ばれてやって来た。


「……増援、か。クソ。北から二十。距離は五……違ぇ、三キロ」


 男は這いずって鬼の死体へ近寄った。そして、その手に握り締められている棍棒を奪い取った。


「正直、闘りてェ。だが、さすがに死んじまうから……なっ!」


 男は棍棒を振りかぶり、そして――


 自分の足を抉りとった。


「っガァァァァァァッッッ」


 そして、抉りとった部分を押しつぶすように乱暴に止血をした。


「ッッッつ、ああ、クソ」


 そして、血が止まった事を確認して男は一度。長く……長く息を吐いた。


「――よし、そんじゃァ次は左腕だ」


 静かに、男はそう呟いた。


 ◆◆◆

 男は走っていた。しかし、その走り方は歪だ。


 腕も脚も一本足りない。漆で塗られたように真っ黒な棍棒を松葉杖代わりにして、男は走っていた。


「辺りに建物は無ェ。人も、あのバケモノも居ねェ」


 しかし、それでも男は走り続けた。何分も、何時間も。



 すると、人影が二つ見えた。一つは自分より小さい。もう一つは自分より遥かに大きい……さっきの鬼と同じだと言うことに気づいた。


「ああ、クソ。……別の場所に……あ?」


 どこか、その小さい人影に見覚えがあった。無意識のうちにそちらへ歩いていた。すると、やはり男の知っている人物であった。


「……アイツ。【天使】だったか?」


 そう。男を死に追いやった人物。真っ青な髪を背中まで伸ばした、恐ろしささえ感じさせるほど美しい少女。齢は十五歳辺りに見える。


 件の天使はと言うと、真正面から鬼を撃っていた。


 鬼からの攻撃を避ける度に鮮血を舞わせながら。


「棍棒の速度が音速を超えており、衝撃波が出ていると推測」


 鬼が三度棍棒を振るった。それを見て、天使は飛んだ。


 跳んだ、ではなく飛んだ。その背中には一対の真っ白な翼をはためかせて。


「ああ? 鳥人か?」


「殲滅します」


 そして、天使はM134を取り出した。


 次いで、耳が壊れるような轟音が男の耳を貫いた。


 そんな中――男の耳には銃声とはまた違った音が入っていた。


「目標『鬼』の生死を確認します。【Air風よ】」


 その声と共に、天使が振りかざした手から風が吹いた。


 ビュウッと土煙が風に巻き込まれる。そして、その晴れた場所には――



 体中を蜂の巣にされた、鬼の死骸があった。


「目標の殲滅を確認。『戦闘』モードを解除――」

 その時、天使は死の足音がすぐ側まで迫っていることに初めて気づいた。


 あの時と同じ、恐怖が背筋に突き刺さっていた。


 目を後ろにやれば、今にも殴りかからん勢いの『鬼』がいた。


 避けられない。天使はそう確信し――


「無視してんじゃねェぞォ! ゴラァ!」


 しかし、鬼は棍棒を振り下ろすことは無かった。


 天使の耳に怒声が響いた後に、スパーン、と軽やかな、しかし重い音が入った。


 そこに居たのは、あの時自分を殺した男。しかし、あの時とは違う。


 不自然に抉れた左腕と右脚。そして、その右手に掴まれているのは鬼が持っていたと思われる棍棒。




 その顔は……不満があると言わんばかりに歪められていた。


「ああ、クソが! 手足が一本ずつ無ェぐらいで後回しにしやがって!」


 そう言って男は首から上のない鬼を蹴って、天使から距離を取って座った。


「……どうして助けてくれたんですか?」

「あァ? どうして俺がテメェを助けなきゃいけねぇんだよ。てか俺以外に負けかけンなよ。俺がアレより弱ェッて事になるだろうが」


 舌打ちをしながらもそう言った男を見て、それでも天使は訝しんだ。


「あァ、あと、アレだよ。手足が半分になッちまっただけで敵とすら思われねぇのが気に食わなかったんだよ」


「……それは当然だと思いますが?」


「あ? 死にかけの俺に殺られた癖に何言ってんだ?」


 男の言葉に天使は黙り込む。その目は何かに怯えている訳では無く、どちらかと言うと呆れているような……


「こほん。感謝だけはしておきます」

「いらねぇッつうのに」

「父親からは助けられたら礼を言え、と教わりましたから」

「随分マトモな親だな。俺の保護者なら唾を吐きかけろって言うだろうよ」


 そうして男が笑う。


 次の瞬間。男の鼻が……そして、天使の耳がピクリと動いた。


「近いな」

「はい」


 もうすぐ追いつかれるだろうと男は立ち上がり、棍棒を手にした。


「……それで逃げるつもり?」

「あ? テメェには関係ねェだろ」


 そうして走り出そうとした男の袖が何者かに掴まれる。


 ……何者、と言っても一人しか居ないのだが。


「待ってください。私を連れて行ってください」

「あ?」


 男はイラついた様子で振り向く。すると、そこに立っていた天使は酷い表情をしていた。


 その無機質な声とは不釣り合いな、親を失くした子のような酷く寂しげな顔。


 男は思わず一人の少女を思い出してしまった。


 男の事を恐れず、軽口を叩きながら微笑み、そして――


 自分を助けてくれた少女の事。



「今はどうしてるんだ」と考えてしまい、男は一つ舌打ちをした。




 突き放せ。


 一度は闘り合った相手に情を掛けるな。裏切られて死ぬのがオチだ。


 男の脳内では天使を否定したがっていた。しかし、男はそれらの全てを無視して――


「置いてか……ないで」


「言っておくが、今の俺じゃあ闘いならいけるが、逃げるのは遅くなる。足でまといにしかならねェぞ」


 普段の男ならばそんな答え方はしないだろう。


 男は闘うために生きている。死を免れる手段があるならば、躊躇いなく手を伸ばすのだ。


「ひとりは……いや」


 涙を目に浮かべながら、天使はぎゅっと袖を掴んだ。


 その姿は、とてもでは無いが人造人間とは思えなかった。


 あの時の少女と表情が重なった。男は長く、そして深いため息を吐いた。全ての負の感情を吐き出すように。


「勝手にしろ」



 そして、奇妙な世界で奇妙な二人の短い旅が始まったのであった。

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