■四.



 アフロディテ軍の捕虜になった者たちの落胆は深かった。彼らの多くは姫将軍をはじめて間近に見たのだ。

「アフロディテっていや、ほら、こういう」

 両手で何かをこねるような仕草をしている捕虜に大いに同感しながらタキトゥスは捕虜を乗せた無蓋馬車を護送していた。

「うちの殿さまが何であの姫さまにご執心なのかまるで分からん」

殿さまというのはウィトルウィウス卿のことだ。

「あの姫さまの話しぶりをみたか」

「見かけもそうだが、ぱっきぱきのぱっさぱさ」

「小枝みたい」

 捕虜の妄言を聞き流しながら、タキトゥスはその評にも深く頷いた。全体的に姫さまには女らしい丸みや潤みが皆無なのは否めない。親族の皇帝からして頬が削げていた。皇系には何か共通の病気の遺伝でもあるのだろうか。

 それでも美しい名との落差にがっかりしてから見慣れてくると、姫さまは姫さまで悪くないと想えるようになるから不思議だ。健康美とはほど遠いが全体的に小さく整っていて、曇り空から降る雪で固めたお人形のようだ。特に灰色の眸がよい。落ち着いていて賢そうだ。

 無駄口を叩かぬ姫さまから「タキトゥス」と呼びかけられると少し背筋が伸びる気がするのも悪くなかった。所属の将に対する身贔屓も入っているが、若い女の上官に対して斜めに構えていたのはこちらの方で、今では多少なりともあった侮る気持ちはすっかりなくなっていた。大軍を率いて敵軍の中央を突破していった姫の雄姿を見た以上、敬意が生まれるのも当然だった。

「お呼びですか」

 姫さまの前に進み出てみると、休憩中に近くの農家の娘を強姦しようとして止め立てに入った父親を殺害した上、証拠隠滅に納屋と家に放火した自由民の傭兵を今から処刑するので「タキトゥス、そなたが斬れ」という物騒な命令が下されてきた。

「軍規十条を破った者は即日処刑に処す」

 縛られて引き出されてきた傭兵にアフロディテは抑揚のない声音で云い渡した。

「わが軍の不始末。ご足労ねがって痛み入ります」

「なんの。暇だったしな」

 こういう際には別の軍から立会人を連れてくるのが決まりらしく、アフロディテは第三軍の老将軍にそれを頼んでいた。第三軍を率いる老将は白髪まじりの髪にこそ年齢を感じさせるが、老将と呼ぶには躊躇われるほど重厚な感じの男だった。三軍の将はアフロディテの隣りに設けられた席についた。第三軍は皇軍の中でも要の軍だった。若年であり序列が最後のアフロディテが顔を立てて頼るには順当な人選だった。

「剣闘士が処刑人らしいぞ」

 話がすぐに回ったとみえて大勢の将兵が臨時の処刑場を取り囲んで輪になっていた。七軍だけでなく三軍の将兵も来ていた。タキトゥスは目隠しをされて膝をついている男の後ろに立った。軍属が強姦して殺害して放火したらこうなることは分かり切っているのに衝動を抑えきれずにやる奴がいる。軍隊には必ずこういう輩が混じっている。殺戮慾を満たし、獣慾を満たすためだけに志願して入ってくる短絡的で、頭のたがが外れたおかしい奴がいる。

「作法があるが略してよい」

 アフロディテが皆にも聴こえるように云った。作法など教えてもらっていないし、好きにしてよいということだろう。強姦魔にかける情けなどない。タキトゥスは背後から腕を掴んで男を立たせた。男は立つことも出来ぬのか膝から崩れそうになった。軽く弾みをとると剣闘士は軸足から半身を回した。

 見物に集まっていた将兵たちがどよめいた。タキトゥスは閃きを描いた剣を従軍奴隷に返した。奴隷は布で剣身についた穢れを拭った。罪人の首が落ちてきた。

「これは見事」

 老将軍は大満足だった。第三軍の将は連れて来た従者と顔を見合わせて笑い出した。見物の将兵も放心の後に我知らず手を叩いて今の愕きを賞賛に変えていた。

「首が飛んだな」

「試し斬りではなく、斬ったのか」

「あまりにも速くて遺体がしばらく立っていたぞ」

 姫さまはというと顔色も変えていなかった。

「皆も見たであろう」

 アフロディテはそこに集っている将兵に淡々と呼び掛けた。

「軍規を破った者には例外なく今の処分が下る。此度は新入りの傭兵であったが、上官はとくに部下の動向に気をつけられたい」

 雪を固めて作った駒人形。そう想うことすら礼儀を欠いているのだろうが、他にちょうど良い喩えがない。表情の乏しい姫さまの外観の美点をなんとか探してやっとその結論になったのだ。藁や小枝になぞらえるよりはましなのではないだろうか。

 もう用はないだろう。タキトゥスが行こうとすると、第三軍の老将軍に掴まった。直接お褒めの言葉を賜った後は、七軍と三軍の将兵に囲まれて、たいていの人間が剣闘士に向けるような凡例的な質問責めを受けた。剣闘士になって何年だ。何処の養成所で訓練を受けたのだ。その腕を触ってもいいか。

 ストラボを連れたアフロディテは身をかがめ、傭兵の遺体とタキトゥスが飛ばした首を検分していた。


 

 砕いた銀の粉をまぶしたような秋の日差しが眩しかった。

 行軍する間アフロディテの身の回りの世話は誰がしているのだろうとタキトゥスがみていると、姫さまの世話は少年が行っていた。

 第七軍の近衛隊はすっかりタキトゥスが気に入っていた。とくにタキトゥスが剣闘士になった経緯については、そこに或るご婦人が関わっているだけに誰に語っても大うけだった。

 戦闘中に遠くに行っていた軍馬を百頭単位で口笛ひとつを使って易々と呼び戻すタキトゥスを見た彼らの眼には尊敬がこもり、傭兵の処刑でみせた凄技の一件で扱いはさらにくだけたものになった。彼らは元次席剣闘士という肩書の珍しさからタキトゥスを見かけると集まってくるようになっていた。

「さすがは騎馬民族の出だ」

「馬のあしらいはアフロディテさまも巧いがな」

 蹄鉄を変えられている軍馬が近くにいた。馬が人懐こそうな眸でタキトゥスの方を見つめている。アフロディテが此処にいれば馬は姫さまを見つめるのだろうか。

「時々小声で馬と喋っておられる。人よりは馬のほうがお好きという御方だ」

 へえ。

「あと、見かけによらず脚がお速い。持久走では及ばないが、短い距離のかけっこならアフロディテさまに負ける男は多い」

 そうなのか。走れるとは意外だ。

 第七軍の姫さま附き近衛隊はタキトゥスの闘いぶりに満足したものか、色々と教えてくれるようになった。

「奥方を伴われているのが第五将軍。昔から女に人気のある伊達男なのだ。年上の奥方は四十代に届こうとする人妻だから男のそういうあれの対象としては最初から除外」

 伊達男の第五軍将軍とは、先日アフロディテと出陣前の軽食をとっていた将軍だった。戦場に妻帯しているとは珍しい。

「奥方といっても軍装で従軍の上、ご夫君の代理が務まるほどの御立派な御方なのだ。アフロディテさまのことはご夫妻で気にかけて下さっている」

「一軍から四軍を率いているのは歴戦の老将や猛将だ。俺たちにはちょっと敷居が高い」

「第六軍の将は姫さまとお歳が近いが、昔から粗忽な方だ。男のくせに剣もろくに扱えない。第二軍と第六軍は皇都と帝都の防衛の任にあたっており、今もいないのだ。一軍だけは禁衛軍と称して、皇帝直属の軍だから別枠で特殊」

 第六軍の将が軟弱者ということが妙にタキトゥスの頭に残った。そんな男が将など聴いたこともない。

「俺たちの第七軍は中枢が貴族の子弟で構成されている。禁衛軍も同じように貴族将校で構成されているが、禁衛軍に入れるのは代々の譜代から一家にひとりだ。そこからあぶれた者たちが七軍の近衛隊にいるのだ」

 やがて姫さまの世話係の話になった。

「やっぱり気になるか」

 そちらは近衛将校のマイウリという男が教えてくれた。同じく近衛将校のストラボと同期で仲がいい。

 世話係つまり侍従ね、とマイウリは説明してくれた。従兵や当番兵など他にも呼び方はいろいろあるが、姫さま付きは侍従でいいそうだ。

 マイウリは歩きながら教えてくれた。ストラボと同じように、この男も最初からタキトゥスに親切だった。

 マイウリは云った。

「最初のうちは薔薇ちゃんと百合ちゃんという二人の侍女が姫さまに附いていたのだが、やっぱり駄目なわけ。戦場に若い女がいると。いろいろと」

 それはそうだろう。極限まで男が野蛮になるところに女がいてどうする。薔薇ちゃん百合ちゃんと聴いただけでもざわざわしてくる。

「それは駄目だ」タキトゥスは力強く云った。

「な。駄目だろう」マイウリも頷いた。

 それを云うならアフロディテだって妙齢の女だが、あそこまで女らしさを削ぎ落せば大丈夫らしい。

「第五軍の伊達将軍の奥方などは乳母を伴われておられる。同じように老婆を附けようという話もあったのだが、姫さまが反対されてな。一人でも二人でもいざという時に戦力になる男でよいと仰せだった」

「ぼくは姫さまのお世話をするのが嫌じゃないですよ」

 その侍従が口を出した。姫さまの傅役の孫にあたる少年にはエトナという女のような名がついていた。姫さまの侍従として戦地に送り出すにあたり、傅役が「今日からそちはエトナだ」と呼び名を決めたという。姫さまの世話をする男に女の名をつけるのは明案だった。

「そういえばお前本名はなんていうんだ」マイウリがエトナに話しかけた。

「傅役殿の孫だったよな」

「それを教えたらわざわざ女名を使っている意味がありませんよ」

 エトナは盥に水と灰を入れて洗濯をしていた。

「別に男名を名乗ったところで姫さまとどうにかなるわけじゃないだろうに」

「お仕えしやすい方だ。姫さまの悪口は聴きたくありません」

「悪口なんか云ってないだろう」

 真面目な少年はすすぎ終えたアフロディテの肌着を樹と樹の間に渡した紐にかけて干していた。

「侍従がそんなことまでするのか」

「姉が二人と妹が一人いて女人の下着も裸体も見慣れているからご心配なく」

 ついでに兄一人と弟一人もいるそうだ。

 声変わりが終わったばかりの少年だったが姿勢と脚はこびが悪くない。あの傅役の孫ならば、普段エトナが腰帯に下げている剣は飾りではなさそうだった。



 一度都に還ると知った第七軍の兵士たちの顔が明るかった。各軍から残留部隊を除いた皇軍は長い蛇のように帝都向けて帰還をはじめた。

 捕虜の中に気になる者が混じっていた。佇まいが他の者とは違う上、従者らしき男が常にそばについている。ストラボとマイウリも気が付いているようだった。

 捕虜の素性はすぐに分かった。

 砦の一つが詮議の場にあてられた。

 居並んだ将軍の前に引き出されてきた捕虜は片膝をついた。

「ウィトルウィウス卿の係累とか」

 三軍四軍五軍の将と並んで、タキトゥスを従えた七軍の将アフロディテもその場にいた。

 三軍が老将軍、四軍が髭将軍、五軍が伊達将軍。タキトゥスは頭の中でおさらいをした。奥方を伴うことで有名な五軍の伊達将軍の傍らには、なるほど、女城主のような落ち着きのある女人が立っている。年増の美人だ。あれが自慢の年上の奥方というわけだろう。こういっては何だがアフロディテと並ぶと完全に若い姫さまが位負けしていた。伊達将軍の伴侶は目鼻立ちのはっきりした華のある女だった。

「フラミニウスと申します。こちらの者は従者のミュラ」

「フラミニウスとな」

「ウィトルウィウスさまの亡き御父上が外の女に生ませた私生児です」

 第三軍の老将軍が破顔して四軍の髭将軍に顔を向けた。「それでは人質の価値もない。この者の首を落とし、ウィトルウィウスに送り付けようぞ」

「お待ち下さい」

 フラミニウスの従者のミュラが進み出てきてきた。顔を上げたミュラはなぜか、アフロディテの方を見た。タキトゥスは警戒を強めた。フラミニウスとミュラの眼付や体格から立ち昇る気配には剣闘士を身構えさせる何かがあった。

「フラミニウスさまの今の自弁はまったくの偽りです」ミュラは云った。

「なに」

「我ら主従、こちらの姫君にお仕えすることが叶えば光栄です。そちらの将こそ第七軍のアフロディテ姫とお見受けいたします」

「おぬしたちは何を云っておるのだ」

 第四軍の髭将軍が不愉快そうに遮った。

「フラミニウス、そちの従者を黙らせよ」

「我らは帝国皇帝陛下からの密書を持っております」

 フラミニウスも従者ミュラの言葉を裏打ちした。

「捕虜になる際に取り上げられております。そちらをご覧いただければ我らのことがすっかりお分かりいただけるはずです」

「密書などあったか」

 第三軍から第七軍の将は集まった。

「姫の第七軍がフラミニウスを捕らえたのであられたな。アフロディテ姫は何か知っておられるか」

 第五軍の伊達将軍がアフロディテに訊いた。見た目も声も渋い。遠目でもいい男だったが、伊達将軍と云われるだけあって近くでみるとさらに男惚れするような美丈夫だった。

「姫」

 その伊達将軍の奥方が夫君の傍らから姫を庇うように見詰めていた。こちらも内心の情の深さが窺えるいい女だった。アフロディテは首を振った。

「確認します」

 アフロディテが調べさせると、近衛将校のストラボとマイウリが「これでは」とそれらしきものを持ってきた。

「回収した者が悪戯書きかと想い、さして重要視していなかったようです。近衛兵である我らの手抜かりです」

「皇帝陛下のご宸筆に間違いない」

 中身を改めたアフロディテが書状を第三軍の老将軍に手渡した。その顔が暗かった。将軍たちも順繰りに書面に眼を通した。

「古語で書かれてある」

 全員、古語が読めるようだ。

「二名は確かに皇帝陛下の密命を帯びてウィトルウィウス卿の軍に潜入していたようです」

 アフロディテは将軍たちに云った。

「皇軍と合流することがあれば、いずれかの軍に保護してもらい軍属になるようにとのことです。彼らは二人とも皇帝の所有する剣闘士です」

「つまり、巣環国の先代領主の隠し子というのは潜り込むための口実でまったくの偽りということか」

 巣環国というのはウィトルウィウス卿の領地のことだ。四方をぐるりと列強に囲まれているのでそう通称しているそうだ。巣環国は要地にあたるため何処の国も自領にと欲し、何処の国も他国に取られまいとしてそれを妨害する。大国との均衡の上に成り立った長い歴史を持っていた。

 フラミニウスと従者ミュラが皇帝所有の剣闘士ときいてタキトゥスは納得した。なんとなく初見から馴染みのある雰囲気だったのはそういうわけだった。

 将軍たちはしばらく討議していたが、やがて戻ってきた。

「あの密書には何が書かれていたのだ」

 タキトゥスがストラボとマイウリの二人に訊くと、

「姫さまがもしウィトルウィウス卿に捕まった時にはお救いして連れ戻すようにと書かれてあったのだ」

「つまりあの二人は皇帝の命で、先代の私生児を詐称してウィトルウィウス卿の許にいたということだ」

 ストラボとマイウリが皇帝の密書の中身を教えてくれたが、彼らの顔も暗かった。

「額面どおりに受け取るなよタキトゥス」

「皇帝は従妹のアフロディテさまに対して感情を拗らせておられる。ああ書かれていてもその実、姫を殺せという命令書なのかも知れぬのだ」

 タキトゥスも皇帝から姫を殺せと命令を受けている。そこは隠してタキトゥスは訊いた。

「姫さまは皇帝と仲違いでもされたのか」

「いや。まあ、そうだが」

 二人の歯切れは悪かった。

「それ以上のものがあるのだ。得難い血筋への妄執というか」

「正統な血脈への皇帝の片恋というか懸想というか。母方が外国人の第二皇妃も第三皇妃も似たようなものだが、亡くなられた第一皇妃とて、お血筋的には傍流で本来皇妃になれるような御方ではなかったからな。皇帝陛下の後継を固めるにはアフロディテさまが一番いい。最上の皇后になられよう。これ以上は不敬にあたる」

 ストラボとマイウリはそこまでしか教えてくれなかった。

 アフロディテは領主ウィトルウィウス卿からは執心され、皇帝からは妄執されているらしい。

 将軍たちの前にふたたび引き出されて来たフラミニウスと従者のミュラは先ほどと同じことを願い出た。

「第七軍の将アフロディテさまにお仕えできましたら」

「反対です」

 タキトゥスは姫の耳に囁いた。

「お止め下さい。怪しい。あの男たちは殺しましょう」

 アフロディテは片手を上げてそれ以上タキトゥスが何か云うのを制した。

「皇帝の所有する剣闘士であり、皇帝からの書がある以上、認めぬわけにはいかぬ。フラミ二ウスと申したか」

「はい」

「第七軍は貴族将校で構成されている軍。そなたの入る隙はない。しかし第六軍ならば従者ともども欲しがるであろう。目下のところ第六軍は帝都の警護の任についている。フラミニウスそれにミュラ。帰国まではそなたらを預かろう。その後は第六軍の将のユリウス殿に仕えるがよい」

 控えている皇軍の兵士がなぜか眼くばせをしあい、失笑をこらえているようだった。第六軍の将ユリウスは男のくせに剣も使えないことで有名という話をタキトゥスは想い出した。



 天気がよかった。宿営地のそばで野生の馬の良いのを見かけた。春に生まれた若駒もいる。馬が好きだというアフロディテを誘おうとした。

「蛮勇を気取ろうとしたわけではない」

 幾ら馬がお得意でも危ない。戦場でウィトルウィウスの馬に飛び移ったことについてそれとなくもう二度としないで下さいと伝えると、アフロディテはきっとなってタキトゥスを見返してきた。

「衆目の中で将である我の剣があちらの将の手で二つに折られたのだ。七軍の将が侮辱を受けてそのまま引き下がるわけにはいかなかったのだ。将への侮辱は皇帝への侮辱。我は皇帝の従妹だ。一撃なりとも浴びせ返さなければ敵方から謗りを受ける。それがたまたま馬上だっただけのことだ」

 それを蛮勇というのだ。一人前の口を利くなら折れるような剣しか使えぬことを自覚して護衛に囲まれていろというのだ。

「それからは白兵戦では後ろに下がるようにしている」

 分かっていると云わんばかりにアフロディテは不機嫌に返答した。

 幕屋にはいなかったのでタキトゥスが探すと、アフロディテは近くの大樹の根本に座っていた。

「姫さま」

 姫は眠っていた。男のように足を組んで小さな顔を俯けて、姫は眼を閉じていた。

「お昼寝でしたか」

 小声でタキトゥスは呼び掛けて一歩さがった。そこから眠っている姫を眺めた。

葉影がかかるせいかその横顔や痩せた首筋が死人のように蒼白かった。本当に胸がない女だとあらためてタキトゥスは男の眼で興味深く姫を見た。おまけして、ぎりぎりあるといえばあるが膨らみかけた少女のそれだ。アフロディテという名のせいで不当にわりを喰っているとはいえ、男装のほうが似合うというほどでもないし、ほうきを持たせてその辺に立たせておけば誰も高貴な姫とは絶対に気が付かないほどの地味さだ。軍隊にいるのが間違いだ。かといって女の衣を着て宮殿や家の中にいるのも似合わない。

 設営の終わった天幕の周囲には将が皇族であることを示す金線の入った軍旗が風に揺れていた。

「失礼しました。また後で起こしに来ます」

 静かに声をかけると大樹の傍にアフロディテを残してタキトゥスは立ち去った。

 胸の発育具合だのほうきだの失礼なことを考えるついでに、男の頭の中ではさらに陰惨なことになっていた。タキトゥスは今見た姫の首の骨をへし折っていた。折ることもあれば絞めることも、刺し殺すこともあった。男の手の中で簡単にアフロディテは死んでいた。恨みごとも悲鳴も上げさせぬうちに剣闘士の腕は一瞬で女を殺め終わった。

 いつかはあの姫さまを殺さなければならない。今はまだその時ではない。

 タキトゥスは白い雲の流れる蒼空を見上げながらアフロディテから離れて行った。

 皇帝が寄こした護衛など初陣で斃れても構わなかった。

 アフロディテは眼をあけた。

 いつもの護衛たちにそうしたように戦に紛れて着任早々殺しておくべきだったのかも知れない。

 大樹の影と絡み合う木の根がアフロディテの足許に黒々とした幻影を広げていた。幾重にも闇を重ねたような黒だった。軍律違反の罪人の処刑をあの男にやらせてそのさまを間近に見ておいた。凄腕の剣闘士を殺すには何人必要なのだろう。黒い沼に突き落とせば這い上がって来ることもないのだろうか。

 父母がその黒い沼から手を伸ばして救いを求めていた。彼らは溺れながらアフロディテを呼んでいた。

 助けて。

 アフロディテは死んでいく二人を見ているしかない。父さま母さま。父母が沈んでいく。向こう岸から別の女がそんなアフロディテを見ていた。波紋を呑み込み黒い沼の面が静かになった。女が近寄って来る。アフロディテは動くことが出来ない。女の両手がアフロディテの頭を掴んだ。

 世界を支配する冠をお前にやろう。

 地上を照らす太陽が木々の真上にあった。降り注ぐ陽光はアフロディテの上には届いていなかった。日蔭に閉ざされたままアフロディテはいつまでもその黒い闇に眼を凝らしていた。

「タキトゥスですが、今のところ不審なことはないかと」

「引き続き見張ります」

 夜になり、アフロディテの天幕の中でストラボとマイウリがアフロディテの前に片膝をついていた。姫にそう告げると、彼らは静かに立ち去って行った。



》続く

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