第50話 求婚


『マリア様のように振舞いなさい』

それは両親の口癖であり、躾の方法だった。誰もが知っている聖母マリア、慈悲の心を持った優しい娘になってほしい、そう願って名付けられたのなら何の問題もなかっただろう。


だが彼らにとってのマリアとは、大人しくて手がかからない従順な子という意味だったようだ。幼いころから外で駆け回れば眉を顰められ、声を立てて笑うと叱責された。

それが普通でないことに気づいたのは小学校に上がり友人が出来てから、そして両親に見切りをつけたのは、12歳の時に起こった事件がきっかけだった。


一人で下校中、変質者に襲われ人気のない雑木林に連れ込まれそうになったが、大声で叫んだところ運よく通りすがりの人に助けられた。

両親が警察署に迎えに来てくれた時、緊張が解けて泣きじゃくる自分を見ると眉をひそめて、みっともないと言い放ったのだ。

『隙を見せるからそんな目に遭うのよ』


あまりの物言いに涙は止まり、付き添ってくれていた女性の警察官が血相を変えて苦言を呈してくれたのだが、彼らの態度は変わらなかった。誰にも頼らず一人で生きていこう、そう心に誓った。


フランス語で天使を意味する名前を付けられた7歳下の妹、杏樹アンジュは天真爛漫な性格で、両親は天使だからと言ってそれを許容した。妹は可愛かったが、両親の愛情を一身に受けているような彼女を見るのはつらく、高校卒業と同時に家を出た。


大学の授業料も生活費も援助はなく、必死で働いて勉強をしていた。心配してくれる友人もいたが、誰にも頼るまいと意固地になっていたのだろう。気づかない振りをしていたが心底疲れきっていたリアは、気づかないうちに逃避願望を抱いていたため異世界に召喚されたのだ。


「聖母を意味する名前が嫌で友達にはリアと呼んでもらっていたんだ。だけど異世界でも聖女だって言われて、名前から逃げられないみたいで名乗りたくなかった。――そんな理由で嘘ついてごめん」

自分の名前や境遇を語る間、ノアベルトはずっと手を握ってくれていた。感情的にならずに、落ち着いて話すことができたのはノアベルトのおかげだろう。


「リアが嫌がるならその名を決して呼んだりしない。代わりに新しい名前を送りたいのだが――」

一旦言葉を切って、様子を窺うようなノアベルトにリアは首を傾げた。


「リア゠フォン゠ルードヴィッヒ、悪くない響きだと思うがどうだろう?」

ルードヴィッヒはノアベルトの姓でフォンは王族のみ名乗ることができる称号のようなものだ。


(これって、求婚って意味だよね?!)

以前も求婚されたが、エメルド国への牽制の意味もあったしリアの心もまだ追いついていなかった。婚約しているのだから結婚するのは普通のことだが、そんな事情から頭の中からすっかり抜け落ちていたのだ。


「……本当に私でいいのか?言葉遣いも振る舞いも令嬢らしくないし、ノアと結婚するなんて反対する声のほうが多いよ、絶対」

「文句など言わせるものか。魔王であることの条件はリアと結婚することにすれば承諾せざるを得ないだろう」

それは賛成したと言えるのだろうか。内心首を傾げたが、口にしないことにした。


「あっ…」

何の気なしに左手の薬指に目をやると、元の輝きを取り戻した婚約指輪があった。目を輝かせたリアにノアベルトが怪訝な表情を浮かべたので、指輪がくすんでしまったことを説明する。


「ああ、それはあの魔導士のせいだ」

ノアベルトが付与した加護はリアの身を守るためのものだった。リアの力を奪うためには邪魔だったが、解除するのはアレクセイの力では無理だった。


そこでイブリン王女がリアに守りの加護を追加で与えた。そのため守りの加護はリアの身を守るものと認識され、逆に指輪の加護は封じ込められた状態になったため色がくすんでしまったのだ。リアの力を奪われても指輪の加護は発動しなかったのはそのためだった。


「良かった。婚約者としての資格がなくなったのかと思ってた……」

安堵のため息をもらした途端に抱きしめられた。


「うわっ?!」

「私の婚約者のままで良かった、そう思ってくれたのだろう?」

満面の笑みを浮かべるノアベルトの表情は本当に嬉しそうで、リアは思わず見惚れてしまった。


そのせいでリアを抱き上げたノアベルトが寝室に向かっていることに気づくのが遅れてしまい、その意図に気づいたリアは顔を真っ赤に染めながら必死で止めることになった。


「ノア!まだ昼間だし、さすがにもう体力的に無理だし、ヨルンたちだって心配してるはずだ!」

「問題ない。体力回復のポーションを準備している。――それからこんな時に他の男の名を口にするのはいけないことだ。お仕置きが必要だな、リア?」


指で唇をなぞられてぞくりとしつつも、留まらせる理由を考える。ふと友人の言葉が浮かび、藁にもすがる思いで実行してみた。


「ノア、お願い……」

上目づかいでおねだりすれば、男は頼みを聞いてくれやすくなるという。ノアベルトの表情と動きが止まった。

「………夜だったら構わないのか?」

こくこく頷くとあっさりとソファーにUターンしてくれた。


「ならば早々に面倒なことは片付けよう。リア、楽しみだな」

にこやかな笑顔だがその瞳が妖しく輝いているのを見て、リアは成功したはずのおねだり作戦が何故か失敗したようにしか思えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る