第9話 抱いた感情 ~ノアベルト~

壁にもたれて座りこんでいる様子をみて、体調が悪いのかと一瞬焦る。


近づいてそっと様子を窺うと、規則的な呼吸が聞こえてきてただ眠っていることが分かった。元の様子は知らないが、磨かれた部分と汚れの残る部分を見て努力の跡が見て取れた。懸命に働いて疲れてしまったのだろう。


頬についた汚れを拭ってやると、表情がふにゃりと柔らかくなった。その無防備な様子に思わず息を呑む。


(もう一度見せてくれないだろうか)


元の寝顔に戻ってしまったリアの髪にそっと指を滑らせる。

柔らかな髪を何度もなぞっていると、口元が緩み何か言いたげに動くのをじっと見ていたら、目を覚ましてしまった。


先刻のヨルンのように罵倒されるかと思いきや、大人しいままだったためしばらく柔らかい感触を堪能してしまったが、当初の目的を思い出してリアの髪から手を離す。


軽食を目に瞳を輝かせるリアに罪悪感を覚えた。空腹を抱えながらも仕事をこなし、わずかな休息も申し訳なさそうに詫びる様子は健気な少女に見える。先ほどヨルンに食ってかかったときの激しさとは別人のようで、ますます興味が湧いてくる。


汚れた指先を見て、手ずからサンドイッチを差し出したのは自分でも意外なことだった。空腹を早く満たしてやりたいと思ったのは確かだが、手を洗わせるぐらい大して時間もかからない。差し出したものを引っ込めるわけにもいかず、何と声を掛けたものかと迷っているとリアは素直に口にした。


「んんっ、美味しいです」

嬉しそうに笑顔を見せるリアの顔に釘付けになった。


(なんて可愛い)

自分の中でどんどんリアが特別な存在になっていくのが分かった。


もっと美味しいものを食べさせたいし、喜ばせたい。そうしたら彼女の幸せそうな顔を見られるに違いない。そう思って頭を撫でるが、リアは困惑した表情を浮かべている。


(先ほどまでは気持ちよさそうにしていたが……)

「あの、すみません。掃除して汚れているから触らないほうがいいと思います」


汚れているのを気にしているのかと、リアの態度が腑に落ちて浴室に連れて行った。抱き上げた時は嫌がる素振りを見せていたが、罵倒されないからさほど怒ってはいないのだろう。


湯浴みを終えたリアは何故か警戒しているようだった。もっと別の表情を見せて欲しいと思うが、どうしたら彼女が笑顔を見せてくれるか分からない。


髪に水気が残っているのが目について、まずはタオルで丁寧に乾かすことにした。風邪を引いてしまうといけない。少し嫌そうな顔をしたものの、大人しく任せてくれたので終わったあと髪を撫でるも固い表情のままだ。


「――陛下、仕事があるのでそろそろ失礼いたします」


遠回しな拒絶に落胆するが、仕方ないと手放そうとしたのにふわりと甘い香りが鼻をかすめた。

無意識に引き寄せてリアの髪に顔を近づける。石鹸などではなくリア自身の匂いだと確信した途端、リアが叫んだ。


「触るな!変態!!役に立つとはいったが、ペットになる気はない!」


足を踏まれたことに痛みを感じなかったが、激しい拒絶に胸が痛む。

抱きしめたのは失敗だったらしい。リアの機嫌を損ねてしまったのだ。

深いため息に自覚が芽生えた。どれだけ彼女に心を奪われているのかということに——。


リアはペット扱いされていると思い込んでいるけれど、これはもっと重たくて激しい感情だ。



一旦頭を冷やして考えようと、リアの後をさっさと追わなかったことを後悔することになるとは思ってもみなかった。ヨルンに連れられて戻ってきた彼女は険しい表情で、視線を向けてくれない。


(そんなにも嫌われたのだろうか)


動揺しながらも観察すれば、右手の人差し指に鮮やかな赤がうっすら浮かんでいる。

自分の見ていないこところでリアに怪我をさせてしまった。それなのにリアはそれを隠すように、大丈夫だと口にする。

ヨルンを睨むと慌てて説明を始めたが、その内容は到底許容できるものではなかった。


「――処分しろ」


リアが抵抗しなかったら、ヨルンが間に合わなかったら、不快な顛末を想像してしまい怒りが収まらない。だがそれも急にリアがその場にへたり込むまでだった。怒りの感情より心配な気持ちに一気に傾く。


「どうした。どこか痛むのか?――触れるぞ」


見えない場所に怪我をしたのか、恐怖のために怯えているのか。頭を撫でてもう大丈夫だと伝えたいが差し伸べた手を振り払われる。


(ああ、触られたくないと言っていたな)


それでも安心させたく、苦肉の策として毛布で包んで抱きしめた。余計に嫌われるかもしれないとも思ったが、何もせずにはいられない。


落ち着きを取り戻したリアの瞳はまだ僅かに怯えの色が残っていたが、取り乱した原因が自分の不用意な発言によるものだと知って心底落ち込んだ。出会って早々処分しようとしたため自業自得ではあるのだが、リアにとって自分は危険な存在なのだと思われていることも心が痛む。


リアを寝室に運び、ノアベルトはこれからのことを考える。


ペット扱いとリアが思っているのなら、それでもいい。リアは異性に対して警戒心が高く、嫌悪感があるようだから、逆に都合が良いのかもしれない。部屋に閉じ込めて危険から遠ざけ、甘い言葉を囁きどこまでも甘やかしてやろう。


(少しずつ意識させていけばいい。そうやって私から離れられなくなるように)


口元に薄い笑みを浮かべながら、ノアベルトは満ち足りた気分で執務室に戻った。

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