■三.



 隙間から入ってくる朝風が涼しかった。眼が覚める度に最初は戸惑った。営舎の薄暗い地下ではなかった。見上げる天幕の天井は日差しに明るく、朝日に透ける樹々の陰が青い蝶のように揺れていた。

「起きろ。朝練だぞ」

 朝露の湿りを踏み分けて近衛兵の誰かが声を掛けて過ぎて行った。間をおかず起床を促す軍隊喇叭が鳴った。

 剣闘士時代のタキトゥスは集客が見込める札だった。地下牢に押し込められたその他大勢よりは少しはましな個室が与えられていたが、所詮は使い捨ての奴隷だった。逃亡することがないように剣闘士たちは厳重に管理されていた。万が一檻から外に出てしまうと剣技に長けている上に自暴自棄な奴隷剣闘士のこと、生きる凶器となって無辜の民に何をするか分からないからだ。

「個室というより独房だよな」

 鉄格子を挟んだ向かいの房から男が話し掛けてくることもあった。返事をすることもあれば、無視することもあった。高い確率で数日後には向かいの牢が空になっていた。

「次席剣闘士ともなると怪我はしないのか」

 朝練と称した朝食前の肉体の鍛錬中に近くの兵士から訊かれた。タキトゥスは腕やわき腹や脚を見せてやった。幾つもの古傷が白い筋になっていた。強くなるにしたがって無駄な怪我の数は減るが、強敵と対戦すると防具をつけていても一打が大きいのでやはり怪我とは無縁ではなかった。

 白砂に落ちる剣闘士の血は観客の大好物だった。腕や首が飛ぶとさらに沸いた。

 訓練士の間は木剣を使う。木剣は斬れないので勢い殴り合うことになる。これはこれで下手をすると骨まで折れる。打撲と流血が絶えなかった。剣闘士養成所の教練士は声を嗄らして奴隷たちを叱咤した。急所を狙え。動脈を探れ。鎧の隙間を刺し貫け。

 タキトゥスのような花形剣闘士から順に下がっていって、まるで見込みのない者はまとめて獣と対戦させて喰われる役と決められた。

 血みどろの毎日に耐え切れず自殺者がよく出た。どんなに自殺防止をほどこされて監視されても自死する者の意志の方が強かった。夜のうちに自ら命を捨てた奴隷の遺体が朝になって発見される。タキトゥスも何度か見つけた。そのうちの一人は寝台の柱を削り取った木片を腹に刺して悶死していた。

 過酷な訓練を耐え抜けば自由になって人生を生きることが出来るのであれば耐え抜く力にもなろうが、耐え抜いても先に待つのは闘技場での無残な死だけだった。

 タキトゥスがそれを耐えしのぶことが出来たのは、選抜剣士に選ばれるほどの身体的能力に恵まれていたのと、闘拳と剣技の才能があったのと、或る意味、その前から死んでいたからかも知れない。

 暗い地下階段をあがって円形闘技場に出ていく時には地獄から地獄へ向かっているような気がした。空が見える分だけ闘技場の方が下層階よりはましだった。

「勝者は騎馬民族の王族の末裔」

 仮面をつけた闘技場専属の奴隷が変な節をつけて告げると試合が終わる。

 対戦相手を倒す時には確実に殺した。たとえ男の眼に恐怖や命乞いが浮かんでいても躊躇わなかった。闘う男たちの命は完全に奪った。

 やめてくれ。助けてくれ。

 懇願されても決して剣の勢いを止めなかった。闘技場を埋めた観客に剣闘士の命を渡したくなかった。殺せ。救え。親指の向きの一つで助命するか殺害するかを飲み喰いしながら闘いを眺めているだけの刃を持たぬ者たちに決められたくなかった。それだけは真剣にやった。どよめきと悲鳴に闘技場が揺れ動く。興行主と観衆が満足するようにわざと時間をかけて立ちまわり、最後に息の根を止めた。    

 夜の興行ではたくさんの篝火の中で闘った。黒い糸のように血が宙に飛んだ。情け容赦もないと云われたが、ほとんどの者は消耗品でどのみちこの先長く生き残る見込みのない者たちばかりだった。同じ養成所で顔を見たことのある者もいれば、属州から連れて来られたばかりの異国の奴隷剣闘士もいた。横たわる彼らの眼を閉ざしてやるのもタキトゥスがやった。彼らはみな剣闘士だった。等しく同じ苦難を経てきた剣闘士の友だった。この為に生きているのだと想えば生き残る側にも明日に命を繋ぐ理由ができた。タキトゥスの手で不幸な剣闘士たちの魂を冥府に送ってやった。そこはたとえ昏くとも、もう辛いことはない。死ぬ恐怖や命を脅かされることもない。

 下積みを積んできたタキトゥスにとって憂鬱なのは地方巡業で素人と闘わされることだった。地方自由民の腕自慢などタキトゥスの敵ではなかった。心を捨てて、その日のうちに忘れてしまうしかなかった。さして難しいことではなかった。死に直面した対戦相手の眼は誰もが獣じみていたからだ。

「すごいねこんなに。酒も食い物も」

 欲しいならいくらでも持っていけ。贔屓の旦那筋やご婦人方から送られてくる贈り物は全て他の剣闘士に配ってやった。たまには貴婦人の方から伝手を駆使して営舎までお気に入りの剣闘士に逢いにやって来ることもあった。

「これは外せないのかしら」

 鉄鎖を指先で怖々さわりながら女は文句をつけた。片手と両足首を鎖で壁の環と繋がれたままの面会だったが片腕で抱擁くらいは出来た。

 面倒くさいが女の顔はすべて憶えておいた。闘技場でもし眼が合えば小さな合図くらいは返してやった。莫迦みたいだったが、ご婦人方からの贈り物が増えると他に何の愉しみもない剣闘士たちがお裾分けに恵まれて喜んだからだ。

「明日もきっと勝って。わたくしのために闘って勝って」

「そうします」

 いつも同じやりとりだった。同じ返答をした。

 厳しい訓練や同族との殺し合いに耐えきれず集団自殺する奴隷剣闘士もいれば、

野蛮人と軽蔑されながらもごく僅かだが幸運にも長年勝ち上がり、自由を勝ち取って高級住宅地に豪邸を建てて家庭を持つ剣闘士もいた。そのどちらの未来もタキトゥスには想い描けなかった。

 貴婦人の恋愛ごっこにはせいぜい付き合ってやった。懸想対象の剣闘士が死ぬと女たちはまた新しい剣闘士に同じことを云うのだ。

 どの女もみんな疑似恋愛に夢中で、明日をも知れぬ男の命を心配するお姫さまの役に酔っており、懸命でいじらしかった。タキトゥスはそんな女たちに嘘のない笑みで応えていた。貴女のために闘って勝ちます。

 そんなタキトゥスが今は本物のお姫さまを殺せと云われて此処にいる。



 傅役は何度も説明してくれたが、皇統図は何度おさらいしても難解だった。

「血筋だよ、血筋」

 何かとタキトゥスに親切な近衛兵は名をストラボといった。本当はもっと長い名だが長すぎるので短くしてそう通称しているらしい。

「結局は血筋がものを云う。第一皇妃の生んだ現在の皇帝陛下。第二皇妃の生んだ第二皇子。第三皇妃の皇女の婿がそれぞれ皇位継承権を持っているのだが、今の皇帝にしかるべき血筋の男御子が産まれればその赤子が第一皇子になり勢力図がまた変わる」

「アフロディテさまはどうなるのだ。現皇帝の従妹なのだろう。皇帝と姫さまの父上が兄弟関係だ」

「ああ、そこがまた難しいんだ」

 剣鞘の先を使ってストラボはすらすらと皇系譜を地面に書いてくれたが、どこまで遡るのだと云いたかった。線が増えるにつれて途中からやはり分からなくなった。

「アフロディテさまはお血筋からいうとかなり強くて正統な皇位後継者の一人だ。しかし女であられるのと、ご両親が早くに亡くなったことで血の純度は高くとも後見に立つ家がなかったのだ。男であられたら何らかのかたちで間違いなく皇帝の座を競っておられただろう。今のところは皇帝のお従妹ということで皇族の義務である軍務を担われておられるが、皇家に生まれた者は何かと早逝しがちでな」

 暗にあの病弱な若い皇帝のことを指しながら、ストラボは地面に書いた係累図の中のアフロディテのところに丸をつけた。

「この先アフロディテさまが誰かとご結婚されて男子を産めば、またどうなるか分からん」

「それで、ウィトルウィウスが姫さまを欲しがっているわけか」

「呑み込みが早い」

 ストラボはウィトルウィウス卿の名をアフロディテの隣りに書いた。

「ウィトルウィウス卿は卿で血統に各国の血が混じり合っている混血だ。姫さまを妻にして男子を生ませれば、いち領主に過ぎぬウィトルウィウスの名が一躍、この図に入ってくるのだ。彼は野心家だし実務家だ。だから帝国から亡命してきた第三皇妃と皇女と皇族である娘婿を領内に匿っているのだ。どちらにもいい顔をしているようでいて、利を取る舵取りはする男だ」

 帝国の皇位を狙える血筋を持つ女なら出っ張りのない藁のような女でも誰でもよいのならよほどの爺かと想ったが、ウィトルウィウス卿は三十代の男盛りだという。

「けっこういい男だ」

 ストラボは渋々ながらもそう付け加えた。


 山岳から降りてきたヴィトルウィウスの別働隊と衝突した姫さま率いる第七軍は快勝を果たしていた。

 第七軍は貴族の子弟が主力だと聴いてタキトゥスは最初のうち危ぶんでいたが、怯んでいる者など誰ひとりおらず、野獣と化して咆哮を上げながら猛烈にぶち当たって闘うさまを目の当たりにして素直に見直した。

「当たり前だろう」

 血しぶきの残る顔を拭おうともせずに従軍奴隷の手を借りながら鎧装束を解くと事も無げに彼らは云った。

「もともと武功を立てたことで貴族に列せられた家系なのだ。市民兵や傭兵より我々こそ猛々しい血を持ち一番兵役に向いている」

「一度、姫さまとウィトルウィウス卿が剣を交えたときいたが」

 その話になると近衛隊は顔を輝かせた。

「見せてやりたかったぞ」

 アフロディテの剣が折れて飛んだのだという。

「混戦中ウィトルウィウス卿が姫さまの剣を掴んで剣柄で叩いてへし折ったのだ。しかし姫さまは折れた剣で再襲されてな。ウィトルウィウスを追い回して馬を並べると、姫さまは馬の鞍に立ち上がり馬の背を蹴ってウィトルウィウスに飛び掛かっていかれた。お二人は絡み合って地に落ちたかと想ったが、ウィトルウィウスは落ちなかった。落馬しなかっただけでなく卿は地面に激突しかけた姫さまを片腕で掬い上げていた。そして姫さまを馬の前鞍にぶら下げて攫って行こうした」

 タキトゥスはぞっとした。それは下手をすれば死んでいる。

「その後だ。捕まったアフロディテさまは疾走する馬に運ばれていきながらウィトルウィウスの腕を折れ残った剣で刺したのだ」

 それに気づいた第七軍の近衛隊は姫を奪い返すために猛追した。ウィトルウィウスがようやく姫の身体を離したのは、馬の速度をかなり落としてからだった。

 坂道を転がり落ちてきた姫を追いかけてきた近衛隊が拾った。

「そこの者共よくきいておけ」

 荒い息を吐きながら崖の上に逃げ去るウィトルウィウスは姫を介抱する近衛隊に向けて叫んだ。男の腕からは少なくない血が流れていた。

 ウィトルウィウスは第七軍の近衛隊に対して激怒していたという。

「その女を出すなら次からは後方においておけ。戦わせるな。前に出すな。女は男の膝の上で可愛がられおくものだ。次にこのようなことがあればそちらを許さぬぞ」

「ウィトルウィウス卿に気に入られているとか」

 初陣が終わったその夜、タキトゥスは僭越だとお叱りを受ける覚悟で姫さまに云ってみた。護衛としてタキトゥスがその場に居合わせていたらアフロディテにそんな真似はやらせなかったし、もし止められなかったとしても勇気に感心するよりは女の無謀ぶりに身の毛がよだっていただろう。走らせている馬の鞍から別の馬に飛び移るのは危険すぎる。二度と止めて欲しい。

「だから後ろにお下がりだったのですね。今回は卿の姿はなかったようでしたが」

 返事がなかった。タキトゥスはちらりと姫を見た。

「我は将の器ではない」

 蝋燭の灯りを頼りに星空の下で細剣を磨きながらアフロディテはタキトゥスの方を見ないで応えた。夜の闇に包まれた姫さまはさらに痩せてみえた。薄い肩、細い腕だった。

「しかしやらねばならぬ。従妹である我が皇帝の命令に従わぬのであれば臣下のみならず皇家はこの帝国を統治できまい。我が皇帝に従うことで七軍の将兵も皇帝に従うのだ」

 われ。相変わらず若い女の使う一人称が男からすると面映ゆい。

「我は将の器ではないが、近衛隊をはじめとした将校と兵が我を支えてくれるので務まっているのだ」

 アフロディテの横顔には想い詰めたものがあった。奴隷あがりの剣闘士にしか過ぎないタキトゥスは首をひねった。この女は何の為に戦っているのだ。

「殺せ」と云われた。

 あの日、皇帝からそう命じられた。

 皇帝は若かったが若さから思い起こされる喜ばしい要素とは一切無縁で、そこは皇族一族のアフロディテと共通だった。アフロディテの見た目が草か枝なら、従兄にあたる皇帝のほうは墓標の影のようだった。痩せているせいか頭がい骨の形が分かるほど皮膚が薄くみえた。

 短く刈り込んだ髪の下の顔色は蒼白く、整っている顔なのにそこから受けるものは酷薄や残忍といった禍々しいものだった。

 玉座の皇帝は皇帝にしかまとえぬ紫の長衣をまとい、傲岸に顎をそらしていた。剣闘士。王座から皇帝は陰気に呼んだ。硝子のような眼だった。口許は嗤っていた。剣闘士、皇帝の命である。

 玉座の階段までは十歩の距離だった。近いのか遠いのか分からなかった。皇帝は時々変な咳をしていた。薬が手放せぬようだった。

 複雑すぎる線が重なっていた皇系譜。アフロディテを辿っていくと、他のどの者よりも限りなく中央からぶれず、限りなくその先は神の名しかない至高の祖に繋がっていた。

 起源が神さまだというのは何処の国にもありがちな後付けの伝説だろうが、何かがひとつ違っていれば皇帝の頭上にある冠がアフロディテの頭にあったかも知れないのだ。

「初陣だから無理するな」

 戦場でストラボにそう云われたが勝手に身体が動いて、左右の敵の首をすれ違う間に斬ったのを皮切りに向かってくる敵の盾を踏んで跳躍し、瞬く間に手近な敵兵を雑草を刈るようにして斃していた。後から「出来れば捕虜をとれと云ったよな」とストラボに怖い顔で叱られた。捕虜は人質にもなれば身代金を要求したり売り飛ばして金に換えることが出来るのだ。

 夜になってそのストラボから「姫さまがお呼びだ」というので姫さまの天幕に来てみたら、姫さまは天幕の外で剣を磨いていた。

「本日はご苦労」

 ねぎらいの言葉と共に、姫さまから護衛の任を解かれた。着任早々解雇。

「皇帝陛下から直々に命じられています」

 タキトゥスは訴えた。

「解任は皇帝にしか出来ないはずです」

「そうではない」

 小姓のような簡素な装いに戻ったアフロディテは疲れを隠せぬ顔色をしながら、だるそうにタキトゥスを見遣った。いつもは片側にまとめて結わえている髪が今は洗髪したばかりなのかさらりと背に広がっている。普通の女ならばそれで女らしさが上がるのだが、髪を解くくらいのことでは何の色気も姫さまには添えられていなかった。

「将校たちとも話していたのだが、護衛は既に足りている。タキトゥスは我の傍を離れて右翼の白銀か左翼の黒鉄に入るがよい」

「護衛を離れる」

「そなたもその方がよいだろう。自由に武勇を発揮してもらいたい」

「自由に」

 タキトゥスは胸をはった。

「では護衛の任を離れても引き続き姫さまのお傍で護衛を続けます」

 ここは譲れぬところだった。タキトゥスは強い口調で云った。沈黙があった。剣闘士の方を見ることもなく姫さまの口許に笑みが僅かに浮かんだ。若い女の上にはあまり見たくはない、ひねた笑みだった。剣身から視線を離さぬその笑みはまるでこう云っているようだった。

 皇帝からお前が何を命じられたか我は知っている。

「それでよいと」

「そうです」

「では、以上」

「以上ですか」

 姫さまの信用を得るためにお近づきになる必要があるタキトゥスはしばらく躊躇していた。せっかくの夜だ。これが普通の女ならば横に座りおしゃべりしながら親しみを増していくのだが、そういう相手では全くないので方法が掴みかねた。初陣の感想でも述べてみようか。そんな話に、お愛想でも興じてくれる女とも想えない。ぐずぐずしていると姫さまに駄目押しされた。

「さがってよい」

 咳の音がした。アフロディテが俯いて小さく咳こんでいた。タキトゥスは振り返って女を見遣った。病弱な皇帝のようにアフロディテもどこかが良くないのだろうか。足許の叢から冷えた夜気が上がって来ていた。

「姫さま」

 アフロディテはもう口許を引き結んでいた。跳んで近寄ってあっさり殺れる距離十歩。

「温かいものをお持ちしますか」

「それは護衛の役割ではない」

 片手を振って姫さまはタキトゥスを追い払った。離れた処から少しの間様子をうかがった。ただの咳だったようで、後は何もなかった。姫さまはタキトゥスを護衛と呼んだ。留任ということでいいのだろう。

 殺せ。

 いま襲いかかればあの細剣を構える暇も与えずに殺れる。

 星を散りばめた空には鼻先を白く染めるような明るい月が出ていた。男であれば皇帝であったはずの女の後ろ姿は篝火に照らされた輪郭ですら細すぎた。



》続く

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