第39話 寸隙

専用の部屋で身支度を整える。汚れやほつれがないかエリザベートは念入りにチェックする間、ステラが化粧を整えてくれた。


「少しお疲れのようですから口紅を引いたほうがお顔の色が良くなりますが、控えておいたほうがよろしいでしょうか?」


質問の意味が分からず首を傾げたが、ステラが顔を僅かに赤らめているのを見て理解した。傍に控えていたのだから、ノアベルトが口づけするのもばっちり見られていた。思い出すリアの顔も赤く染まっていく。


そんな二人の様子を見て、エリザベートが嘆息して言った。

「ステラ、紅を引いて差し上げなさい。そうすれば陛下も自重なさるでしょうから」


部屋の外に出るとヨルンが腕を組んで待っていた。本当ならノアベルトの傍に控えていたかっただろう。護衛とはいえ付き合わせて申し訳ない気持ちになったリアはヨルンに声を掛けた。


「お待たせしてごめんなさい」

「……いえ」


無視されるかと思ったのに、言葉が返ってきて少し驚く。最近ではリアを見る目つきが以前よりも和らいだと感じていたのは気のせいではなかったらしい。少しずつ認めてもらっているようで嬉しくなる。

回廊を抜けて室内に足を踏み入れる手前で高い女性の声が聞こえた。


「まあ、聖女様ではありませんこと?」

行く手を遮るように二人の令嬢が進路を塞ぎ、ヨルンが苦々しい視線を向ける。身分の高い者の許可なしに発言し進路を妨害すれば非礼に当たるが、それを注意しないところを見ると令嬢の身分が高いことが察せられた。


リア一人ならそのような扱いをされても仕方ないが、ヨルンが同行しているのだから話は別だ。侯爵という高位貴族であり、ノアベルトの補佐をする宰相という立場から通常の侯爵よりも強い影響力を持つのだ。このような振る舞いをするには相応の理由が必要だろう。


「宰相様を従者のように扱うなんて、少々勘違いが過ぎますわよ。貴女なんてただの生贄なんですから」

生贄という不穏な単語にヨルンが息を呑んだ。その様子を見て胸がヒヤリとした。


(どういう事だ……)


「ねえ、以前召喚された聖女がどうなったか、ご存じないのでしょう?」

無邪気そうに語りかけるが、その口元は酷薄そうな笑みが浮かべている。


「アーガスタ嬢、不用意な発言は陛下の不興を買いますよ。お父上にご迷惑をかけないうちに戻られるとよいでしょう」

牽制するヨルンの様子に不安が募った。


嫌がらせのための妄言なら否定すればいいだけだが、これ以上リアに聞かせたくない話なのか疑ってしまう。令嬢の言う生贄がどういう意味なのか、知らないといけない気がした。


だが令嬢が口を開くより早く、前方の扉が開いて現れたのはグレンザ辺境伯だった。会いたくない人物の登場で、しかもその相手が不穏な空気を物ともせず快活そうな笑みを浮かべているのを見て嫌な予感しかない。


「ああ、ちょうど良いところにいらっしゃいました。聖女殿に一つだけお尋ねしたいことがあって、お探ししておりました」

敢えて聖女という呼び方を使うのはノアベルトの婚約者として認めないという意思の表れなのだろう。だが丁寧な口調で問いかけられれば答えないわけにはいかない。


「私に答えられることであれば」

ヨルンが警戒する表情を浮かべ、アーガスタ嬢は楽しそうに成り行きを見守っている。


「貴女の名はリア・アキヅキで間違いありませんか?」

予想外の問いかけに呼吸が止まった。


(どうしてそれを……)


「聖女殿?」

畳み掛けるように呼ばれて、我に返った。明らかに動揺したリアにヨルンも困惑の表情を浮かべている。


「その反応では間違いありませんね。陛下に偽りの名を告げるなど、何かしらの企みがあったと思われても仕方のないことでしょう。ヨルン殿、その聖女は一旦地下の拘束室に連れて行きます」

動揺から立ち直れないまま、状況が悪化していくのにリアはどうすることもできない。一方その言葉を聞いたヨルンはリアを庇うように割って入った。


「グレンザ辺境伯、それは陛下がご判断すること。越権行為は慎んでください」

「貴殿は陛下に甘すぎる。何か事が起きてからでは遅いのだ」


その時今までずっと沈黙を守っていたもう一人の令嬢が動いた。目の端でその様子を捉えてリアが反応した時には、何かの液体が宙に舞っていた。


「――っあああああ!!」

目の前には空色が広がり、それがステラのドレスだとすぐには気づかなかった。

足元に崩れ落ちるステラの手には焼けただれたような跡が広がっている。不快な臭いが鼻に突き、自分を庇って怪我をしたのだと理解した途端、鈍っていた思考が急速に戻ってくる。


「ステラ嬢?!」

焦ったようなヨルンの声。


その場にいた全員の注意がステラに一瞬集まったが、危害を加えた令嬢が新たに何かを手にしているのを見て、リアは動いた。咄嗟の判断だったが、ステラを守ることしか頭になかった。


(何が目的か知らないが、これ以上傷つけさせない!)

令嬢の手を掴んだ瞬間、無表情だったその顔にうっすらと笑みが浮かんだ。


「捕まえました」

女性にしては低いその声を疑問に思う間もなく、見覚えのある淡い光とめまいが襲ってきてリアは意識を失った。

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