レースの山場
85キロ地点から4キロ程の下り区間がある。
タイトコーナーもあり、技術が伴っていないとハイスピードで下るのはリスキーだ。
先頭集団は一列棒状になって下っていく。
その中にはフルールと彼女にピタリと付いた一花の姿がある。
先頭集団に残っている女子は彼女達二人だけだ。
下り終えて上りに入った所で一花はフルールに声を掛けられた。
「イチカ、スゴイね。あの下りのペースにピッタリと付いてくる事が出来る女子選手は少ないんだよ」
フルールに名前を呼んでもらえたので驚いた。何を言ってるかはっきりとは分からなかったけど、下りを褒められた事は分かって、心が躍った。
この下りを終えるといよいよのはずだ。
距離はあと15キロだけど、ここから勾配がグンとキツくなるはずだ。
既に標高2200メートルを越えている所から標高差1000メートル以上アップする。最大勾配は27%もあるらしい。
勾配がキツくなってきた所で男子のトップ選手達のレースが始まった。
まるでここが平地であるかのようなスピードのあるアタックが掛かる。
それに付いていこうとする選手、マイペースで走り続ける選手、集団は一気にバラバラに崩れた。
流石のフルールも男子のトップ選手に付いていく事は出来ない。
マイペースで走るフルールだが、そのダンシングは力強い。
一花は夢中になってフルールの走りをコピーし続けている。
27%ある坂も思考を押し込めて、ペダリング人形のようにペダルを回し続けた。
何とかそこをクリアーし、少し勾配が緩くなる。
ホッと息を吐くと、目の前に再び壁のような坂が現れる。
あたしはペダリング人形!
そう言い聞かせ、無心で漕ぎ続けた。
その痛みは突然やってきた。
ピキッ!
立ち漕ぎをして踏み込んだ時にいきなり左の太腿の裏側に激痛が走った。ピキーンと攣った。
「イッタ!」
思わず声が出た。
慌てて座って一番軽いギアに入れる。
恐る恐るペダルを回す。何とか漕ぎ続ける事は出来たが、フルールの姿は既に小さくなっていた。
これまで足が攣った事なんてなかった。足が攣って痛がっている選手を見た事はあるけれど、こんなに痛い物だとは知らなかった。
せっかくここまで頑張ってきたのに。
誤魔化し誤魔化し、ゆっくりゆっくり丁寧にペダルを回して進んでいく。
どうかこれ以上攣らないでという願いも虚しく、右の脚も、ふくらはぎも太腿も全てが言う事を聞かなくなって、道路脇に一花は倒れ込んだ。
その時、どこかのサポートカーが通り過ぎようとして、一花に気づいて急停止した。
「貴方、大丈夫? 私達はこのままゴール地点に向かうから乗りなさい」
そう言われて一花は顔をあげる。
その人の格好を見て一花は「何てこった」と小声で呟いた。フルールと同じウェアを着た女性。オンディーヌの監督に違いない。
こんな無様な格好をよりによって一番見られたくない人に見られるなんて。
「ノー、ノー、アイム オッケー。アイ キャン ライド」
必死に抵抗した。
「グッド ラック」という言葉を残してその車は立ち去った。
一花は自分の脚を摩ったり伸ばしたり、自分の身体と格闘していた。悔しさと痛さで涙が溢れてくる。
ふと、美里の言葉が浮かんできた。
「レース中は私達はライバルだから私は貴方を蹴落とす術を使うかもしれない」
「お互いに頑張りましょう」
「一花、この調子でフルールにしっかり付いたまま少しでも長く走りなさい。完走なんて考えなくていいから」
先生、そうだったの?
あたしが完走できないように仕向けたの?
信じていたのに‥‥‥。
悲しくなっておいおい泣いた。
多くのライダーが一花の前を通り過ぎて追い越していく。
「アーユー オーケー?」
そんな声に答える気にもなれない。
自分と同じ桜をモチーフにしたウェアを着た選手が一花の目に入った。
座り込んでいる一花に気づかないはずはないのに、そのまま前を見て通り過ぎようとしているように見えた。
通りすぎてしまうように思えたけれど、その人は立ち止まり、バイクから降りて一花の隣に座り、こう言った。
「一花、立ちなさい! 這ってでもゴールしなさい。根性を見せるのよ。オンディーヌの監督はゴールまで一花の事を必ず見ているはずだから。選ぶのは監督で、私達は自分のベストを尽くす事しか出来ない。
最後まで出来る事をやらなきゃ。
ゴールまでお互いにベストを尽くしましょう。お互いに。
でもゴールまで気持ちは一緒だよ。一花、一緒に頑張ろう!」
「美里先生‥‥‥」
一緒にというその言葉を一花はどれほど望んでいた事か。
少しでも先生に対してあんな気持ちを抱いてしまった事を悔やんだ。
一花はゆっくりと立ち上がった。
自転車に跨がろうとするが跨る事さえ出来ない。
シューズを脱いでゆっくりと歩き始める。
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