■十一.



 吹き抜ける青い風が涼しかった。晴れた日で、建ち並ぶ宮殿の柱が耀くような白さを秋の青空にみせていた。庭園の緑の樹々に第二皇子の声が響いた。

「母上、何をされたのです」

 常日頃は沈着冷静な第二皇子が、珍しく大きな声を上げていた。

 皇子は母である第二皇妃をつかまえていた。突然行く手に現われた息子の剣幕に第二皇妃は愕いて眼をまるくした。幼い頃から物足りないほどに落ち着いていて、子どもらしい悪戯もせず、すごい速さで大人になってしまった我が子が、見たこともないほど血相を変えている。

「どうしたの」

 皇妃は困ってしまった。

「第二皇子、どうされましたか」

 第二皇子は母のゆく手をふさいでいた。アフロディテが戦場から攫われたという報は第二皇子を立ち上らせた。青鎧が関わっていると知った皇子は、母の許に迷わず来たのだ。

「母上。何かやりましたね」

「なに。なにかしら」

「何が起こったか母上もお聞き及びでしょう。そうだこの前、第三皇妃がどうとか云っていたおられた。あれだ」

「この前」

「わたしの宮に来られて、第三皇妃が面白い話を持ってきたと云っておられた」

「第三皇妃が青鎧を貸してほしいと仰ったから、南国の親族にお話を通して差し上げただけよ」

「何だって」

「どうしたの。そんな怖い顔をして」

「母上が青鎧を」

 第二皇子は絶句して母の顔を見た。第二皇妃は皇妃で、みるみる蒼白になっていく息子の顔色に愕いていた。

「皇子」

「母上は青鎧がどのようなものかをご存じでそれをしたのですか」

「もちろんよ」

 第二皇妃は悪気なさそうに認めた。皇妃の母方が南国の王族なのだ。

「青鎧は南の国のお抱えの傭兵よ」

「その程度の認識しかお持ちではないのか」

「待って皇子。母の話を聴いてちょうだい。これには深い理由があるの」

「聴きましょう。早く」

「ちょっとだけアフロディテ姫に怖い想いをしてもらって、いえいえ、もちろん何にも怖い想いなどさせるつもりはないけれど」

 第二皇子の眼がつり上がったので、第二皇妃は慌てて云い換えた。

「誘拐する時だけは少しだけ怖い想いをして頂いて、でも丁重に保護して差し上げて、姫に軍から離れて頂くのはどうかしらと第三皇妃が」

「意味がまったく分かりません」

「第七軍の近衛隊は気鋭揃いだから、青鎧でも出さないことには姫を攫えないと第三皇妃がその難しさを指摘されたのよ」

「それで」

「それでとは」

「それでとはこちらが訊いている。母上は何故第三皇妃がそんな依頼をしてきたか考えてもみなかったのですか」

 やはり青鎧がアフロディテを攫った件に、母が関与していた。物事を深く考えない女の中でももっとも考えない女が実の母であるという事実をあらためて噛み締めながら、第二皇子は母の顔を見下ろした。外観は悪くはないが頭の中は空っぽという代表例のような女だった。

「男子を持たぬ第三皇妃にとって、皇帝に嫁いで男子を産むかもしれないアフロディテは邪魔者でしかないのです。皇帝の従弟であるわたしに姫を嫁がせるはずもない。第三皇妃が邪魔なのはアフロディテです。母上でもお分かりになるようにはっきり云わせていただくなら、母上は、第三皇妃に騙されています」

「そんなことないわ。まさか。そこまでわたくしは愚かじゃないわ。第三皇妃はこう云ってきたのよ」

 びっくりして第二皇妃は云い募った。

「囚われたアフロディテを、皇子の貴方がお助けするの。貴方が姫を救い出すのよ」

「何か勝手に決まってる!」

「第三皇妃はお金を出した上で青鎧を雇っているの。青鎧は貴方が向かえば姫を返してくれるわ。姫がこれに懲りて、ああ怖かったとなって、助けに来た皇子さまの貴方と結婚するのよ。そして貴方とアフロディテ姫との間に生まれた御子を、それが皇子でも皇女でも、第三皇妃の皇女さまの子と結婚させるの」

「何を云い出しておられるのだろう。話の筋道が見えません」

「だから。貴方とアフロディテ姫の子を、第三皇妃の皇女の子と結婚させるのです」

 なぜ分からないのかと云いたげに第二皇妃は言葉を継いだ。

「そうすることで次代をひらく新しい強い血脈をつくるのよ。なんといってもアフロディテ姫の血だもの。第三皇妃の皇女のお婿さんも皇族よ。これだとアフロディテ姫もお倖せ、わたしたちも倖せ、貴方も未来の皇帝の父か祖父になれて、みんなが丸くおさまることよ」

「もういい」

 第二皇子は手を上げて遮った。莫迦らしくてそれ以上聴いていられない。何の話をしているのかも分からない。囚われた姫を皇子が迎えに行って結婚させる計画だと云ったのか。そして生まれた子を第三皇妃の孫と結婚させると云ったのか。母の空想する恋愛物語か何かか。

「女の浅知恵というけれど本当に浅い」

 第二皇子は母を怒鳴っていた。

「孫同士を結婚させるなど、いかにも有閑未亡人が考えそうな戯言だ。第三皇妃は以前、アフロディテ姫は細腰だから子が生めないと悪口を云っておられませんでしたか。御二方とも都合がよすぎる」

「何か悪いことしたかしら」

 第二皇妃はうろたえた。

「第三皇妃はお話もお上手で、頼りになる方です。それはとてもいいお話ねとわたくし、大賛成したのよ」

「母上はもう何もしないで下さい。本日より直ちに属州のお友達の家にでも行ってしばらくそこで過ごして下さい」

 第二皇子はそれ以上を遮るように母の顔から視線を逸らした。第二皇妃は不満そうに文句を云った。

「なによ。貴方がいけなのよ。全て皇子のせいよ」

「それは違うでしょう。責任逃れだ母上」

「あの日わたくしは皇子宮でちゃんとお話ししようとしていたわ。皇子があの時わたくしを追い払ったのよ。お母さまは悪くありません」

「母上、忙しいのでこれで」

 愚かな母と不毛な喧嘩をしている暇はない。踵を返すと第二皇子は母をその場に残して走り去った。

 広大な宮殿の幾つかの通路を抜けて急ぎ皇子宮に帰ろうとしていた皇子は、途中で、皇帝と行き合った。珍しい花が咲く庭を挟んだ反対側の廊下を皇帝が往き過ぎていくところだった。

 第二皇子はすぐに歩調を落としてゆっくり歩いた。

 皇帝がこちらを見ていた。第二皇子は温厚な表情を浮かべて丁寧に礼をした。声が届く距離ではなかったので、せいぜい笑顔のうちに、

「皇帝陛下。ご機嫌うるわしく」

 挨拶をこめて眼礼をしておいた。

 皇帝は目下のお気に入りであるところの女を連れていた。皇帝の後ろを歩いているのは、痩せて蒼白い顔色をした貧相な女だった。

 礼をとる姿勢で立ち止まりながら第二皇子は皇帝を眺めた。哀しそうな顔をした痩せっぽちな女が誰の代わりなのかも分かっていた。

 皇帝のあの男とは異母兄弟でほぼ歳が変わらないのに、仕上がり具合の差がすごい。過ぎていく皇帝と女の姿を見送る第二皇子は、人知れずかすかな危惧と軽蔑を抱いていた。第二皇子は皇帝が手許においている女の首にあった青あざを見逃してはいなかった。首を絞めながら愉しむというやつだろう。生まれつきなのか育ち方なのかは知らないが、あの皇帝は完全に偏執狂だ。

 生い茂る庭の青葉の陰から、疑り深く昏い皇帝の眼が第二皇子を追っていた。第二皇子はその眼で皇帝に見送られていることも感じ取っていた。

 過去に何度も、あの男の魔の手からアフロディテを逃がしてきた。従妹のアフロディテだけでない。皇帝が気に入りそうな陰のある暗い女や内気そうな女が宮廷に上がってくれば、密かに声をかけて退出させるか、皇帝より先に自分の愛人にして取り上げてきた。逃がし損ねた女が皇帝の許でしばらく過ごすうちに正気を失って半裸に近い姿で宮殿をふらふらと歩いているのを見かねて保護したこともあった。女はよどんだ眼をして第二皇子をようやく見分けた。

 皇子。わたくしは狂ってしまったのでしょうか。わたくしは何か怖ろしい過ちを皇帝陛下に対して犯してしまったのでしょうか。

 女は泣き出した。

 我ながら慈善にもほどがあったが、そのままにはどうにもしておけず、手順に十分気をつけて、さらには第二皇子からだと角が立つので臣下に頼み、領地に施療院があるのでそこへあの気の触れた女を預かりましょうと臣下の口から皇帝に申し出るかたちにした。

 皇帝はお見通しだった。

「欲しいなら、予の下がりものとして、あの女を第二皇子にくれてやろう」

 従弟に女を下げ渡す皇帝は愉快そうだった。

 貴族たちの間には皇帝の気性を危ぶんで、第二皇子こそ皇帝にと望む声が今も根強くあった。そのどれもが皇帝の知るところであり、皇帝からすれば第二皇子は眼の上の瘤にして、いずれ排除すべき敵であろうことは、第二皇子にも分かっていた。

 アフロディテが青鎧に攫われたことは当然、皇帝の耳にも届いているのだろう。だが先ほど見た限りでは皇帝には慌てる様子も動く様子もない。第二皇子の立場としては、皇帝の力を借りなければならなくなる前にアフロディテを救出しなければならない。皇帝が自らアフロディテのために動く時には、今度こそアフロディテはあの男の妻にならなければならなくなる。青鎧の動きを推し量りながらぎりぎりまで粘っているのは皇帝も同じなのだ。

 予に泣きつけ。

 皇帝はアフロディテに求めていた。いつだってそうだった。

 予に助けを求めてみよ。服従の膝をつけ、従妹アフロディテよ。

 アフロディテに対する皇帝の異常な執着はアフロディテの完全な敗北と服従というかたちでしか終わらぬのだ。青鎧によって攫われたアフロディテを放置しているようでいて、皇帝はアフロディテが弱るのを待っている。

 今ごろ皇帝の顔は姫を手中に収めた時の陰気な想像に嗤って歪んでいるのだろう。第二皇子は容易に想像ができた。そしてその飽くなき征服欲に眼をつけられているのは、第二皇子も同じなのだった。



 第二皇子が調べさせると、青鎧の目的はすぐに分かった。

「その手紙がここにある」

 波音がしていた。青い海から汐風が吹いている。アイストスの髪は襟飾りのようにその顔にまとわりついて、ただでさえ美しい顔をさらに豪華に飾っていた。

「第二皇子からの手紙は暗号で書かれてある」

 手紙を懐から取り出してアイストスは広げてみせた。何を書いてあるか誰にも分からなかった。

「いけすかない宮殿の宮廷人の中でも、第二皇子はわたしと年齢も近く気脈が通じる。アフロディテのことも含めて昔から折々やり取りをしていた。姫の苦境を伝えてくれたのも第二皇子なら、この暗号を考えたのも第二皇子だ。読むぞ」

 アイストスは暗号を解読しているとはとても想えぬ速さで読み解きながら第二皇子からの手紙を読み下していった。

 アイストスはどうやって此処に来ることが出来たのだろう。疑問に想っていると、ウィトルウィウス領を突き抜けて来たという。

 郎党を引き連れて領内を通り抜けていくアイストスにウィトルウィウスは気が付いていたが、「捨ておけ」と構わなかった。

 さらには沖で漁をしていた漁師も、孤島の様子を探らせていたアイストスの部下だった。

 というわけだ。手紙を読み終えたアイストスは近衛隊の顔をみた。

「黒幕である第三皇妃の意向がどこまで反映されているかはしらないが、青鎧はいちばん高い値をつけた国にアフロディテを売るそうだ。無論、信じることはできない」

 手紙を細かく破り棄てながらアイストスは云った。破られた手紙の破片が雪の華のように海岸に舞い上がり、風にはこばれ何処かへ消えた。

「近衛隊の諸君は知っているだろう。青鎧の軍隊は我らとはまったく異なる行動様式で動くのだ」

 山岳地方で独自の文化を築いていた暗殺集団の末裔は、野に降りても、その独特の異文化を捨ててはいなかった。

「契約も人道も倫理観も連中にかかっては意味をなさない。帝国皇帝の名も雇い主である南国の王の名も無意味だ。何一つ、あてにならない。朝の主人を昼には斬殺するが、その理由も分からない。彼らから理由をきき出したところで、一刻のちには全く違うことを云うだろう。たとえ莫大な身代金を提示したとしても、連中の気が変わればその場ですぐにアフロディテを海に突き落とすのだ。分かるか」

 近衛隊もそこは重々承知だった。

「ゆえに姫の救出は急がねばならない」

 アイストスは重ねて、「急がねばならない」と強調した。若君はタキトゥスの顔を凝視していた。

「ところでお前は何をやっていたのだ。姫の護衛ではなかったのか」

 顔の美しい男が美しいままに恐ろしい顔をするとこんなにも恐ろしいのかと想うほどアイストスは恐ろしい顔をして、再会したタキトゥスに食って掛かった。その頃は第六軍を助けに行っておりその場には居なかったと弁解する気にもならなかった。アイストスはタキトゥスの胸板に指を突き付けた。

「護衛の任務も果たせず姫を攫われてしまうほどの無能ならば、無能を羞じて砂に埋もれて消えてしまえ」

 若君はタキトゥスに語ってきかせた。

「アフロディテと結婚した当初、ディテは就寝中によく歯ぎしりをしていた。最後の乳歯がそれで取れたのだ。もう十分だ。皇帝にも誰にも邪魔はさせぬ。本件が終わったら、アフロディテを外国に嫁がせるようにわたしが一切を取り計らうつもりだ。第二皇子もこの計画に賛成した。既に婿の候補は絞り込んである」

 外国。

 タキトゥスが「どちらの国ですか」と尋ねると、

「皇帝からディテの殺害を命じられたお前に行き先を教えると想うか」

 獅子が咆哮するような勢いで叱られた。

 その美貌を裏切って、アイストスは男には一切甘い顔をみせない男だった。どんな女に対しても包み込む春の太陽のようにほがらかなくせに、男しかいない処での男に対しては、寒風吹きすさぶ武闘派だった。

「男が男に太陽のようにほがらかにされたいか」

 若君から真顔でそう問われると誰にももう何も云えなかった。

 泳げないと近衛兵とタキトゥスが若君に伝えると、「では、泳げるようになれ」と睨まれた。

 海にそそぐ森の中の川が練習場にあてられた。樹木に隠されて上から見えないのでちょうどよかった。

 初日は短剣を水中に投げ入れられて「取ってこい」と水に突き落とされた。二日目もそうだった。

 三日目になんとか恰好がついてきて、淡水と海水が混じり合う川の中でもがくうちに、五日目には全員が泳げるようになっていた。騎馬民族出身の剣闘士が泳げるようになったのだ。さすがはあの女の夫だったことはある。

「水に浮かべるようになってみると愉しいものだな」

 近衛隊も水泳が好きになっていた。

「波の穏やかな日を狙うだと。莫迦を云うな。決行は嵐の日に決まってる」

 遠泳を命じられて這う這うの体で岩場に上がって来くると、アイストスからもう一往復を命じられた。

 若君は美しい顔を沖の離島に向けていた。何を考えているのかは分からなかったが海風に髪をなびかせている名家の若君は、今にも竪琴でも奏でそうな典雅な風情で、そこにだけ特別な風が吹くようだ。

「タキトゥス」

「は」

「姫を逃がすぞ」

 元妻へのその強い気持ちはなんなのだ。



 近衛兵たちが泳ぐ練習をしている間、アイストスは唯一道の繋がっている巣環国のウィトルウィウス卿に手紙を送っていた。

 帝都と連絡がつかぬ以上、アイストスは援軍をそこに求めるしかなかった。

 ウィトルウィウスはすぐに返答を寄こした。

 交戦中の帝国の姫君を救助する見返りとしてウィトルウィウスはアフロディテとの結婚を求めていた。アイストスは手紙を破って棄てた。

「分かっていたことだが、ただでは動かぬか。領土通過を見逃してくれたので一抹の期待をかけたのだが」

 若君は風に乱れる髪をウィトルウィウスの手紙についてきた紐を使って後ろで一つに束ねた。

「ウィトルウィウスめ。のらりくらりと多方面と附き合いながら自国の領土を強固に護り続けている手腕はかうが、日和見が過ぎる。ディテを差し出せとは卑怯。こんなことなら第六軍をユリウスから取り上げて、わたしの私軍にしておけば良かった」

 自軍を持たぬ若君は悔しそうに云ったが、「やはり、我々だけで行くことになる」ややあって云った時には覚悟がすでに決まっていた。

 この際、アフロディテがウィトルウィウスの妻になるふりをして、後から逃げ出せばいいのではないか。

「花嫁を攫って逃げるだと」

 タキトゥスの提案は近衛隊に即座に却下された。

「巣環国領主は愚者ではないぞ。若君のお言葉どおり、のらりくらりしているようで締めるところは締めてくる」

 舐めてかかる者がいないというのは小国の領主にはもっとも大切な資質である。ウィトルウィウス卿は諸国に一定の反感と敬意をもって認められているようだった。

 彼らは知らぬことだったが、ウィトルウィウスは姫を見棄てたわけではなかった。アイストスに手紙を送り返した後、彼は囚われた姫のために巣環国領主の立場から出来る上限のことを密かにやっていた。

「ウィトルウィウス卿から極秘にこんなものが」

 巣環国領と境を接した一番近い処に第五軍の伊達将軍の領地があった。その書面はすぐさま戦地にいる伊達将軍の許に早馬で送り届けられた。

「これは大変だ」

 所領から届けられた書面に奥方と共に眼を通した伊達将軍は、すぐに姫の救助に向かう準備を整えた。帝都の皇帝にも急使を出して知らせた。皇帝からの返答は軍を動かすことならぬというものだった。

「しかし殿、青鎧なのです。姫の身が危険です」

 伊達将軍の奥方は夫をせかした。

「九度軍の青鎧がどのような傭兵集団であるかは皇帝もよく御存じのはず。姫が幽閉されている島は分かったのですから、今すぐ進軍するべきです」

「皇帝にお考えがあるのだ。傍観せよとは不自然すぎる。青鎧が姫を奪ったことすら、もしかしたら皇帝のご計画なのかもしれぬ」

「いえ。何者かの差し金なのだとしたら、これは先帝皇妃がやったことだと想います」

 伊達将軍の奥方は鋭いところをみせた。

「青鎧は南の国のお抱え傭兵です。南の王朝に縁故のあるのは第二皇妃ですが第二皇妃さまがこんな大胆なことを考えつくとは想えない。おそらくこれは第三皇妃の入れ知恵です。第三皇妃が第二皇妃を唆して青鎧を動かしたのです。第三皇妃は青鎧と密約を交わして、姫を亡きものにするつもりです」

 第五軍を率いる伊達将軍は難しい判断を迫られた。

「殿」

 奥方は悩む夫の手を握った。

「殿。わたくしだけでも、実家の私兵を率いて現地に赴きます。様子を見に行くだけでも」

 しかし結局は皇帝の命じたとおり、待機するという苦渋の結論を伊達将軍は絞り出した。

「別便で、第四軍の髭将軍からも返答が来ている。彼らも動けぬようだ」

 伊達将軍は整った顔を苦悩にゆがめながら、絞り出すようにして吐き出した。

「皇帝がアフロディテ姫を見殺しにするとは到底考えられぬ。それに賭けるしかない」



 少し風があり、曇天で、波がやや高い日がやってきた。

 太陽神と海神の娘の間に生まれ落ちた神の子の化身かと想うような裸体でアイストスは灰色の海から上がって来た。

「午後になったら行くぞ。わたしは少し眠る」

 その辺りにあった誰かの軍套を砂浜から取り上げると身に巻き付けて、アイストスは森に近い日蔭の岩に凭れて眼を閉じた。若君はすぐに眠りに落ちた。何故かひどく疲れているようだった。

 沖に停泊している船にまず泳いで向かうと云われた。島に食料を運んでいる屋根のある室つきの船だ。そこでひと暴れして船を乗っ取るのだなと近衛隊は頷いたが、違った。

「何を云っている」

 若君の従者たちに厳しく返された。

「もう乗っ取ったに決まっているではないか。船にいるのは我々の仲間だ」

「孤島にいる敵は船の中がいつも通りだと想っているだろうが、最初の乗員は、船に乗り込んだアイストスさまがご自身で屠られて全員すでに魚の餌だ。そなたらが寝ている間に、そなたらの具足も全て筏を組んであの船に運び込み終わっておるわ」

 空に沈みかけの星がまだ残っている明け方に海を渡って船に乗り込み、乗員を殺して、アイストスはすっかり準備を終えていた。

「食料を運ぶ小舟があの船と接舷する時間もアイストスさまが日々観察しておられたのだ。食料は二日に一度、昼のうちに運び込まれていた。早朝は乗員もまだ寝こけていて、海から乗り込んできた我らの乗船をあっさりゆるしたぞ」

 ここまでお膳立てされたら誰もが若君に附いて行かないわけにはいかない。

「若君。若君が皇帝におなり遊ばせば良かったのだ」

 タキトゥスはアイストスに本気で云った。よく云われると若君は頷いた。そしてきっぱりと云い切った。

「そんな面倒なものに何故ならなければならぬ」

 古くは皇帝を多く出したという家系の末裔は天から授かった帝王の器をいまは一人の女の為に捧げるつもりらしかった。

「アイストスさま。青鎧が崖の上からこちらを見ています」

「いつもの定期の見張りだ」アイストスは見向きもしなかった。

「若君、矢が飛んできました」

「威嚇だ。当たらない」

 アイストスはやはり見向きもしなかった。強い海風が吹いているせいで確かに矢は風に押し戻されて彼らのいる浜辺よりもかなり手前に落ちていた。 

「半分は陸に残り、いつものように森の中に居るふりをしながら時々姿をみせて、平常どおりを装え」

 泳ぎの達者な順に近衛隊の役割をふり分けて若君は仔細を命じた。曇天の空から筋状に落ちてくる弱い光を身に浴びた若君はしばらく崖を見上げて黙って立っていた。やがてアイストスは微かに笑った。

「見張りの青鎧が去った」

 ひと眠りした若君は早朝の疲れから完全に回復していた。

「行くぞ」

 男たちは波の高い海を渡り始めた。



》続く

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