全日本ロード ジュニア女子レース②

 古賀志に入るなり、彩音あやねの気配が変わった。本気の踏みに入った事が伝わってくる。

 一花は付いて行く事は出来ないけれど、今出来る最大を繋げていく。

 頂上にはやっぱり道穂がいてくれた。ゴールに向かわずにここにいてくれたんだね。

「一花さん。前と30秒。凄いです。でも絶対無茶しないで下さい!」


 今度はよく聞こえた。無茶するなという言葉。これだけは必ず伝えるようにと美里から念を押されているのだろう。一花はちょっと笑ってしまった。

「はいはい、無茶はしませんよ」と心の中で言う。


 下り始めて、急に雨足が強まった。前がよく見えない位だ。水溜りも深い所ができている。

 ウヒョ〜! と時々声が出る。


 もう少し減速が必要だと思ったけれど思ったより早く次のコーナーがきてしまった。

 だけど、コーナー中のブレーキングは危険だ。

 そっとそっと慎重に前後輪のブレーキをかけたのに、リアタイヤが滑る。グリップを完全に失いかけている。

 そこからはスローモーションのようだった。

 リアタイヤがどんどん滑っていく。

「ヤバっ!」


 一花は咄嗟に少し身体の重心の位置をずらした。

 ドリフトのようなモーションからバイクと身体が元の位置に戻り出す。

「危なかった〜。神様ありがとう!」

 まさに神技としか言えないようなリカバリーを見せた一花は冷静さを取り戻して、その後のつづらを無事にこなした。

 無茶しない、無茶しないって言い聞かせてきてこれだもんな。しつこく言われてなかったら、とっくに転んでた。みんなありがとう。ここで転んじゃってたら皆に合わせる顔もなかったよ。


 下り終えた所で視界に黄色いウェアが突然飛び込んできた。

 雨はやみ、遠くには少し青空まで覗いている。つい今さっきまで視界もほとんど無く、モノトーンのようだった世界が急に色付いた。

 え? 彩音?

 見えるはずがないと思っていた彩音の姿を捉える事が出来た。10秒位の差か? もう待ってくれるはずはない。全開で踏んでいるのが分かる。


 少しでも、少しでも差を詰めたい。最後まで何があるか分からない。彩花と一花を繋ぐ見えない糸に引っ張られるように一花は夢中になって漕いでいた。

 追えてる。ちゃんと追えてる。

 力がみなぎっている。お赤飯が効いてるんだ。まだいける。なぜだかお赤飯の事が浮かんだ。


 追われている事に気づいた彩音は懸命に逃げた。

 ゴール直前、後ろを見て勝利を確信すると、いつものような義務的なゼスチャーではなく、大きくガッツポーズをしてゴールした。


 10秒後、差を詰める事は出来なかったけれど、一花がゴールに現れた。

 急に日が差して、スポットライトを浴びるようなゴールだった。

 白鳥が羽を広げるように両手を少し広げて天を見上げた。

 満面の笑みを浮かべながら。

 雨を沢山吸い込んだウェア、髪から流れ落ちた雫がキラリと光った。

 まるで優勝したかのような美しいゴールだった。


 すぐに美里が駆け寄ってきて両手を広げて一花を迎えた。

 一花は両足をペダルから外し、バイクに跨ったまま美里の胸に顔を埋めた。

「先生、ありがとう!」


 美里の目から涙が溢れている。

「一花。なんて凄いなの。走りも凄かった。何よりもあんな風にゴール出来るなんて」


 それを聞いた一花がプッと吹き出して顔を上げた。

「恥ずかしいよ。勝ってもいないのにあんな風にゴールしちゃって。でもすっごく嬉しかったから許されるよね」


 笑ってほしかったのに美里は真面目な顔をして言う。

「優勝者以外で、あんな風にゴールする選手を私は初めて見た。ロードレースではタブー視されるかもしれないけど、そんな事は関係ないよ。今の一花にとって最高のレースができたんだからね。あんなゴールが出来た一花を私はとっても誇りに思う」


 そこに康介が走ってやってきた。

 息を切らして興奮しまくっている。

「一花〜! スゴイぞ! やったな。これ、見てくれよ! すっげ〜いい写真撮れたんだ!」


 一花と美里は康介のカメラを覗きこんだ。

 一花のゴールシーン。

 あの美しいゴールの背景は青空。そこには大きな美しい虹が架かっている。

「スゴイ!」

 二人の声がハモった。


 カメラからゴールラインに目を移す。ゴールラインの向こう側には実際に大きな美しい虹が架かっていた。



 次のレースが終わった昼頃、表彰式のアナウンスがあった。


 一花は十ヶ月位前に書いていた事を暗唱した。

「もしも表彰台に立てたら、お化粧して、最高の笑顔で桜蕾学園の皆に手を振る。立てなくても笑顔で表彰台に立った選手を讃える」


 新しいウェアに着替え、お化粧もバッチリ決めてきた。

 表彰者の待機場に行くと既に彩音が下を向いて椅子に座っていた。

「彩音、おめでとう!」と言いながら一花は隣の椅子に座った。


 彩音は下を向いたまま小さな声で話し出した。

「先生が厳しくてね。他の選手とペチャクチャ話してると怒られるの。それに、あんな勝ち方じゃダメだって怒られちゃった。一花の走り凄かった。私、同年代の子達のレースでこんなに本気になったのは初めてだよ。それに美里さんに教えてもらってるなんて羨ましいな」


 一花はびっくりした。話も出来ない、勝って怒られるなんて。あたしは恵まれていると改めて思う。

「わかった。無駄話はしない。でもさ、表彰式はみんなで笑顔で手を上げようね。二位のあたしだけがニコニコして手を振ってたらバカみたいに見えちゃうからよろしくね」


 厳しいレース、厳しい戦いの中で生まれたお互いをリスペクトする気持ち。多くの事を語り合わなくても二人には何か通じ合えるものが生まれていた。


 全日本の表彰式は格式高い雰囲気の中で行われる物であるが、一花は仲間に手を振り、ちょっとおちゃらけて笑いを誘った。

 いつもはあまり表情を崩さない彩音もついつい笑ってしまって、とても和やかな華やかな、表彰式となった。


 一輪の花がポッと美しく咲いた。それは周りの人々を明るくさせる花。

 美里は下から手を振りながら、明日は私の番だと気を引き締めた。

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