ある日のトレーニング

 美里も一花も思うようにいかない事だらけだった。

 思い描くものと現実は、いつの時にも隔たりがあるものだ。



「先生、何だか最近不機嫌っぽいね。足もちょっと引きずってる感じがするよ。自分を追い込み過ぎたらダメだよ」


 一花に言われてハッとする。

 レースから遠ざかり自由気ままに自転車に乗っていた時にはすこぶる良かった体調も、トレーニングをハードにやっていく事で、あちこちに痛みが出たりイライラする事が多くなっていた。

 それでも生徒達の前ではそんな素振りを見せないようにしてきたのに、一花には見られていたなんて。


「え? そんな風に見える? ごめんごめん。気をつけなきゃね。言ってくれてありがとう。またそんな風に見えたら教えてね」


 一花という存在が美里にとっては大きな救いになっていた。


 一花だって上手くいかない事が沢山あるのに、彼女は笑顔を忘れずに本当に楽しんでいるように見えた。

 トレーニング中に何度か発作のように過呼吸の症状が現れたが、それさえも笑い飛ばしていた。

「先生、ごめんなさい。ちょっと張り切り過ぎちゃった。もう少し抑えなきゃ」


 頑張りたいのに抑えなきゃいけないほど辛い事はない。悔しさや辛さを顔に出さない一花はスゴイ、私も一花を見習わなきゃと美里は何度も思った。



 マンツーマンのトレーニングの日、一花が提案してきた。

「ねぇ先生、今日はあたしを見てくれるんじゃなくて、先生も自分のトレーニングをしてほしいの。場所は予定通り、キロざかでいいから。あたしは自分のペースで反復してるから、先生も自分のペースで反復して。先生がどんな風にトレーニングしているのか知りたいし、何回もすれ違えるから励みになると思うの」


 正直、自分のトレーニング時間を少しでも多く持ちたいと思っていた美里は、また一花に心を読まれているのかと焦った。

「え? 一花は私に気を遣ってくれてるの?」


 一花は大きく首を横に振った。

「違う、違う。本当にそうしたいんだから」


 美里はにっこりとした。

「分かった。それなら私もすごく励みになるから頑張って走れそう。よし、一花はしっかりと自分のペースを守ってリピートね」


 一花は「はい!」と嬉しそうに頷いた。

「ねぇ先生、一つだけお願いがあるの。下りはいつもより少しスピード上げて気持ち良く下っていい? 上りで追い込めないから、インターバルを短くしても問題なさそうだし」


「まぁいいけど。安全第一で下る事は約束してちょうだいね」

 一花はいつも美里にピッタリと付いて下ってくる。結構いいスピードで下っても楽々と付いてくる感じで、一花の下りのセンスは抜群だと感じていた。それでもスピードに物足りなさを感じていたのだろうか?


 2キロ、約10分の上り坂を6回リピート。

 美里は6回、同じペースで上るのが少し難しい位のペースで上る。

 1回目から全力ではないが楽なペースではない。

 一花は気持ち良く上れるペースで5回、ペースを揃える必要はないから落ちていってもムリはしないように言われていた。


 二人は同時にスタート。


 わー、あんなスピードで行っちゃうんだ、カッコいいな。

 一花は美里を目で追いながら、自分の気持ちいいペースを刻んで上っていく。

 長い直線では先生の後ろ姿が見える。腰を上げてグイグイ踏んでいるけれど上体はブレずにすごくリズミカルだ。

 真似をして少し踏んでみる。

 見えている背中は、一花に合わせてくれている時にはない躍動感があって、姿が遠ざかっていっても何だか楽しい。


 美里が折り返してきて一花とすれ違う。

「一花、それっ」っと美里が声を掛け、一花がニコッと笑う。


 美里は2本目。上り始めて少しすると、思っているよりも早い段階で一花とすれ違う。

「先生、がんば!」

 アイコンタクトを交わす。美里はインターバルを長めに取る為にゆっくり下っているが、一花はかなり飛ばしてきたのだろう。


 アイコンタクトを交わすだけなのに、一緒に頑張っている仲間がいるというだけで、一人で走っている時よりもずっと力が沸いてくる。


 美里はしっかりと追い込んで6本終え、良いトレーニングが出来た事に満足していた。

 そして美里よりも一花の方が先にゴールした事に少し驚いていた。


「先生にラップされたくなかったから、下り結構飛ばしちゃった。先生の走る姿、すっごくカッコよかったよ!」

 一花は嬉しそうに息を弾ませた。



 もしも一花がいなかったら、自分一人で全日本に挑戦する事になっていたら、自分自身を追い詰め過ぎて自滅していただろうと美里は思う。

 出来ない事を求めてイライラせずに、出来る事を楽しみながら積み重ねていこう。一花を見ながらそう思う。


 一方、一花は美里を見ながら、目標に向かって本気に取り組むって事はこういう事なんだと感じていた。自分も美里のように頑張れるようになる時が必ず来ると信じながら、ノートに書いた事を忘れないように毎日見返す事を怠らなかった。

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