高校三年生
もうすぐ全日本
今年の全日本ロードはジュニアが6月29日(金)、女子エリートが6月30日(土)に行われる。
場所は栃木県宇都宮市。1990年に日本で世界選が行われ、それ以降はメモリアル大会として毎年ジャパンカップという国内で最も盛り上がるレースが行われているコースだ。
今回は近年使用されている1周10.3kmのコースで行われ、古賀市林道と呼ばれる名物スポット、約1キロのつづら折れの上り坂が一番の勝負所となる。
ただし、その上り坂はコースの前半にあり、そこからの下りと平坦が長いので、上りで抜け出した選手が最後まで逃げ切れるかどうかが見所となる事が多い。
上りに強くないと勝負出来ないが、上りが強いからといって勝てるとも限らない。
女子ジュニアはここを4周、エリートは9周する。
ハードなレースになる事は間違いなく、日本チャンピオンを決めるに相応しい。
シーズンオフの寒い時期も、毎日自転車に乗った。
一花は毎日家でやるように課せられていた、腕立て伏せと腹筋と腹式呼吸のエクササイズをサボらずにやった。
桜の花も散り、吹く風が暖かくなり、自転車に乗るのに持ってこいの季節がやってくると、美里の調子はぐんぐんと上がっていった。
ダイエットの効果も出て、現役時代の容姿を取り戻していた。
調子が上がらない時には、こんなにキツくて苦しい事をなんでまた始めちゃったんだろうと思う事も度々あった。
それでもそんな中で気づいた事がある。
何か強い意志を持って生きているという事が、自分にとってこんなにもかけがえのない素晴らしい事なんだと。
生きている。厳しいけれど、ぬるま湯の中では感じられない何かがそこにはある。
贅肉だけではなくて、どんどんと何かが削ぎ落とされていく美里を一番近くで見ながら、一花は目を輝かせていた。
「先生、すごい!」
何かに向かうってこういう事。
そんな一花の方はというと、美里が期待していたようには進んでいない。
「全日本は通過点」。彼女にはそう言っておきながらもある程度の結果は出せると思っていたし、何よりも一花の目が変わらない事に美里は不満を感じていた。
「楽しむ」「一花らしく」。
一花にはその事を一番望んでいたはずなのに、少し物足りない気がしてしまう。
一花の頑張らなくても出せるパワーはかなり大きくなってきているし、ある程度の頑張りが効くようにはなってきている。
しかし、本気の頑張りはまだまだ効かないし、これではジュニアの優勝などとても望めないレベルだ。
あえて身体を絞るダイエットを課してはいないけれど、走れる身体には程遠く、全日本の上りを考えて一花自身がもう少し努力しても良いのにと思う。
ただトレーニングをしていく中で、一つだけ美里もびっくりさせられた事がある。
一花は下りが抜群に上手くて速い。これは天性の物。これまで、こんなに下りの速い日本選手を見た事はなかった。
美里は元々、下りの速い選手では無かったが、海外のレースを走っているうちにどんどん速く走れるようになっていった。怖い思いをしながらも、ついていかなければ話にならない世界で揉まれ、速さは自然と身についていった。
京子も元々は下りがどちらかと言うと苦手な選手だったけれど、今は普通に海外の選手と渡りあっている。
ブランクがあるとは言え、おそらく今の美里は京子の次に下れる選手のはずだ。
それにも関わらず、一花は美里よりも速く下る。
ある雨の日の練習中、美里と一花は峠を一緒に走っていて、その下りで一花に付いていこうとした美里がスリップして落車してしまった事があった。幸い大した怪我は無かったが、美里を唖然とさせた出来事だった。一花は無茶をしているのではなくて、本当に上手い。
全日本のコースでこれは大きなアドバンテージになるはずだ。
古賀市林道の下りはクネクネとタイトなカーブが沢山あって、とてもテクニカルだ。特に雨が降れば滑りやすくなり、下りを苦手とする選手にとっては大きなポイントとなる。
昨年のインターハイで力の差を見せつけて優勝した黄色いウェアを着ていた選手、
ジュニアとして全てが上級だけれど特上のものを持っているという感じではない。
下りが特上級の一花。そこだけは彼女に勝っているはずだ。
いよいよ全日本まで一週間を切り、ハードなトレーニングはお終い。調整期間に入った時に美里が一花に話した事があった。
「ちょうど十ヶ月くらい前に二人でこの全日本を目指すって決めて、ここまで来たよね。上手くいった事もいかなかった事も色々とあるけど、あとはやってきた事をレースに出すだけだね。
あの時にノートに書いた事、一花は覚えてる? 今、一緒に見返してみない?」
一花は「見返す必要はないよ」と言った。
「あたし、あれを書いてから毎日一回は必ず見てたの。そしたら、そのうち見なくても暗唱出来るようになってた。勿論先生が言ってくれた事も。
『通過点。焦らない。自分を信じる』」
美里は心臓が締め付けられたように苦しくなった。
「一花、あなたは凄い
一花は首を横に振った。
「先生、そんな事はないよ。先生の生き様はカッコいい。あたしはそれを見てきた。だから、最後までやってきた事を貫いて!」
「一花‥‥‥」
美里は何度も「ありがとう」と口にしながら一花をそっと抱きしめていた。
「一花は本気で頑張れる所までは持ってこれなかったね。実力的には彩音に勝つのは厳しい。ジュニアのレベルはとても上がってるから、はっきり言って入賞する事も難しいかもしれない。でも何があるか分からないのがレース。最後まで諦めないで。そして何よりも、ずっと一花が言い聞かせて守ってきた事を壊さないでね。
レースでは一花には下りのアドバンテージがある。ウエット路面ならなおさら。でも絶対に無茶したらダメよ。下りの落車は大きな危険を伴うから。一花の可愛い顔を傷つけたりしたら許さないから」
最後は笑って言ったけれど、それは心からの思いである。
「分かってるって。あたしはそんな危険は絶対に冒さないよ。先生、ありがとう」
一花も笑っていた。
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