第二話:マリー=ルー①

出発の村、道場にて。

「勇者さま、勇者たるもの、冒険に出るからには経験値を積むこと、そして実力のある仲間を増やしたほうがよいでしょう。」

床におもむろに大きな地図を広げて見せつつ、ぺたっと座ったラビットはシャギを見上げてかたる。

実を言うと、彼は初めて世界地図を見た。

見るからに驚いている様子のシャギにラビットは問う。

「勇者さま、地図は…?」

「初めて見た。」

躊躇うことなく返答する様子にラビットはしかめっ面を浮かべる。

「意外と教養がないのですね…。」ぼそっと呟いたが聞き逃すはずもない。確かにこの村に学校はないから、隣町に全寮制の学校へ行くか、教会に通いの教師が開く教室に行かなければ勉強はできない。

シャギはたまに教会へ行っていたが、真面目に授業を受けたことがなかったのだった。

ラビットの言葉に少しふくれっ面をするも、少しくらいは勉強をしておくべきだったかと反省はした。

そんなシャギを後目にして。

「この地図は、人が把握できているだけの部分を書き記したものです。おそらくまだ人類未踏の地があることでしょう。」

ラビットは地図を指差す。

「ここが魔王の根城です。魔王の根城は島になっていることが予測され、しかしほぼ未踏の地であるためこのように大まかに、黒塗りで表記されているのです。」

「未踏の地…?俺の先代、それこそ俺の父さんたちは魔王を倒したのだろう?」

「ええ、おっしゃる通りではありますが…島と言っても大陸ほどの大きさと見ていただいて結構です。その領土はかなり広い。魔王討伐のために踏破を果たすのは恐らく不可能。」

「地図で見ると小さいけどな…?」

ラビットは呆れたような、諦めのような、半笑いのような妙な表情を作る。

「わたしたちが今いる大陸が大き過ぎるのです…今いるこの村は、大陸地図では表せないほど小さいですから。」

この世界は、一つの巨大な大陸と、大小様々な島で成り立っている。大陸は国という括りで分断され、各国には多種多様な人種があり、様々な文化を築いているという。

そのほとんどの国が、統一言語と呼ばれる言語を話し、多少訛りや方言は存在するものの、どこに行っても大概は意思疎通に困ることはない。

シャギには言語が違うという考えは及ばなかったが、とにかくそいういものなのだという理解はすることができた。

中には独自の言語を用いる民族というのもいるが、かなり少数派であり、さらには山や森の奥地でひっそりと生活しているため、めったに出会うことはないそうだ。

シャギにとって初めて聞き知ることばかりで、感心したように頷きながら話を聞いていた。

この地図上では、今いるところから南西へ向かって旅をしていくそうだ。地図の右下端に見切れている黒塗りの大地。その未開の地へ向かい歩みを進めていく。



馬に乗り歩を進めること数時間。一応後ろから着いてくる黒い人影に注意は払いつつ前進していた。

基本的には途中途中で町や他国へ立ち寄り、必要なものを調達したり休息をとったりして旅をしていくと少女は言っていた。

このまま馬で歩みを進めたとしても、隣の町までは数日かかるという。魔王の根城までひどく遠い道のりだということをシャギはようやく理解した。

シャギは初めて村を出た。馬で数時間など、離れたこともない。

周りは見渡す限り広大な草原だ。草原の中の踏み均されてできた一本道をひたすら進んでいる。自分が出てきた村はもう遥か彼方に感じられるほど、遠く見えなくなっていた。

空がより大きく見える。突き抜けて高い。大地の果てまで見渡せそうなだだっ広い草原を、二頭の馬が歩いている。

そこには特に何かがあるわけではなく、風が草を凪ぐ音が鼓膜を刺激していくだけ。

ただ広い、そんな景色に、自分が暮らしていた故郷の小ささを知る。

時が経ち、斜陽となる。あんなに青かった空は薄紫の様相をし始めた。日の傾いていく先がよくわかる。

「太陽は毎晩、あの大地の果てに沈んで行っていたのか。」

「ふふ。」

なぜか少女は何も言わない。何も言わずにただ半笑い、のような、またあの妙な表情で笑っていた。どういうつもりの表情なのかわからず、シャギは眉間にしわを寄せて半目で少女を見た。

少女はおもむろにシャギを振り返り、今晩についてをかたる。

「だんだん暗くなってきましたね。早めに少しでも安全に野営できる場所を探しましょう。」

確かに空は先ほどよりも濃い紫。太陽のそばでは空が赤く燃えていた。

「今はまだ力は弱いとはいえ、夜は魔物の活動が活発になります。」

まだ力は弱い、その言葉がとげのように刺さった。あれで、あんなに村をめちゃくちゃにしていった魔物が。あれで、まだ弱いという。

そしてその弱い魔物相手に、何もできなかった。ただ朝が来るのを待っただけ。

「そうか…。」

思うことがある。伏し目がちな相槌。知ってか知らずか、少女の表情は変わらない。

まん丸の目のそのままで会話をする。

「もう少し行った少し森の深い場所に、もともと神殿だった廃墟があります。廃墟とはいえ元は聖域、魔物も近寄りづらいので今晩はそこで休みましょう。」

「そういうもんなのか…なんか俺、全然知識もなく飛び出しちまったな。」

しおらしいシャギに向かって少女は微笑んで、誇らしげに言う。

「そのためのラビットです。」

「ありがとう。俺も知識は蓄えてくよ。お前の受け売りだけどな。」

ずっと歩いてきた一本道から逸れて、高い木々の生い茂る森へと進入していく。

木の背丈が高いからあまり日が当たらないためか、夜とは言え夏の盛りではあるものの、その空気はひんやりとするほど冷たい。さらに土は、ぬかるみというほどではないが湿っていて、まるで人が入った形跡はない。

こんな森に、かつては神殿が構えられていたという。

森の中をずいずい進んでいくラビットの背を追いかける。

だいぶ進んでいくと、ラビットの指さす方向に、よく見ると獣道のようになっているところを見つけた。探さなければ到底たどり着けそうにない、本当に細く荒れた道。

この深い森で道に迷うこともなく、まっすぐにこの道へと誘導してきたこの少女、ますます何者なのかと疑問に思う。

言われる通りに進んでいき、辺りもだいぶ暗くなった頃、急に視界が開けた場所へと到達した。そこだけが円形状に木が生えておらず、中心には何かしらの建造物の残骸が遺されている。

ラビットの言っていた神殿の廃墟へたどり着いたのだ。

息を吞む。

かなり荒廃しており、ほとんどは原型をとどめていないが、月明かりはその神殿だけを照らしていた。神殿は月明かりを反射するかのように、そこだけが仄かに明るかった。

倒壊した柱、崩れ落ちた屋根や壁。瓦礫の中で佇む人型を模した銀色の像。

エントランス、のような大広間だけ、かろうじて広くスペースを確保できそうな空間がある。

到達してラビットは、息つく暇なくシャギに問う。

「この辺りは野生動物も多いです。さて勇者さま、狩りはできますかな?」

男児として、小動物の狩りならやったことはあるが。

「まあ、多少は…。」

「そうですか!では腹が減っては戦はできぬ、です、勇者さま。食料調達を!とはいえ銃を使うと音が響き過ぎます。魔物に察知されても面倒ですので。」

ラビットが手渡してきたのはボウガン。

弓矢を打つモーションつきで言う。

「これで獲物を射るのです。」

これならまあ、使い勝手はわからなくはないか、考えて。

「行ってくるよ。」

「その間にラビットは火起こしや寝床の準備など、家庭のことをしておきますね。」

この状況で楽しそうなラビットを横目に、シャギは森へ入っていった。

総遠くまで行くつもりはないが、念のため道に迷わないよう、途中途中で木に印をつけていく。

こう暗いと、動物は身を潜めて眠る時間ではないだろう。

なるべく足音を立てないよう、息を潜めて進む。自分の呼吸音が自分ですら聞こえないように。

視野を広く、耳を澄ませ、草陰に隠れて移動する。

その時、パキッと、枝を踏みしめる音。

そう遠くはない。音のした方向を見る。

なんの動物かはシャギにはわからなかったが、四足だから食べられるだろうと、そのままボウガンを構える。

弓を引き絞る音が耳をかすめる。

ふと思う。

光源は月明かりだけ。

月明かりがあるとはいえ、鬱蒼とした森の中。月明かりのほとんどは木で影になっているはず。辺りは動物の目でもなければ、人間の目でこんなに見えるものかと。こんなに見えていたか、と。

それだけではない。こんな暗がり、かなり遠くまで鮮明に見える。木の枝の一本一本、葉の一枚一枚まで。見えすぎる。

一瞬くらりとする。急激に脳が追いつかない。

首を軽く横に振る。ラビットなら、何か知っているかもしれない。

もう一度気をしっかり持って獲物に狙いを定める。

これはあとでラビットに聞くとして。狩りを。

カシャ、小さく軽快な音を立てて、矢は放たれた。

直線を描き、音もなく獲物へと奔る。威力は強力のようで、かなりの速度でまっすぐに飛んでいく。

わずかに突き刺さる音。手ごたえはある。獲物の倒れる音が聞こえた。

すかさず倒れ込んだ獲物のもとへ駆ける。

まだわずかに息はある。弓は首を貫通するほどの威力を持っていた。

少しゾっとする。

携えたナイフを取り出し、首の動脈、四つの足首を切って血抜き。それから首をのほうを下にして獲物をひきずりながら、ラビットの元へと戻った。

「おかえりなさいませ勇者さま!おやおや立派な鹿を仕留めましたね!これは干し肉にすればしばらくは食料に困らなそうです。」

「ただ問題点が…こんな大きな動物、俺にさばけるだろうか。」

「ご安心を。ここからはわたしのお仕事です。」

「え?」

シャギよりずいぶん背も低く、こんな細身の少女が。

いうやいなや、ラビットはナイフを腹に入れ、まずは丁寧に毛皮を剥がしていく。

そして頭を切り落とすため、ハンマーと工具を使い首の骨を砕いた。

あっという間に鹿は毛皮のついた首と、胴体に分けられた。

次に、もう一度腹にナイフをつきたてる。

内臓に傷を付けないように丁寧に腹をさばいていく。

溢れ出した臓物からはもうほとんど血は出ない。

「血抜きのしかたがバツグンですね。さすが勇者さまです。」

それは勇者の家系であることに何か関係あるのかと思ったが黙っておいた。

まさか子供のころの経験がこんなところで役に立つとは、と思う反面、ラビットの思わぬサバイバル能力の高さに感嘆した。

「本当は内臓も無駄にしたくはありませんが、さすがにそこまで処理が出来ないので…森に置いておきます。そしてきっと他の野生動物の血肉となるでしょう。」

動物をさばく鮮やかなてさばき。大きな鹿は、あっという間にいくつかの肉塊へと変貌していった。

自分よりも幼いであろうラビット、という少女はどうやってこんなに知恵を蓄えたのか。それも女の子だというのに。

捌いた鹿の肉の一部をラビットが調理している間、残りは干し肉にするため吊るしたり並べたり、をシャギが担当した。

ラビットはどこからか取り出した調理器具や調味料を使い、何やら手際よく調理を進めている。

ラビットは大荷物だったがなるほど、こんなにもたくさんのものを抱えていたらしい。

「一応完成しました。見た目はいいですが味は保証しません!わたしは料理は得意ではないので!」

手渡された器には、確かに見た目はいい汁物が入っている。

熱々の出来立て、鹿肉と野草、と、何かのスープ。

「召し上がってください。暖まりますよ。」

香りは、今まで嗅いだことのない匂いがする。しかし美味そう、ではある。

一口すする。

いろんな香辛料の味がした。基本は薄い塩味である。

美味くもないが不味くもない。

「うん、食える。」

「栄養摂取が目的ですからね。」

そう言うラビットは少しふくれっ面。

夏の夜、森の中。肌寒ささえ感じるが、温度なのか、香辛料のおかげか、たしかに体が温まる感じがした。

食事中のたわむれな会話に興じてみる。きっと夜は長い。

「なあ、お前、」

不意な呼びかけに自然な上目遣いで小首をかしげて振り向くラビット。

月明かりの銀、焚火の赤、影の黒。白い肌は香辛料で火照ったか、揺らめく炎にあてられてか、鴇色に染まる頬。

「名前…ラビットって言うの?」

「厳密にわたしには名前はありません。うさぎのラビットです。ただ呼称として使用されています。」

膝を抱えながら器用にスープを飲む。丸いシルエットは本当にうさぎみたいで。

「そうか…それも寂しいもんだな。お前の名前は今からラビだ。よろしくな。」

その言葉を聞いた瞬間、ラビットは目を丸くしてシャギを見た。

やがて心底楽しそうに、なんだかうれしそうに、どこか悲しそうな笑顔を見せた。

「変か?」

「いえ。命名くださり光栄です、勇者さま。」

少女は今からラビ、という名前になる。

初めて聞くような、呼ばれ慣れているような、懐かしく、新鮮なその響き。

まろやかで甘く、幸せだった時間を彷彿とさせる、少女にとってそれはとても大切な名前。

ラビはシャギを「勇者さま」と呼ぶ。シャギはどうしてもそれに慣れない。

言われるたびにむずがゆさ、というか、違和感を抱かずにはいられなかった。

「あとさ、俺まだ勇者になってないし。魔王を倒して初めて勇者だろ?俺の名前はシャルギース。シャギって呼んでくれ。」

「はい、シャギさま…!」

「…さまも要らねえよ。」

「礼節を欠くわけにいきませんから。」

「変に距離を取るよな?」

「わたしは勇者さまの家系に仕える身ゆえ。使用人とでも思ってください。」

「知らなかったな…使用人がいたとは。本当に知らなかった。」

そんな調子で、二人の夜は更けていく。

もう少しだけ、シャギはラビと話をしていたい。

「なあ、魔王ってさ、どんな奴なんだろうな。」

初めての遠征、魔王を討伐に行くという使命。自身の出自、故郷を離れるということ。両親、傷ついたレティシア、たくさんのことがシャギの後ろ髪を引くから。

一人になるのが、怖かった。

今引き返せば、村に帰ったら、どこかに逃げてしまおうか、いや、前に進もう、そんなことをぐるぐると考えてしまいそうだから。

「さあ。逆にシャギさまは、どんな感じだと思います?」

余計なことを考えないように、くだらない話で思考を逸らす。

魔王の姿を想像する。昔見た本に書いてあったのは、どんなだったか。

「牛の頭で、髭が長くて…髪もこう長くて、でかくて角が生えてる。体は人間みたいな形で、筋骨隆々、みたいな…。」

「ふふ。声は地鳴りのように低くて、人間を丸飲み!」

がおーっとシャギに襲い掛かるモーションをする。

「やめろよー!」

二人の小さな笑い声が響く。まだ月は煌々と輝いている。

夕げも終わり、ただただ二人は話をした。

話をしながら、シャギは決意を固めた。

ラビは遠い過去を懐かしんだ。

それぞれの思いを抱えて、足りないものを埋めあうように、二人は時を過ごした。

「ありがとな、ラビ。」

何の気なしに、ラビの頭を撫でる。本当にうさぎみたいに、柔らかな髪の毛はひんやりとしている。

「な、なにを!!」

「うお!」

想像以上にびくりと体を震わせ声を荒げたラビに驚き、素っ頓狂な声を出してシャギは手を放す。

その顔は、照れているのか、羞恥なのか、どことなく嬉しいのか、またもや複雑な表情をして、もともと丸い目をさらにまん丸にして、顔を紅潮させていた。

「あ、ご、ごめん…小動物みたいだな、って思ってたら、ほんとに小動物に見えてきて…。」

取り繕えていない言い訳をして、ぽりぽりと頬を掻く。

ラビはため息のような深呼吸をひとつ、してから、こほんと咳払い。

「もう夜も深いです、シャギさま。あちらにテントを張っておりますのでお休みください。」

ラビが指差す方向を見ると、簡素なテントが張ってある。

「ありがとな。少し休むよ。」

「はい、おやすみなさいませ。」

先ほどのことは水に流してくれたように、名残で頬の紅潮を残したまま、それでもラビは優しい笑顔を見せてくれた。

用意されたテントの中を見ると、毛布等もあり、寒さはなんとか凌げそうになっている。

寒い季節ではないが、日の当たらない森の中の夜は冷え込む。

毛布にくるまり目を閉じる。

嫌でも浮かんでくるあの夜の惨劇、光景。

血や糞尿の臭いが鼻についてとれない。

あれがつい昨晩のことである。

体をまるめて、目を閉じ耳を塞ぐ。

耳の奥に残る悲鳴と喧騒、血肉の飛び散る音。

体が震える。涙が出そうになる。

予期出来なかったものだろうか。何かもっと事前に備えが出来なかったのか。

魔王は何度でも蘇る。その度に繰り返していたのではないか。この惨劇を。

何故事前に、せめて人が死なないよう対策を打てないのだろう。

いや、対策を打ってあの状況なのだ。蘇る、そのたびに、きっと魔物は人類の想定を超えてくる。それか、数十年も平和が続いて、忘れてしまうのだ。あの痛みを。人とは愚かだ。平和の中で痛みを忘れ、他人ごとになっていく。

思考はぐるぐるとまわる。

ふと胸元の石を見る。

青く澄んで輝く、それを見ると、少し心が落ち着いた。

眠る。少しだけ。

少しだけ夜に甘えたい。


どれほど眠っただろうか。頭はこころなしかすっきりしていた。

起き上がりテントを出る。まだ夜だった。あたりを見張るラビの背中が見えた。

隣に座る。

遠巻きに黒い人影が佇んでいた。

「シャギさま、お目覚めに。」

「夜が静かすぎてさ。胸がざわついてるんだ、まだ。」

昨晩あんなことがあって、熟睡できる度量はなかった。

そういうつもりで言ったはずだった。

「シャギさまって、詩人ですよね~。」

「は?」

「俺が終わらせてやる!とか、太陽が大地の果てに沈む、とか、夜が静かすぎるとか!ふふっ!」

ラビを見る。なんと人を小ばかにした表情。

「な、んだよ!ばかにすんな!」

「えへへ、さっきのお返しですよ。」

自分の頭を指さし、片目をつぶってぺろりと舌を出す。

従順なように見せかけてちゃんと意志を持ち、反撃までしてくるらしい。

「あー、悪かったよ。…ラビ、交代しよう。俺が見張るよ。」

「ラビは大丈夫です!お気遣いなく。」

「お前も休んだほうがいい。ここは大丈夫だから。ほら、あいつもいるしな。」

シャギが見やる方向。

黒い人影。

わずかに目を伏せた、赤い瞳にかかる白いまつげ。

「では少し…お言葉に甘えます。」

「うん、おやすみ。」

テントへ向かう背中を見送り、視線を前に戻す。

黒い影はゆらゆらとそこにあって、しかし微動だにしない。こちらを向いているのか、どこを向いているのかもわからないが、そこにある。

あれは何なのか。明らかに敵意は感じられないが。


その夜は野生動物や魔物の襲撃もなく、日が昇った。

白んでいく空。早朝の澄んだ冷たい空気と、朝露の湿気が心地好い。朝焼けが鮮烈に空を彩る。

日は昇ったが、ラビは起きてこない。

まだ早朝だししょうがないか、そう思いつつも、テントの様子を見に向かう。

「ラビ、朝だぞー…。」

そーっとテントをめくる。

そこには、白いうさぎが丸くなって眠っていた。

「うさぎ!?」

思わず出る大声。

「きゃうっ!!」

うさぎが驚いて飛び起きる。

二本足でわなわなと立ち尽くし、何かを思いついたように、前足を舐めて額へ当てた。

発煙と発光。

眩さに目を覆う。

薄く目を開く。うさぎが徐々に人型を形成していく様子が見えた。

ほんの数秒で光がおさまるとそこには、白髪赤眼の少女、

「ラビです〜」

が、裸で座っていた。

「ラ、ビ…服を着たほうが…」

「きゃあっ!」

羞恥を取り戻したラビによって、シャギは突き飛ばされテントの入口が勢いよく閉められた。

そして服を着てよろよろと出てきたラビは少し毒づく。

「女の子の寝所を覗くとは不届き者ですね…。」

「配慮が足りなかった…すまん…。」

どことなく気まずい雰囲気。

次にシャギは思ったままを口にする。

「なんか動物っぽいなと思っていたが、ほんとにうさぎだったとは…。」

「うさぎのラビットですよぉ…。」



朝からひと悶着あったものの、ラビはテキパキと出発の準備を進め、シャギ一行は馬に乗り込み再び歩を進める。

そうこうしながら三日ほど進み続けて、ようやく町の郊外へと入った。

まだ町の郊外ではあるため、民家は森に囲まれ点在するのみ。

山があり、川がある。その様子は今のところあまりシャギの村とそう変わりはないように見えた。

「もう日が暮れそうですが、大体ここから町に突入です。」

ラビが高らかに告げる。

シャギにとっては初めての違う町。

よく見れば確かに、彼の村に立っていた民家とは造りが違うように見える。

「シャギさまの故郷の村と比較すると、この町はかなり大きく発展しています。明日、軽く町を見て回りましょう。」

それからラビはある方向を指差す。

「ちょうどよいです。今日はあの宿でもう休みましょう。」

「こつこつ貯めた小遣い全部持ってきたが…足りるか…?」

「ご心配なく。今晩分はラビにお任せください。」

建物に入り、ラビは受付へ向かう。

「大人はいるかい?」

受付が言う。

「子供じゃありません。冒険者です。」

ラビは毅然とした態度で応対する。

受付はシャギを見た。

怪訝そうな顔をしてはいるが、どうにか受付をしてくれた。

「馬は馬屋に預かっておくよ。この辺は物騒だ。用心しなよ、小さな冒険者さんたち。」

「ご忠告ありがとうございます。」

ラビの表情は動かない、事務的、いや、機械的な対話だった。

部屋の鍵を受け取り、部屋へ向かう。古い木造建築は、歩くたびにぎしぎしときしんだ音を立てる。

清掃は行き届いているようだが、どことなく埃っぽいにおいが鼻をつく。

割り当てられた部屋の扉を開け、荷物を置く。狭い部屋に机が一つとベッドがひとつ。それから小さなシャワールーム。

「お金の都合上一部屋となってしまいましたが…シャギさまがベッドをお使いください。」

「あ、えーと…ラビは寝るときうさぎだろ…?なら一緒でも…。」

「不埒です…!」

「あ、はあ…」

「よ、浴室もありますので、どうぞ体を流してきてください。」

促されるまま浴室へ行き、服を脱ぐ。さすがに真夏の三日間着た服はどろどろだ。着替えはある。服も一緒にシャワールームで手洗いをした。黒い水が排水溝に流れていく。

体を流す。久々に身を清める。温かいお湯。一気に心が和らぐ気がして、張り詰めていた糸が切れた感じがした。

気持ちいい。

服も体も洗ったあと、体を拭いて服を着て、ラビに声をかけた。

「ラビ、次入るか?」

「はい!」

その後さっぱりしたラビも浴室から出てきて、先日作っておいた干し肉を二人で食べる。塩味がついただけの、熟成された干し肉。

それをもちゃもちゃとほおばりながら、ラビは言う。

「これから冒険をするのに、武器商人から装備を買ったり、このように宿に泊まるためにお金が必要になります。」

シビアな問題だった。

「お金を稼ぐ方法は2つあります。ひとつは魔物を倒し魔物の持つ貴金属や装備等を回収して売却すること。魔物の所持品はかなり高価ですから、それなりの利益を得ることが可能です。もうひとつは街の懸賞クエストを請け負うこと。街によっては資格なんかが必要なことがありますので、取得できる所で取得したほうがよいでしょう。いずれも魔王討伐のため損はない経験値となりますので、日銭稼ぎも効率的となります。」

この宿につくまでの三日間、実を言うと一度も魔物に遭遇していない。

シャギは覚悟していた。非常に険しい旅路になることを。

だがその実平和に、ただただ馬を歩かせただけなのであった。そのためここに来るまで経験値ゼロ、ということになる。

「本当にラビはなんでも詳しいな…。」

「ええ、ラビは情報通ですから!」

ますますラビのことがわからないと思った。

「ラビ…お前は何者なんだ?」

「うさぎのラビット。白魔導士です。」

「はぐらかしてきたなー。」

「いいえ。そのお話はまたいずれ。」

「そうか。まあ長い付き合いになりそうだし。その内な…。」

ごろりとベッドに横になる。しばらくこんなに体を伸ばしていなかった。

しかもベッドだなんて。古くてぼろいベッドでも、寝具とはこんなに心も体も休まるのか。すこしして、シャギは寝息を立て始めた。

よほどの疲労が蓄積していた。

初めての遠出、連日の野営。精神的消耗。

「勇者には裏切りが必要なのです。お許しください、勇者さま。」

夢うつつ、もうろうとする意識の中でそんな言葉が聞こえた気がした。

理解も何もできない、ただ、音だけが鼓膜を震わせた。

何も見えない、何も聞こえない、深いまどろみに沈み込む。

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