■十二.


 

 帝国からウィトルウィウスの巣環国に駈け込んでいた第三皇妃は、ウィトルウィウス卿と仲違いして巣環国から出て行くと、母方の実家のある東の国に入っていた。

「アフロディテ姫なんかよりも、わたくしの産んだ皇女を尊重するべきよ。わたくしの娘は皇帝と同じく先帝の血をひいている皇帝の異母妹なのよ。なのにあの皇帝は第三皇妃たるわたくしのことも、皇女のことも、見向きもしなかった。従妹のアフロディテばかりに執心していた」

 帝国領に近い太守の城に亡命した第三皇妃は、元はといえば、後継争いに東の国の干渉を持ち込んだために皇帝に睨まれて、追われるようにして帝国を出てきたのだったが、このまま先帝の血をひく皇女が帝国から忘れられて異国の捨て石となり、虚しく代が変わっていくことを一番怖れていた。

「疫病が流行すればいい。帝国の皇族が全員が死に絶えでもすれば、ここに尊い血があることを想い出してもくれよう」

 しかしそう都合よくいくとも想えない。

「忘れられてなるものですか。なんとか帝国と縁を保ち、皇家と強い繋ぎをもっておかなければ」

 そこで第三皇妃が眼をつけたのが第二皇妃だった。第三皇妃は第二皇妃のことを、何事も深く考える頭もなく夢物語にうつつを抜かしている篭絡しやすい女と見做していた。眼先のことにすぐ靡く隙だらけの浅慮な女だと。事実そのとおりだった。その第二皇妃には、皇帝と歳の近い皇子がひとりいる。

「羨ましいこと」

 第三皇妃はまず、第二皇妃を煽てることからはじめた。

「ご子息の第二皇子とアフロディテ姫が結婚なさって、御二方のあいだに御子がお生まれになったら、第二皇妃さまの栄耀栄華はここに極まれりですわね」

 共通の知人の邸宅に第二皇妃を呼び出した第三皇妃は、親し気に第二皇妃に微笑みかけ、懐柔に取りかかった。

「アフロディテ姫の血統ですもの。第二皇子との間にお生まれになった御子が男御子ならば、必ず皇帝におなりあそばしますわ」

 徐々に第三皇妃は第二皇妃を誘導していった。

「お分かりになりましたかしら。それで、この計画には南の国のお抱え傭兵の力が必要なのです。青銅色の鎧で知られた九度軍ですわ。第二皇妃さまのお口添えで南の国の御親族に頼んでいただけませんかしら」

 九度軍が気まぐれにアフロディテを殺してくれるのが一番いい。

 第三皇妃は物騒な期待をしていた。

 混沌とした皇脈の中にあって随一の強力な血筋を持つ目障りなアフロディテが誘拐されるついでに死んでくれても第三皇妃はまったく構わなかった。

 一方、第三皇妃から話を持ち掛けられた第二皇妃のほうは、息子の第二皇子とアフロディテが結婚するというところだけしか理解しなかった。囚われの姫を皇子が救うだなんて、なんて素敵なの。

 愚かな第二皇妃は有頂天になって、「そう遠くないうちに、可愛い孫が抱けるかもしれませんわね。そして生まれたその子を、第三皇妃さまの孫と結婚させればよろしいのよね」と歓んだ。第二皇妃は想像以上に莫迦だった。

 第二皇妃はほんとうに愚かだった。それも愚か者らしく、余計な時に余計なことをしでかして事を無駄に大きくしていくという、軽率な特徴も備えていた。

 第二皇妃は息子の第二皇子に青鎧の件で叱られた後、云われた通りにおとなしく友人の家に遊びに行くことはしなかった。何かとてつもない大失敗をしてしまったということだけは分かったので、大急ぎで挽回しようと勝手に動きまわり始めた。

「皇帝陛下に。いいえ、それだけは駄目」

 第二皇妃にとって、若い皇帝はただただ怖ろしいだけのものだった。息子と変わらない年齢なのに皇帝の前に出ると身がすくんだ。皇帝から思い切り軽蔑されていることも分かっていた。また、皇帝のほうからも、頭空っぽな愚かな女に振りかけてやる関心など持ち合わせていなかった。第二皇妃はいつも息子と変わらない年齢の若い皇帝から侮蔑を隠さぬ態度で黙殺されてきた。

「皇帝には何も頼めないわ」

 第二皇妃にもそれだけは分かった。

「誰にお願いしようかしら。そうだわ、臣メナンドロスがいいわ。あの方は、わたくしにもいつも親切だもの。女人にやさしい殿方だからお願いしたら、それはお困りでしょうと、すぐに何かして下さるわ」

 第二皇妃は臣メナンドロスに何を頼むのかさえ実はなんの考えもなかった。とにかく今そこにある胸のざわめきを誰かに向けて吐き出して自分が楽になりたいということしか頭になかった。その結果どうなろうが、第二皇妃は責任も取ったことがなかった。

 その時に想い付いたことを云うだけでいいのだ。そうすればいつも誰かが何とかしてくれる。今までもそうだったではないか。

 第二皇妃はその生き方に何の疑問も抱いてはいなかった。悪人ではなかったが、第二皇妃は一言で云うならば、やはり莫迦だった。

 それでも母を庇う第二皇子に云わせれば、

「母は大体において愚かであり、困った人だが、母性の深さには嘘がない」

 ということになる。

 第二皇妃は可愛い小動物や子どもが好きだった。赤子や幼児など見ようものなら「抱かせて」と両手を伸ばして満面の笑みで頬ずりし、「なんて柔らかいお人形でしょう」と周囲の者が想わず釣り込まれて笑顔になるような邪気のない愛をそそいだ。それは貴族の子だろうが侍女の子だろうが、奴隷の子だろうがまったく分け隔てなかった。

 「可愛らしいわ。お菓子をあげましょう。玩具を買ってあげましょう」

 小さきものを善き心のままに可愛がる第二皇妃はまったく善良だった。第三皇妃の娘の皇女が性格のきつい強者の母の顔色をいつも窺ってびくついているのに比べれば、第二皇子はそんなのどかな母でまだしも良かったと云わざるを得ない。少なくとも第二皇妃は、息子の没頭する工房通いや設計図収集を咎めたり、叱ったりすることは一度もなかったからだ。


 そんなわけで、第二皇子に叱られた第二皇妃は今日も特に策もなく、宮殿の通路の片隅にぽつんと立っていた。

「臣メナンドロスは何処かしら。宮廷に来ているかしら。御前会議から帰る時に掴まえればいいわよね」

 庭師たちが中庭の花の手入れをしているのを第二皇妃は眺めていた。いつ見ても美しい庭だった。あの花はなんという名の花だろう。あとで庭師に頼んで一株分けてもらい、屋敷に植え替えてみよう。

 そんな第二皇妃に想いがけない苦難が訪れた。

「第二皇妃。しばらくぶりです」

 独特な声がしたと想えば、傍仕えを従えた皇帝が廊下の向こうからやって来たのだ。

 逃げ遅れた第二皇妃は通路の片側に寄り、片脚を引いて急いで礼をとった。内心では「そのまま行き過ぎてお願い」と第二皇妃は悲鳴をあげていた。第二皇妃はこの若い皇帝が怖い。皇帝がまだほんの小さな頃から昆虫やとかげを引き裂いて遊んでいるのを第二皇妃は見てきた。少年にはありがちの行為であったが、何かそこに看過できない残虐な偏りがその頃からすでに萌芽していた。

 第二皇妃の希いもむなしく、皇帝は第二皇妃の前でぴたりと脚をとめた。整った顔が皇妃に向けられた。

「どうしたのです第二皇妃。こちらに何か用でもあるのですか」

「皇帝陛下。ご機嫌うるわしく」

「貴女はいかがですか。第二皇妃」

「ええ」

 声がうわずった。回らない頭を振り絞り、第二皇妃は一刻も早くここから逃げ出したい想いで、

「陛下のおかげをもちまして」

 ようよう絞り出した。

 多少は手応えのある第三皇妃とは異なり、皇帝にとっての第二皇妃は、塵屑も同然だった。いたぶって愉しむ気にすらなれなかった。そして当然ながら第二皇妃のような愚鈍まる出しの女のほうが才のある他のものに比べて、皇帝のような変質者の許では生き延びる確率が高かった。

 第二皇妃の内心の恐怖を見透かしたように若い皇帝はまだ立ち去らなかった。

「皇妃」

 皇帝は第二皇妃に話しかけた。

「貴女は確か、宮に小さな森を模した庭を造り、そこに動物を放し飼いにされているとか」

 取るに足りぬ小さな庭です、と第二皇妃は応えた。

「何がそこにいるのです。どのような生き物が」

「鳥やうさぎ、羊でございます」

「それだけですか」

「小鹿もおります。水堀には魚も」

「そうですか」

 普通の会話なのにひたひたと恐怖が忍び寄って来る。皇帝に殺される前に動物たちは全て逃がしたほうがよいだろう。或る日突然皇帝の使いがやって来て動物たちを連れて行き、調理されて、宴の席で無理やり食べさせられるかも知れぬのだ。皇帝はそのくらいの意地悪は平気でやる。

 第二皇妃は俯いた。

「ご機嫌うるわしく陛下」

「先ほど既に貴女は同じことを云われました」

「申し訳ありません」

「それに、予は機嫌がうるわしいとは云えぬようだ」

「申し訳ありません」

「何故か分かりますか」

 もはや陰険な若い教師と、歳のいった出来の悪い女生徒の問答のような拷問の刻だった。

「第二皇妃。予の機嫌がすぐれぬのは、何故かわかりますか」

「分かりません。陛下」

 苦行の時間だった。頭に閃いたことを第二皇妃は口走った。

「陛下、わたくし、これからお友達のおうちに行かなければなりませんの」

 必死で云った。

「少し遠いのですわ。そろそろわたくし、出立しなければ」

「ほう」

「此処で陛下にお逢いできて、暇乞いが出来て嬉しゅうございます」

 皇帝は不気味に笑んだ。

「長い留守になるのですか」

「ええ、ええ」

「寂しくなるだろう。とくに第二皇子が。本来ならば第二皇子には独立した宮を外に持たせるべきなのだが、予のわがままで眼の届くところに居てもらっています。母である貴女にはご不満なことであろう」

「皇子のことは何の心配もしておりません。陛下」

 生唾を呑み込みながらも、皇妃は勇気を振り絞った。第二皇妃は若い皇帝の顔を真正面から見上げた。

「陛下のお近くにいる限り、第二皇子の身に何かあろうはずもありません」

「そうであることを期待しよう」

 蒼ざめている女の顔を眺めながら、皇帝は女の上に目下の眼の上の瘤である第二皇子の面差しを重ねて堪能した。

「では第二皇妃。予はもう引き止めぬ」

 長身の皇帝は女の頭の上からせせら笑うようにして云った。

「道中お気をつけて行かれるがよい」

「ありがとうございます陛下」

 悲鳴のような返答を残して、第二皇妃は転がるようにして宮殿から立ち去り、大急ぎで荷物をまとめると第二皇子が勧めたように本当に遠くの友人の家にその日のうちに立ち去った。



 海の孤島に乗り込む決行の前日、タキトゥスと若君は月が中天に差し掛かるまで起きていた。夜の浜辺には焚火が小さな赤い炉のように燃えていた。

「今宵もまた魚と鳥か。煮詰めた果汁をかけまわした鹿か猪が食べたい」

 殿様らしいわがままを云いながら、アイストスは上品に魚を食べていた。別段お上品に食べてはいないのだが、立ったまま魚にかぶりついていても上品に見える。

「領地に妻と子がいるのだ」

 しばし待て。そう云ってアイストスは妻あての手紙をさらさらと書いていた。

「領地のことや子どもたちのことは心配のないようにかねてから差配しているが、妻は女らしく他にも気を回すものだから、こんな手紙でもあれば安心になるだろう」

 夜空を見上げるアイストスの横顔は煌めく星々と愉しそうに話をしているかのようだった。

「流れる星を見て、あれは神が投げる槍なのだとディテが真面目に云ったのだ。おかしくてね。流星を見るたびに一緒に暮らしていたあの頃を想い出す」

 たった一年で終わった新婚生活であっても彼らは本当に倖せだったのだろう。

「さあ、これでいい」

 領地の妻に宛てた手紙を従僕に預けると、夜のしじまの中で、アイストスは皇帝にまつわる怖ろしい話をタキトゥスにきかせてきた。

「侍女だ。すみれちゃんといった。皇帝に殺されたのだ」

 薔薇ちゃん百合ちゃんの前に菫ちゃんという侍女がいたらしい。

 皇帝はアフロディテが頑として靡かぬので、嫌がらせとしてアフロディテの当時の侍女の菫ちゃんを取り上げた。

 姫さま。

 侍女の菫ちゃんは宮殿に赴いて皇帝に抗議しようとするアフロディテに抱きついて止めた。

 姫さま。妹のような姫さま。こんなわたしでも皇帝の気晴らしにはなるでしょう。皇帝陛下の御心が少しでも安らぐように、わたしは皇帝の許にあがり、姫さまのことをそこから想っています。

 それきり、菫ちゃんの姿を見た者はいない。

「死んだのだ。おそらく皇帝に虐待されて殺された。自死したという噂もある。菫ちゃんの遺体は遺体処理用に飼われている豚が食べてしまい真相は不明だ」

 タキトゥスは夜の海の彼方に眼を向けた。うんざりだ。皇帝とアフロディテの間に起こることはいちいちが暗い。

「可哀そうだとは想わないか」

 可哀そうだと想います。それなのに、なぜか横にいるアイストスは踊る火を見詰めながら薄く微笑んでいる。怖い。

「菫ちゃんは、今はわたしの所領の農園で子を生み育てている」

 アイストスは片手で白砂をすくい取ると夜風に細く落とした。

「皇帝の寝所に召される直前に、菫ちゃんの衣を着せた羊の肉を豚舎に投げ込んでおいたのだ。それには第二皇子の手も借りた。皇帝は薄々わたしの仕業だと分かっていたのだろうが、いかな皇帝とてたかが侍女のことで名門貴族のわたしを詮議することなど出来ぬ。アフロディテの許に菫ちゃんを連れて戻った時は、このアイストスも少々得意だったぞ」

 その美しい顔と肉体を持ちながらその過激な性格は先祖の皇帝の血のなせる業なのだろうか。貴族の若さまは本人に悩みがないがゆえに、困難が冒険にしか見えていない。

 横を見ると、勝手にタキトゥスの軍套をかぶってアイストスはもう寝ていた。



 船が乗っ取られているとも知らず、島の守備隊はいつものように船着き場に船が停まるのをゆるした。船の屋根のある室にタキトゥスたちは身を潜めていたが、船が接岸するや一斉に船縁を蹴って船着き場に飛び降りた。

 上か下だろうと見当をつけていたとおり、アフロディテは孤島の塔の最上階にいた。アフロディテは四つの窓のある室の奥から走ってきた。

 抱き合うのだろうと腹をくくって覚悟していたので抱き合う元夫婦の二人を見てもタキトゥスは動揺しなかった。正確には、アイストスが問答無用で姫を胸に抱きしめていた。

「アフロディテ」

 春の太陽の君は胸にいる元妻を眺めた。

「あれ、こんなに小さかったっけ」

「若君の背が伸びたのだ」

「もう大丈夫だ。タキトゥスも来ている」

 いや、俺のことはいい。アイストスとアフロディテがこちらを向いたが、タキトゥスは眼を逸らした。

「アフロディテ」

 アイストスは姫の顔に顔を寄せた。

「外国に連れて行ってあげる。そこでディテちゃんは倖せになるのだよ。その前に少し頑張ろうか。さあ行こう」

 こんな台詞をさらりと吐ける男はこの世に何人もいないだろう。若君はアフロディテの手をタキトゥスに預けた。眼の前を礫のように何かの光が過ぎた。合間に飛び込んで来た敵兵をアイストスが斬っていた。孤島の守備隊の青鎧は不意打ちを浴びて近衛兵の侵入を許したが、急襲を受けてからの立ち直りは早く、今や内も外も敵兵が満ちてきている。アフロディテのいた室の左右からも敵兵が寄せてきた。

「タキトゥス」

 若君は剣を閃かせた。タキトゥスとは剣筋がまったく違うが、アイストスは天性の剣士だった。瞬く間に二人三人と斬り倒した。アイストスは戦闘意欲に眼を怖ろしく光らせていた。昂って微かに笑っていた。その様は若い狼のようだった。

「しんがりを務めてやる。先に行け。アフロディテを連れて船に乗れ」

 この世に何人も云えぬことを云える若君は、この世に何人もいない男だから云えるのだ。

 砦の螺旋階段は中央が吹き抜けになっていた。剣を揮うアイストスは敵兵に足をかけて転がし、青鎧を真下に蹴り落した。

 アフロディテの手を掴んだタキトゥスはアイストスが開いてくれた血路をかいくぐり塔の階段を駈け下りた。

「タキトゥス、こっちだ」

 砦をめぐる螺旋階段の途中や通路では近衛兵と青鎧が狭い場所で乱戦を繰り広げていた。タキトゥスは階段を降りる勢いごと敵兵を斃していった。

 上階に残ったアイストスが斃した兵のものなのか、一振りの剣が音を立てて階段の上から落ちてきた。アフロディテがタキトゥスの手を離してその剣を拾い上げた。女連れでは剣が揮い難くなる。邪魔にしかならない。

「姫」

 タキトゥスは止めたが、アフロディテはタキトゥスから離れて先に行くことを選んだ。拾い上げた剣で敵兵士の脚を斬ると、乱闘の隙間をかいくぐり、アフロディテは階段を跳ぶようにして下りて行った。

「姫が行ったぞ」タキトゥスが大声で怒鳴った。

「姫さま」

 塔の下からタキトゥスの声に応えて近衛兵が駈け上がって来て姫と入れ替わるとアフロディテを追う兵を斬り捨てた。

「受け取ったぞ」近衛兵はタキトゥスに向けて下から叫んだ。

 船着き場では近衛兵が船を護って闘っていた。孤島にいた青鎧の数は多くはなかったが手練れで強かった。

「アフロディテさま」

 近衛兵は船着き場に現れたアフロディテの姿に勇を得ると、「お早く、船へ」アフロディテを押し包んでいそいで船に乗せた。砦の門からタキトゥスたちも出て来た。広い処に出たタキトゥスは船着き場の敵兵を次々と片付けていった。

「船を出すぞ」

 背後からは誰も来ない。誰も降りて来ない。ということは、塔内の敵兵は中に残った若君が一人で防いでいるのだ。

 急いでタキトゥスは砦に駈け戻った。上からずり落ちて来た遺体が階段に引っかかっていた。

「若君」

 アイストスは階段の途中にいた。石壁の切込みから斜陽が差し込んでおり、その陽を浴びながら、若君は死体に囲まれて螺旋階段の壁に凭れて立っていた。タキトゥスはアイストスの周囲から敵兵の遺体を蹴って退けた。

「若君。アフロディテは無事に船に乗ったぞ」

「そうか」

 アイストスは蒼白な顔をして冷たい汗を浮かべていた。その腹から血が滴っていた。

「男を抱き上げる? よせ」

 俯いて苦しそうだったが、こんな時にも若君は微笑む余裕があった。夕陽に染められたアイストスの顔はぞくりとするほど美しかった。傷口を縛って止血するとタキトゥスは肩を貸した。ぼたぼたと血が石段に落ちた。アフロディテではなくこの男の傍らにいるべきだった。最初に逢った時から、全てに恵まれすぎてかえってあやうい兆しがあったのはこの男の方だった。

「ディテは」

「無事だ。船に乗った」

 意識が混濁しているのか何度も同じことを若君は訊いてきた。ディテは無事か。神に愛され過ぎた者がその恵みを余すところなく堪能して、駈け足でこの世を飛び去ろうとしている。

「あの子を護るためになら、世界を敵にしても何でもしようと想っていたのだ」

 若君の身体が重たくなっていた。支えるというより既にタキトゥスは持ち上げていた。アフロディテに逢わせてやらなければ。

「若君。お話にならぬほうがよい」

「元妻だからではないぞ。そうではないのだ」

 もう助からぬことは一目でわかった。滿汐が打ち寄せる船着き場に降ろした時には呼吸も微かだった。

 アフロディテの待つ船に抱き抱えて乗せた。船はすぐに櫂を上げて漕ぎ出した。汐風に髪をなびかせてアフロディテが駈けて来た。

「アイストス」

 アフロディテは強い風に押し流されていく鳥のようだった。

「ディテ」

 片舷に横たえられたアイストスは元妻を呼んだ。その眼から光が消えていった。最期にアイストスは妻に告げた。

「云ったかな。好きだ」

 アフロディテは力を失ったアイストスを両腕で抱えた。

 真の勇者には剣を捧げる。従者たちは主君の亡骸にたくさんの剣を抱かせてその腕を交差させた。男の魂魄はすでに人の世から天上の国に移っていた。その魂は雲から落ちる光の階段を昇り、黄昏の空の彼方に遠く去っていた。

「我はあまり良い妻ではなかった」

 小さな声でアフロディテは抱きしめた元夫に別れを告げていた。

「我は良い妻ではなかった。しかし若君は素晴らしい夫。わが君」

 男たちに送られて遺体は静かに船縁から海に流された。アフロディテが水に沈んでいく亡骸の手を離した。すっかり見えなくなるまで昏い海面を見つめているアフロディテにタキトゥスは声をかけられなかった。

 沈みゆく太陽に照らされた波が船に打ち寄せ、海鳥が寂しい鳴き声で空に飛び交っていた。

 やがてアフロディテは立ち上がった。夕闇の中でその顔はよく見えなかった。アフロディテは男たちに告げた。

 ウィトルウィウスに投降しよう。



》続く

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