フルールという少女②
ジロが始まった。
私はトレーニングをレーススタート前までに終えて、スタートからゴールまでしっかりとチームハウスでテレビ観戦した。
選ばれなかったチーム員のほとんどは、その時間はトレーニングに出てしまっていて、一人で観戦する事が多かった。時々覗きに来たり、ゴール時間に合わせて選手が集まってくる事が多かった。
私達のチームには絶対的エースがいる。
私と同い年のニナは過去二回ジロ・ドンネで総合優勝している。
昨年は後半少し体調を崩して表彰台に上れなかったが、今年も優勝候補ナンバーワンだ。他のチーム員もステージ優勝やポイント賞など狙える力はあるが、優先されるのはニナの総合で、他の選手はアシストする事が仕事だ。
私は毎日、フルールの走りに釘付けになっていた。彼女は笑いながら走っているわけじゃないのに、いつもとても楽しそうに見える。
彼女の走りを見ていると何故か元気を貰える。
フルールは監督の指示を忠実に聞き、それを全力で実行していた。あんなに闘志を剥き出しにした顔をして、懸命に走る姿は初めて見た。
そしてそこに悲壮感は無く、頑張る事を楽しんでいるようだった。
彼女は一日一日、その激しいレースに順応していくかのように、どんどん良い走りになっていった。
ニナが総合二位の選手に一分差をつけてリーダージャージを着て迎えた最終日、フルールは素晴らしい働きをした。
その日のラストは一級山岳の山頂ゴール。今回のニナはすこぶる調子が良く、誰よりも上れている。
怖いのは落車やトラブルだ。
フルールの役割はその一級山岳に入るまで、ニナのそばにいて彼女の要求に応える事だった。
レース中盤、一番恐れていた事が起こった。
数名のクラッシュにニナが巻き込まれた。幸い怪我は無かったが、バイクにトラブルが発生。すぐにチームカーがやってきてスペアバイクに乗り換えて、待機していたフルールと一緒に集団を追う事となった。
ステージレースではリーダージャージがこうした不慮のトラブルによって遅れた場合、集団はスピードを緩めてリーダーの復帰を待つという暗黙の了解がある。
しかし、レースが動いている局面ではその限りではない。
この時は運悪く、数名の逃げを追いかけて集団のスピードが上がっている時だったので、集団もスピードを緩める訳にいかなかったのだ。
前からチーム員が下がってくるまで、フルールはニナを引き続け、チーム員が合流してからも、集団復帰できるまで、誰よりも速く長く全力でニナを引っ張った。
ニナが集団復帰した所でフルールは力尽き、レースを下りた。
彼女の成績はDNFとなってしまったが、彼女の働きのおかげでニナは無事に総合優勝に輝いた。
ジロ・ドンネに出場したチーム員達が拠点のオフィスに戻ってきた時、チーム員たちは皆ニナに駆け寄り、ハグをして彼女の功績を讃えた。
私は真っ先にフルールに駆け寄ってハグをした。
「素晴らしい走りだったよ。あんなに走れるなんて‥‥‥」
フルールは下を向きながら小さな声でこう言った。
「ミサトじゃなくて私が選ばれちゃったから。でも選ばれちゃったからには楽しもうって思った。それと、ミサトに認めてもらえるようにって思って走ったら頑張れた。合格かな?」
思わず腕に力が入り、彼女を強く抱きしめてしまった。
私の頬を涙が伝った。
「合格だよ。勿論、大合格! 私じゃなくて、フルールが選ばれたのは大正解だったね」
私にはあんな走りは出来なかったはずだ。フルールが選ばれてなかったら、ニナの総合優勝も無かったかもしれない。
何よりも、こんなに重要なレースの中で、走る事とチームの仕事を楽しんでできる事が素晴らしいと思った。その姿が、見ている物に元気を与える。私にはとても出来ない事。
フルールの頑張り、若い素晴らしい力を誇りに思った。そして私の事を気にかけて、思ってくれていた事は何よりも嬉しかった。
嬉しかった。
だけど、その嬉しさよりも、それを遮る大きな影に私は怯えていた。
シーズンが終わり、私はチームから解雇宣言を受けた。
予想通りだった。
ジロが終わり、フルールと一緒に同じレースを走りたいという思いは強く、トレーニングに励んだが、私にはレース出場の機会はほとんど与えられず、ついに最後までフルールと同じレースは走れなかった。
長い年月をかけてコツコツと積み上げてきても、どうにもならないものがある。
誰よりも情熱を注ぎ、たくさんトレーニングをしても、どうにもならないものがある。
才能。
集中力や吸収力、順応する力。チャンスもものにする力。楽しむ力。
フルールのような娘を見ると、プロの世界で生き抜ける人というのは、こういう選ばれた人だけなんだと思えてしまう。
今はちょっと不調なだけ。まだ出来る。そう思う自分もいる。別のワールドツアーチームに加入するのは厳しいだろうけど、少し格下のチームなら雇ってくれるチームもあるはずだ。
そんな風にも思ってもみるが、そう思う度にフルールの顔が浮かんできて、その思いは否定される。
器が違う。
走った所で私はこれから何を目指すの?
私は日本に帰った。あの娘の顔がまとわりついて離れなかった。
★
フルールにまつわる回想が長すぎた。
美里はそう思った。
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