第19話 愚かな親子

憂鬱な気分で化粧室から出るとふいに背後から衝撃を感じた。なんとか踏みとどまって振り返ると小学生ぐらいの幼い少年がニヤニヤと嫌な笑いを浮かべている。突き飛ばされたのだと分かったが、いたずらにしては質が悪い。


「やめなさい」

低い声と険しい表情で告げると、幼く見えるリアを甘く見ていたようで、不愉快な笑いが消えて不満そうな表情に変わる。


「うるさい、ブス!」

リアを押しのけるようにして、少年は背を向けて走りだす。


「ちょっと、危ないよ!」

注意したものの止まらず小さな姿が視界から消える。溜息をついた直後、小さな悲鳴と物が割れる音が響き渡った。


廊下の角を曲がると、予想していたとおり床に座りこんだ少年と女性店員の姿があった。


「怪我はない?大丈夫ですか?」

順番に声を掛けると店員は恐縮したように頭を下げ、少年に怪我がないか確認しようと手を伸ばす。だが少年がその手を乱暴に振り払ったのを見て、リアは声を上げた。


「謝れ」

大きな声ではなかったが、強い口調に少年がびくりと身じろぎした。


「店内で走って迷惑をかけたのに、このお姉さんは君のことを心配してくれた。それなのにそんな態度を取っては駄目だ。悪いことをしたら謝りなさい」


少年の目をしっかり見たまま叱ると、不貞腐れた顔が不安げに揺れる。少年が口を開きかけた時、甲高い声が上がった。

「ジョシュア?まあ、何てことなの!」


派手な外見の女性が大げさなぐらいに眉を顰め、リアを睨みつけている。まるでリアが原因だと決めつけているような態度だ。


(まあ間違ってはいないんだけど、何だかな)

母上、と小さく呟いた少年の声を拾ってリアは一応説明した。


「ご子息が廊下を走って店員さんにぶつかって、カップを割ってしまいました。幸い怪我はなかったようですが」


ぶつかった衝撃で空のカップは勢いよく飛んだらしく、二人から離れた場所で割れていた。料理を運んでいる最中でなかったことが幸いしたようだ。


「可哀そうな坊や!痛いところはないの? 評判のカフェと聞いていたのに従業員の質が悪いのね。責任者を呼んで謝罪をしてもらわなくちゃ」


(無駄だろうなと思ったけど、予想以上の馬鹿親だな)


店員は必死に謝るが母親は聞く耳をもたず、それどころか店員を侮辱するような言葉に変わっていく。居合わせただけのリアが関わる必要はなかったが、その様子がひどく不快だった。思わず口を挟んでしまうほどに——。


「謝罪するのは貴方のほうでしょう」

不快な金切り声がぴたりと止まった。


「最低限の行儀も弁えない子供を連れてきて、店に迷惑をかけたのだから当然ですよね」

淡々とした口調でリアが指摘すると、母親は顔を真っ赤にして眦を吊り上げた。


「随分と魔力が低い小娘のくせに、なんて偉そうな口を利くのかしら!分を弁えなさい!」

激高し扇子を振り上げる姿が、やけにゆっくりと見えた。


(殴られたら傷害罪とか適用されんのかな)

そんなことがちらりと頭の片隅をよぎったが、続いて聞こえてきた声にぎくりとした。


「何をしている」

冷ややかな声に全員の動きが止まった。


静かな口調は恐ろしいほどの威圧感を含んでおり、逆らってはいけない存在だと本能が告げる。たった一言でノアベルトはその場を支配していた。


「リア」

柔らかい口調に強張った体を動かすことができたが、そこには咎めるような響きを含んでいた。


「ごめん、なさい」

「何に対して?」


「戻るのが遅くなったし、余計なことをしたから」

「そうか、いい子だな」

言葉こそ優しげだが、怒っていると直感した。


(ああ、多分何か間違えた……)

魔王が怒っている理由は、別にあるのだろう。必死にリアが心当たりを考えていると、余計な声が邪魔をした。


「そちらの使用人は躾がなっていないのではなくて?よろしければ当家が代わりを用意して――」


魔王の周囲の温度が一気に下がる。母親は最後まで言葉を告げることができず、恐怖に身体を震わせることになった。


(火に油を注ぐんじゃない!空気読め―!!)


「うわあああん、ごめんなさい!ごめんなさい!」

緊迫した空気に耐えかねたのか、少年が泣きながら謝る声が響き渡った。


「リア、おいで」

その様子を気にすることなく、魔王がリアに向かって手を差し出す。逆らえない雰囲気に傍に寄ればすぐさま抱きかかえられるが、文句は言えない。


目は口ほどに物を言う。

魔王の怒りが収まっていないことは、間近で顔を合わせて良く分かったからだ。

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