フルールという少女①
あの時の子だ。
その年の五月、チームの選手十人でフランスの南の方で山岳トレーニング合宿を行なっている時だった。
その日のトレーニングのクライマックス。
小さな峠を何回か越えた後、勾配10%前後の険しい坂道が10km強も続く峠の中腹で、力の差が出てチーム員はバラバラになっていた。
先頭は二人。少し間が空いて一人、また一人、私はその次を三人で追っていた。
かなり先の方まで見渡せる直線道でチーム員以外の白いウエアが目に入る。
この辺りでサイクリストに出逢う事は珍しくないのだけれど、その人は抜かれる度に抜いていく選手に必死に食らい付いているように見えた。
しばらく付いては遅れ、後ろを見てペースを落とし、次の選手が来るとまた必死に食らい付いている。
私達の前を行く選手から遅れ、その背中が大きくなってきて、頑張ってる少年だなって思っていた。
その子の横を通り過ぎた時、胸の膨らみに気づき、あ、少女だったんだ、と思う。
躍動感のある走りだ。
追い越す時に「ファイト!」と声を掛けると、少女はこっちを見てニコッと笑った。
追い越すと、また彼女は私達の後ろに付いた事が分かった。
息遣いが荒い。すぐに離れると思ったけれど、荒い息遣いのままかなり粘っている事に驚いた。
彼女の事をしっかりと見ていたわけではないけれど、悲壮感は感じず、走りをすごく楽しんでいる感じがした。
あの時、私も頑張らなきゃって元気をもらった事を覚えている。
私も必死だったので、彼女には構っておられず、チームの二人を引きちぎって頂上に辿り着いた。
その子は一番遅れたチーム員と一緒にゴールすると、チームカーの周りに集まって休憩していた私達の前でバイクから降りて、丁寧に頭を下げると、そのままバイクに跨って元きた道を下っていってしまった。
何も話さなかったけれど、その時の事はとても印象に残っていたので、すぐに分かった。
チームはあの時の走りに可能性を感じて彼女をスカウトしたのだろうか?
走りには躍動感とガッツがあったけれど、とても大人しい無口な
フルールは南フランスで小さなオリーブ農園を営む、あまり裕福ではない家の娘だ。小さい頃から農園の戦力となってよく働き、あまり学校には行かなかった。そのせいか、人慣れしていないという印象を受けた。
父親は若い頃にロードレースに熱中していて、今でも観戦が大好きだ。仕事が休みの時は、娘のフルールに自転車を貸してあげて、一日自由に走ってこいと送り出してくれていた。
家族にとって、農園の大きな戦力である娘を手放す事は痛恨だったけれど、強豪チームのオンディーヌからの誘いに父親は大喜びだった。
母親は大人しくて人見知りな娘がそんな世界でやっていけるのかとても心配していたようだけれど。
秋にフルールがチームに加入し、しばらくはオフシーズンだった。年内は休養をとりながら、身体に問題があれば治療をしっかり行い、各人に課題が与えられての個人練習が中心になる。
私はその年に何度か大きな落車をして身体のバランスが崩れ、後半は思うような走りが出来ていなかったので、休養と治療を優先させざるを得なかった。
完全に休むという事ではなく、地味なエクササイズや筋トレ、強度の低い乗り込みなど、もう一度ベースを作っていく課題を与えられていた。
まだ自転車選手としてのベースが出来ていないフルールは私と一緒にトレーニングする事が多かった。
地味な娘だった。
化粧っけも無く、口数も少なく、普段は存在感もあまり無かった。
私は自分の事に精一杯で、トレーニング中も彼女に何か教えるとか、構ってあげるとかする事も無く、ただ彼女が私の真似をしながら同じ時間を過ごしているという感じだった。
ほとんど話す事さえなかったし、彼女が私の事をどう思っているか分からなかったけれど、彼女がいるだけで私は何かパワーを貰えている気がしていた。
彼女はいつもトレーニングをとても楽しそうにやっていて、トレーニング中はいきいきとしていた。時間もしっかり守るし、挨拶もきちんと出来る娘だった。
年が明け、自転車に乗る時間が増えてチーム練習も少しずつ多くなっていった。
彼女は自転車に乗る時は特に楽しそうだった。
普段は相変わらず存在感が薄く、チームに溶け込んでいるという感じではないけれど、浮いてしまっているという感じでもない。
みんなから好かれるでもなく嫌われるでもなく、といった感じに見えていた。
春先から小さなレースが始まり、その頃から私の心の中をフルールが荒らし始めた。
彼女はレースを走れる力はまだ全然無い、まだまだ自分を脅かす存在ではないと思っていたのに、初めて出場したレースから予想以上の走りをしてしまったのだ。
「初めてのレースは何もかも分からない事だらけだろうから、とにかく出来るだけミサトにくっついて走りなさい」
そう監督は指示したけれど、密集した集団は隙が有ればどんどん前に割り込まれる。接触転倒の恐怖から、いつの間にか集団の最後尾になってしまって、集団から千切れてリタイアに追い込まれる。
初めてのレースで半分も走れたら上出来だと思っていた私の予想は大きく覆され、フルールは最後まで私にくっついて一緒にゴールしたのだった。
ゴールしてすぐに「ミサト、ありがとう。楽しくレースを学べました」と言ってきた。
私は唖然とした。この娘は何者なんだろう。トレーニングでは簡単に私から千切れていたのに‥‥‥。
フルールはレース毎に成長していった。監督が与える課題を次々とクリアーしていき、私よりも良い働きをしたり、上位でゴールする事もあった。
私は焦っていた。私達が最もターゲットにしているレースが七月上旬に十日間に渡って行われる「ジロ・デ・イタリア・ドンネ」
一チーム六名がそのレースを走れるのだけれど、私はそのボーダーライン上にいた。チームに加入してから五年間ずっと選ばれ続けていたけれど、今年は危ういのだ。
昨年の夏頃から調子が崩れ、オフシーズンは立て直しに努めたが、今ひとつ調子が上がってこない。フルールの急成長は脅威となっていた。フルールと一緒に出場出来れば嬉しいけれど、落とされるのはどちらかで、力が同等と見られれば将来性のあるフルールが選ばれるのは当然だろう。
私はかつてない位にレースにもトレーニングにも真剣に臨んだ。私自身の調子は上がっていったけれど、他の選手も調子を上げていたし、フルールの成長速度は倍速だった。
私はジロのメンバーから外された。チームミーティングでその発表がなされた時、私とフルールの目が合った。彼女の目は妖麗だった。
その目から彼女の心の内を読み取る事は出来なかった。私は彼女に何も言わなかったし、彼女も私に何も言わなかった。
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