第38話 牽制
緊迫した雰囲気が、音楽が奏でられ始めたことによって和らいでいく。ノアベルトが宣言中にまとっていた、厳かで畏怖さえ感じてしまうほどの重々しい空気は既にない。優しい微笑みとともに差し出された手を取ってリアはダンスホールに向かう。
この場で一番身分の高いノアベルトがファーストダンスを踊らなければ、他の招待客が踊れないのだ。何度も練習したとはいえ、一番不安なのはダンスだった。
至近距離からの令嬢たちからの視線が一層強くなる。ノアベルトが隣にいるからそこまで露骨ではないが、気の小さい人間なら即座に心が折れてしまうだろう。もっともリアはこれぐらいでへこたれる性格ではないので素知らぬ顔でスルーした。
ダンスホールの中央に着くと、音楽が変わった。
「リア、私だけを見ていればいい」
恭しく手の甲にキスをされて、そのまま両手を引かれる。ノアベルトの穏やかな笑みを見て心がすっと落ち着いた。
踊り始めれば予想に反して、緊張する余裕などまったくなかった。ノアベルトは距離が近づくたびにリアにしか聞こえない音量で、愛を囁き続けたからだ。
「私の色をまとったリアは本当に愛らしいな」
「まるで妖精のように可憐で閉じ込めておきたくなる」
恥ずかしさのあまり俯きそうになると、顔を上げるように何度も注意される。だけどその瞳は悪戯っぽい色をたたえていて、からかわれているのだと分かる。
「陛下は意地悪です」
小声でも公式な場なので流石に名前で呼べないが、不満はしっかりと伝えておく。
「リアが構ってくれないからだ。一緒に踊っているのに寂しいだろう?」
(構うってどういう……? うわっ?!)
くるりとターンさせられるが、すぐに腕の中に戻る。
「っ、そんな余裕ないから!」
(これが精一杯なんだよ!)
ダンスに加えて表情だってアルカイックスマイルをキープしているのだ。無茶をいうなと心の中だけで猛抗議する。
「では構ってもらえるよう、そろそろ戻ろうか」
その言葉で曲が終わりに差し掛かったことに気づき、周囲の音も戻ってきた。すっかり集中していた、というよりもノアベルトに意識を逸らされていたようだ。
精神的な疲労感を覚えていたが、まだこれで終わりではない。
ノアベルトの隣に座ると貴族たちが挨拶に訪れる。そのほとんどが父親と娘という組み合わせで、自分の娘が陛下の目に留まればという野心が見え隠れする。
「ご婚約者様はまだ幼くいらっしゃいますから、お困りのこともあるでしょう」
訳知り顔で話すふくよかな侯爵は、自分の娘を前に押し出す。美しい令嬢は身体のラインがはっきり分かるマーメイドドレスを着こなし、豊かな胸を強調している。
(幼いって言うな!そりゃ発育は悪いけどさ……)
童顔と控えめな胸は自覚しているし仕方ないと思っているが、大人っぽい女性を目の前にするとそれでも多少落ち込むのだ。
「リア」
呼ばれて隣を向くと、ノアベルトが口に何かを押し込んだ。
歯を立てると甘い汁が溢れて、近くにあった果物を食べさせてくれたのだと理解した。喉が渇いていたし美味しくもあったが気分は晴れない。
(人前で食べさせられるなんて、何だか本当に子どもみたいだ……)
「まあ、可愛らしい」
令嬢の笑みを含んだ声が聞こえて、意外なほど胸がずきりと痛んだ。
「――っ!」
指が顎にかかり上を向かされた途端にキスされた。急な行為に動揺したが、ここで取り乱してはいけないとぐっとこらえる。いつもより長いキスが交わされようやく唇が離れた。
「甘いな」
ぺろりと口の端を舐めて嬉しそうな表情を浮かべるノアベルトだったが、侯爵に向きなおった時には冷たい表情に戻っていた。
「特に困ってなどいない。下がれ」
不興を買ったと気づいた時には遅く、侯爵と令嬢は肩を落としながらその場を後にした。
「陛下、少々お控えください」
傍に控えていたヨルンの諫言にも、ノアベルトは一向に気にする様子はない。
リアの手を取ると、ひじ掛けの上でお互いの手を絡ませる。一連の出来事をを目にした貴族たちから、その後自分の娘を売り出そうとする動きはなくなった。
一方の令嬢たちは明らかに悔しそうな表情を浮かべるが、ノアベルトは一瞥すらしない。むしろ令嬢たちがリアに敵意を向けるほど、ノアベルトはリアに水を飲ませたり菓子を食べさせたりと世話を焼き甘やかす。見せつけることで牽制しているのだろうが、女性相手には逆効果な気がしてならない。
ようやく挨拶の列が途切れ始めて、休憩の時間を告げられた時には安堵のため息が漏れた。姿勢が崩れそうになるのをぐっと堪える。ドレスを着た時は絶対に姿勢をキープするようエリザベートから指導されている。一度緩んでしまえば癖がついて、思わぬところで出てしまうそうだ。
温かい紅茶を飲むと少し気分が落ち着いた。人目に晒されることは、思った以上に精神的負荷がかかる。
ノアベルトは涼しい顔をしているが、きっと今までの努力の賜物なのだろう。ただ紅茶を飲んでいるだけなのに、絵になった。
「…リアに見つめられるのも悪くないな」
笑いを含んだ声で、自分が見惚れていたことに気づいた。
「だって、綺麗だったから…」
不可抗力だと告げるリアに目を細めて、ノアベルトは忍び笑いを漏らす。
(そうだ、今のうちに化粧直しに行かないと…)
ステラに視線を送ると、心得たように近づいてきた。
「ああ、エスコートしよう」
「陛下!それは流石に王らしかぬ振舞いかと……」
「リアに何かあったらどうする」
「そのために警備も厳重にしております。代わりに私がお連れしますから、どうかご許可を」
譲る気配のないノアベルトと困った様子のヨルンを見て、リアも口添えした。
「陛下、すぐに戻ってきますから」
それから、そっと手を添えて耳元で囁いた。
「心配してくれてありがとう」
他の人に聞かれるのが恥ずかしかったが、自分の身を案じてのことだからと小さくお礼を言うと、ノアベルトの表情が和らぎ最終的には了承してくれた。
――この時の判断を後悔することになるとは、思いもしなかった。
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