Ⅷ
■八.
皇帝の落ちくぼんだ眼窩には昏い宝石のような目玉がはまっていた。歩く骸骨と呼ばれていたが、肉付きが薄く痩せているだけで、実際に逢えば整った顔立ちと長身も相まって高貴な木乃伊が息を吹き返してこの世に甦ってきたかのような印象があった。
王の間の王座にかつて座ったことのある数多の皇帝のうちでも、アフロディテの従兄はその容貌からも性格からも異色の皇帝のうちに数えられた。
堅いその表情は金属に彫られたかのようだったが、たまに酷薄に笑った。皇帝が嗤うと、そんな時には面目を失う臣がいたり、地下牢から鞭の音が響いてきた。罰せられている者の嘆きや叫びを聴きながら皇帝は薄い唇を引き歪めて嗤っていた。
幼い頃から胸を病んでおり、いつも具合が悪く、息を切らしていたが、皇帝の気性は苛烈だった。思い通りにならぬ身体と熱を帯びているような飢えた焦燥の二つを、皇帝は誰か別のものを過酷に罰することで晴らしていた。
陰険さにかけては同じようだった皇帝の母である第一皇妃が亡くなるとそれは一層表に出てきた。
皇帝には側女が幾人もいたが、一夜明けるとその女たちの顔は蒼白で、何も語らず、順番に病んでいってしまうという噂だった。
いまだ皇后も皇妃も持たぬ皇帝は、空席のままの皇后にアフロディテを求めた。高貴な血筋をもつ従妹は皇帝の妃となるのに申し分なく、とくに今は亡き皇帝の母である第一皇妃がこの婚姻に熱心だった。
貴家のアイストスと一度結婚して離婚したアフロディテが十五歳になると、第一皇妃は皇帝の嫁となるようにアフロディテに圧力をかけた。それを断れたのはアフロディテが先帝の孫娘にして皇統の正統な流れという血筋の強さを持っていたからだった。アフロディテの持つ青い血は第一皇妃などよりもはるかに上だった。
「お気の毒に。第一皇妃もあんなに急がれなくてもよろしいのに」
第二皇妃は第一皇妃からアフロディテを庇うようなふりをしながらも、こちらも息子の第二皇子とアフロディテの結婚を熱望しており、詰まらない仕掛けを色々とやってきた。肝心の息子の第二皇子は母のたくらみを相手にしておらず、気乗りもしないままだったが、ある時などアフロディテが小劇場にお呼ばれして行ってみると、そこに居るのは同じように騙されて来た第二皇子だけだったということもあった。
「仕方ない。ついでだから観劇していこう」
他に誰もいない劇場で第二皇子とアフロディテは二人の為に書き下ろされたと思しきとんでもなく陳腐な恋物語をみせられた。もちろんそれで恋が生まれるはずもなく、皇子と姫は観劇の時間を忍従した後、劇の幕が下りると礼儀正しく「おやすみ」「皇子も」と互いに夜の挨拶を交わしてお別れした。
皇帝は何度も求婚した。アフロディテは全てを台無しにしていった。
しびれを切らした皇帝はアフロディテ姫に無理強いしようと誘拐を試みたが、姫は護衛と共に逃げ切った。
罠にはめて宮殿の一室に閉じ込めてみても、その時は計略に気づいた薔薇ちゃん百合ちゃんが護衛の力を借りて庭側から天窓を破って姫を逃がし、姫は屋根を伝って逃げ去った。
逃げ回っていた皇帝の従妹は、或る時ついに第七軍の将として宮廷から姿を消してしまった。
臣メナンドロスなどは姫に同情的で「まだ少女であられるから」「前夫が前夫であられたから」とそれとなく皇帝を宥めていたが、帝国皇帝に逆らうアフロディテへ向かう皇帝の妄念は可愛さあまって憎さ百倍の段階に入っており、何度も刺客を差し向けているという噂にすらなっていた。
その皇帝を前にして、フラミニウスと従者のミュラが膝をついていた。
「第六軍を使うがよい」
皇帝の声は独特の響きをもって王座の間に響いた。
「近衛将校らが邪魔だ。アフロディテ軍の力を削ぐのだ」
フラミニウスとミュラは膝をついて頭を垂れていた。
「第二皇妃と第三皇妃が結託して浅知恵を絞っているようだが、放っておくがよい。予と目的を同じくしている者どもだ」
皇帝は咳き込んだ。傍仕えがすぐに水薬を差し出した。その薬がないと皇帝は夜を越せないと云われていた。
「もう一度だけ予はあの従妹に機会を与える」
水薬を飲み干した皇帝は少しむせて、さらに苦しそうに咳き込んだ。
「皇帝に対して反抗的な女は許してはおけぬ」
皇帝の頭部には略式の細い冠があったが、頭がい骨の形が分かるほどに痩せた皇帝の頭にあるその輪は、若い皇帝に責め苦を与える煉獄の環のようだった。
「たとえ従妹であろうが皇帝の前では臣下」
皇帝は眼を光らせた。
アフロディテとは一度、宮殿の広間で踊ったことがあった。衆目の中で皇帝が片手を差し出して誘うと、男装の従妹姫は無表情に応えて皇帝の手を取った。皇帝が抱く女はたいてい媚び過剰かまたは恐懼しているものだが、従妹姫は皇帝の腕の中でも掴みどころのないような顔をして、踊りが終わると水か風のようにするりと退いていってしまった。その時以上にアフロディテが皇帝の近くにいたことはない。
「従妹アフロディテとても帝国の皇帝には逆らえぬ。それを教えてやるのだ」
憤りを隠さなかった皇帝の顔にはじめて昏い笑みが浮かんだ。フラミニウスと従者のミュラは深く頭を垂れた。
王の間で皇帝がフラミニウスと従者ミュラによからぬことを吹き込んでいた頃、そこから遠くない皇子宮では第二皇妃が息子の第二皇子にまた別のことを煽っていた。
「陣中見舞いなど必要ないでしょう。母上」
第二皇子は大きな机に土木工事の図面を広げてそれを眺めていた。
「そんなことはありません。心細いところにお見舞いがくれば、誰でもほろっとくるものよ」
「母上はアフロディテを誤解しておられる」
工事の図面や何かの設計図を見るのは第二皇子の趣味だった。皇子の室には他にも水道工事や街道工事の図面、兵器や塔の素描が壁の棚を埋め尽くすほどに揃えられていた。巻物にされた図面はきれいに分類されて収納されており、第二皇子は飽くことなく新しい図面や発明家から取り寄せた設計図を手許に収集しては魅入るように眺めいっていた。
「心細くてほろっとくるような女人が男に混じって軍隊にいますか。アフロディテはそんな人ではありませんよ」
「ずっと気を張っているに違いないわ。おいたわしい」
大げさに第二皇妃は嘆いてみせた。
「だからそういうところに皇子の貴方が行って姫に優しい言葉をお掛けなさいとお勧めしているのです。女はそういう男の優しさにほだされて殿方を好きになるのよ。様子を観に行って貴方が姫にこう云うの。わたしの妃になれば荒々しい男どもに囲まれていなくていいのだ、無理なことはしなくてよいのだ。こう云って姫を抱きしめて差し上げなさいな。幸いにも貴方は皇帝よりも体格がよいのだから男の包容力で差をつけるべきよ。初婚以来アフロディテ姫には決まった殿方がいないのよ。いけるわ。皇帝だけでなくあなたも姫の従兄なのですよ。皇帝と年も近い。どちらを選んでも従兄なのだからよいでしょう」
「すごいな」
「なにが」
「実に女人の発想だなと想って。理論も理屈もなにもない」
「理屈はいま云ったではありませんか」
「いけるわ。母上の口からそのような俗な言葉は聴きたくないものです」
第二皇子は眺めていた設計図を横に外すと、傍仕えに手伝わせて次の新しい図面を大机に広げた。青銅の文鎮を置いて紙面を広げると、皇子はもう母の存在など忘れたかのように図面の上に身を傾けていた。
「皇帝になりたいとは想わないのですか」
「それは母上の望みですか」
「あなたのお気持ちをきいています」
「はいはい」
「何としても皇帝とアフロディテの結婚だけは阻止するのよ。皇子でも生まれたら大変だわ。あの病弱な皇帝は長生きはしません。次の皇帝は貴方です。だからアフロディテ姫を妻にすれば次代の皇帝になる貴方の地位は揺るがないのですよ」
「それなら猶更のことアフロディテのことはそっとしておいてあげて欲しいな」
大机に片手をついて第二皇子は母である第二皇妃を振り返った。
「誰が皇帝になろうがなるまいが、血筋が良かろうが悪かろうが、その者が帝国にとって皇帝であればそれでよいのではありませんか」
「どういう意味」
「先ほどの問いに応えたつもりです」
「皇帝になりたいの、なりたくないの」
「母上、遠方から手紙が来たようです。外してもらえますか」
「第三皇妃がわたくしに面白い話をもってきたの」
「聴きたくない。知りたくありません」
第二皇子は差し出された盆の上から手紙を受け取った。まだそこに居た第二皇妃は嘆いて云った。
「せめてアフロディテ姫がもう少し男の気を惹くような美しい姫だったら良かったのに。絶世の美女は無理でも庇護欲をそそるとか、せめて愛嬌があれば、今頃わたくしは貴方と姫の間に生まれた御子を抱いていたのではないかしら。せめて十人並みであられたら」
「母上。怒りますよ」
「そろそろわたくしも孫の顔がみたいのよ」
「母上」
第二皇妃を追い払うようにして追い出してしまうと、第二皇子は届けられた手紙の封蝋を破って中身に眼を通した。もし誰かがその手紙を眼にしたとしてもおそらく何も読み取れなかっただろう。水茎美しいながらも、そこに並んでいるのは見た目は未知の言語だった。
紙面に書かれていることを読み取れるのは第二皇子と差出人だけだった。
「いいのではないかな」
読み終えた手紙をたたんで第二皇子は呟いた。
「従妹の姫のことはこのままで良いとはわたしも想っていないさ」
頬杖をついて皇子は何事かを考え込んだ。窓から差し込む庭の翠のひかりが皇子の手にした手紙を透かして裏面に暗号文字を浮かび上がらせた。皇子はその文字を眺めながら独り言を洩らした。
「さて、彼はいずこの国を候補にお考えであるのやら。任せていても彼のことだ、間違いはないだろうが」
「皇子」
隣りの寝所から髪をほどいた女が控えめに顔を出していた。半裸の身を衣で隠すようにして、おずおずと女は窺った。
「皇妃さまはもうお帰りになりましたか」
「すぐ行くから待ってて」
皇子は手紙を細かく千切って皿の上で火をつけて燃やした。それが終わると第二皇子は壁一面の棚に揃えられた図面を眺め渡した。皇帝になれば彼にはやりたいことがあった。女の白い肌の曲線を辿る時にも女の赤い唇を吸う時にもそのことが頭から離れたことはない。男の胸を真にふるわせるものは女の上にはない。身体を合わせる女の美醜よりも尊く美しいものがある。
皇帝の名は要らぬが皇帝の力は欲しい。美妃も美食も世継ぎも要らぬが帝国皇帝の力が欲しい。それを得た者はこの世界を創造できるのだ。
第二王子は設計図を納めた棚の前に立った。彼の夢想の中で平面の図面からみるみる建造物が建ち上っていった。石造物は雲を抜き山河を超えていた。橋の上を青い水が流れていく。
三千年先の世にも遺るような巨大な水道橋を造ってみたいというのが第二皇子の夢だった。
第六軍の将ユリウスはアフロディテと馬を並べていた。少し先でユリウス軍とは別れるのだが、ちょうど詰まらぬ小民族との小競り合いがあったので、第六軍と道行が同じだった七軍の両軍がそれに対処していた。
何の心配も要らぬ闘いだった。帝国領の外れに勝手に棲んでいる異民族が通過中の皇軍相手に矢を射かけてきて兵糧を盗んだり暴れることはよくあることだった。帝国軍の兵たちは彼らを原人と呼んで駆逐に励み、原人の方は本格的にやられる前に奪ったものを抱えて逃げていくのがいつもの流れだった。
将たちは高台で戦を眺めながらのんびり世間話をしていた。
アフロディテは馬を並べた隣りのユリウスに話しかけていた。
「遅くなったがお祝いを云わなければ。ユリウス殿。先日の武芸大会では弓技で優勝されていた」
「いやいや」
「我は弓も剣も劣る」
「姫も大変でしょう」
「将とはいえ我は飾りもの。部下のはたらきがあってこそ」
蛙が引き延ばされたような顔をしたユリウスは胸をそらした。
「淑女の身でご苦労なさっていることでしょう。何かあればいつでもこのユリウスを頼りにされて下さい姫」
「女の身にはありがたいお言葉」
理由は分からないがアフロディテはユリウスに対してはいつも優しいといってもいい態度だった。アフロディテはさらに云った。
「七将いるといえども同年代はユリウス殿だけ。ユリウス殿がいて下さるのは我にとっても、まことに心強いもの」
「いやいや」
「禁衛軍から五軍までの歴戦の将の方々に追いつけるように我らも精勤いたさねば」
共に頑張りましょう姫みたいなことを張り切ってユリウスは姫に云っていた。女の世辞を鵜呑みにしてやに下がっているユリウスはどうしようもないが、宮廷で過ごすと無口な女であってもこの程度の身過ぎ世過ぎは自由自在に口をつくらしい。
アフロディテは馬を並べたユリウスに顔を向けてにこりと笑ってみせることまでやっていた。皇族の女の演技力に、近くから見ていたタキトゥスは恐れ入った。姫もやれば出来るのだな。
まったく心のこもらない言葉がなぜかアフロディテには似合っていた。愛想がなくて素っ気ない外観と一致している。
散々に帝国軍にやられて逃げ去っていくかと想えば、最後になって決死の形相の蛮族が将を目指して走って来た。剣闘士にとって剣は斧だ。撥ね飛ばした男の首が折り合い悪く姫さまの馬の鞍に落ちて行った。
一度高く上がって鞍の前に毬のように落ちてきた男の生首を姫さまはユリウスと話しながら馬を少し動かすことで払い落した。そして「七軍、引け」と云った。
群青色の雲がかかり、夕陽が雲を薄紅色に縁取っていた。暮れていく空を色濃く映す河に入り今日の汚れを洗い流している兵士たちの姿が影絵になっていた。
流れの上手の方ではエトナが当番兵と共に桶を持って何度か往復している。アフロディテも天幕の中で湯あみをしているのだろう。火を熾して温めた湯で身体を拭い、薄物一枚をつけたままの姿で盥に座ってエトナから湯をかけられているのだろう。こういう時には草か枝みたいな女で良かったと想わずにはいられない。
「六軍のユリウスと姫さまが結婚するほうに賭ける」
「絶対ないわ。もらったわ」
「当たったら大穴すぎるな」
不敬な賭け事をしている兵士たちを見つけた将校が金札を取り上げて叱りつけていた。現金を持てない代わりに最低限の金札が配られており、必要があれば申請の上で硬貨に替えることが出来たが、何度禁止しても娯楽が少ないので賭け事をやる者が出た。
「罰として明日から五日間、武具磨きだとよ」
「自業自得だろうが」
夜の食事が出来るまでのあいだ、草地に広げた敷布に兵士たちと一緒にタキトゥスが転がっていると、簡易な衣に着替えた姫さまが歩いて何処かへ行くのが見えた。
気配を消して後を附いて行った。
夕餉の支度の煙が幾筋も立ち昇っている炊屋を横切って、姫さまは人がいない方へと歩いていた。林の近くの囲いの中に姫さまの馬が繋がれていた。姫さまは柵の間をくぐって中に入っていった。姫さまが来たことを喜んで馬がいなないた。
姫さまが馬を撫でて今日のはたらきをねぎらうように話しかけている。隠れているタキトゥスには何も聴こえなかった。
美しい空が広がる夕闇だった。姫さまは馬と何かを話していた。何を話しているのか知りたかったが、知るべきではないと想った。馬の首を抱いてアフロディテは馬に囁きかけ、馬に頬をすり寄せていた。
姫さまは人よりも馬が好き。
黄昏に包まれて馬に話しかけているのが姫さまではなくて、騎馬民族だった頃の子どもの自分であるかのような錯覚をタキトゥスは覚えた。藍色の空と光りはじめた星々がひどく懐かしかった。
タキトゥスは姫さまを残してそこから立ち去った。エトナが姫を探していた。すぐに戻られるから夕食は温めておけとタキトゥスはエトナに云った。
「お前が喋れたなら、我のことを何というだろうか」
アフロディテは馬に訊ねていた。
「我はお前が好きだが、お前はこんな処には居たくはないだろう。いつの日かお前と一緒に鈴蘭やりんどうの花が咲く野原に行こう」
女は馬におとぎ話を聴かせているのだった。
「草の波が打ち寄せる地平の果てに果物のような夕陽が沈む。空に浮かんだたくさんの星座を追いかけながら、大河が渦を巻いて落ちている大地の終わりにお前と行こう。そこには大きな籠があって、いろんな色の虹やかがやく雲や、作物を実らす水晶の雨が隠されているのだよ」
馬は優しい眼をして姫さまの語るお話を聴いていた。
》続く
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