待つ、ということ

 次の日、校内で美里と一花は幾度となく顔を合わせる機会があったが、お互いにわざと顔を背けていた。

 一花の方から何も言ってこなかったので、帰りぎわのホームルームを終える時、美里は仕方なく静かな口調でこう言った。

「一花、話があるから帰らずに残りなさい」



「先生、さようなら〜」

 生徒達が一人一人と帰っていくにつれて、美里の気持ちは重たくなっていった。

 他に誰もいなくなった教室に重たい空気が垂れ込めている。


 どう話そう? 私は教師、しっかりしなくちゃ。一花は何を考えているのだろう。あの子には何か惹かれる物がある。心の中に少しでも入る事が出来たらいいけれど、上手くやらなければ、全てを拒絶されそうだ。

 これからのやりとりは、とっても大切。

 美里は、大切なレースに臨む時のような気持ちになっていた。


 蓋を開けてみなければ展開は分からない。しっかりと集中して、相手の出方をしっかりと見て、冷静に大胆に振る舞おう。

 私は教師。主導権を握れるように、自信を持って! 

 自分自身に言い聞かせながら窓を少し開けた。


 すーっと心地よい風が入ってきた。

「一花、そこに座りなさい」

 一花の方に振り向いて美里は静かに声を掛けた。


「は〜い」

 ふてくされたような返事をしながら一花はドサッと椅子に腰を掛けた。


 美里は一花の斜め前に椅子を置いて腰を掛けた。

「私に何か言う事はありませんか?」

「別に〜」

 一花は美里先生から目を背けてしらを切っている。


「今日はいつもより少し化粧が濃いわね。昨日の約束はどうしたんですか?」


 そら、早速きた。一花はあらかじめ用意しておいた答えをそのまま口にした。


「え? 先生、あたしが本当に行くと思ってたの? あたしが先生とのあんな約束を守る生徒に見えたのなら、それは嬉しいな。ありがと。

 でもね、先生。あたし達JKってこんなもんだってこと学んでいかなきゃね」


 少しも悪びれる様子もなく、完全に見くびった言い方に、美里は戸惑った。私はとんでもない学校に足を踏み入れてしまった‥‥‥。


 しかし、それが返って美里の闘争心を刺激するものとなった。咄嗟に自分の方から少し心を開いてみようと思った。


「一花、見栄を張るのは辞めなさい。

 先生をみくびっちゃダメよ。先生は嘘をつく人、約束を守らない人が嫌いだって事を覚えておいて。

 約束を守れない事情がある場合は、今度からはちゃんと連絡を入れなさい。今回は連絡先を教えていなかったから仕方がないとして。一花はLINEやってるんでしょ? そういう時はこれからは連絡を入れるって約束出来ないかな?


 私はね、先生になったばかりで、今はただ先生になったってだけなの。何も分からない。先生として何をしたいのか、志もはっきりとしたものが無い。

 そんな先生に生徒が付いてきてくれるはずないよね。だから約束を破られても仕方ないと思ってる。今はね。今は‥‥‥。

 だけど。

 もう少し時間は必要だと思うけど、先生と生徒、同じ一年生同士、心を開いて一緒に成長していけたら嬉しいなって思ってるの。


 私は待ってるから。もう私からは無駄に声を掛けない。一花が自転車に乗りたいって思ったら、いつでも言ってきてほしい。LINEに入れてくれてもいいから。LINE交換だけはしてくれる?」


 こんな話は用意してなかったのに、美里は自然とこんな事を言っている自分自身に少し驚いていた。

 一花は少し気まずそうな顔で聞いていた。美里はその表情を見ながら、今の言葉が少しは一花の心に響いているという感触を得ていた。


「え? LINE友達が増えるのは嬉しいからいいけど」

 そう言ってスマホを取り出した一花に向かって、美里は一か八か、確信を持ててない事を自信ありげに言ってみた。


「私は昨日、一花が約束の場所に来ていた事を知ってるの」


「え?」


 一花は目を大きくし、漫画で見るような本当にびっくりした表情を浮かべた。

 ビンゴ! その表情を見て、美里は見えないように小さくガッツポーズの拳を握った。これで自分が優位に立てた気がした。


「理由は聞かないから。誰でも人に言いたくない事は持っていると思う。私もそう。心を開きなさいとは言わない。いつか話したい時が来たら話してちょうだいね」


 一花は唇を尖らせ、窓の方を向いていた。美里は一花を見ていない振りをしながらこっそりとその顔を見ていた。一花の頬に一粒の涙が流れるのを見逃さなかった。


 ★


 次の日から美里は学校への車での通勤を自転車通勤に変えた。家から学校までおよそ二十キロ。往復で四十キロの軽くアップダウンのある田舎道での二時間強の運動は心地良いものだった。


 美里は選手を辞めてから半年位ロードに乗っていなかったのだけど、日曜日に久々に乗ってその心地よさを味わった。本当は部活で生徒と一緒に乗りたかったけれど、とりあえずは通勤で我慢しようと思ったのだ。

 選手を辞めて半年で八キロ位太ってしまったから少しダイエットしなきゃとも思っていた。


 ロードレーサーに乗って颯爽と学校にやってくる美里先生の事は生徒達の話題に上る事が多かった。加えて、美里先生の英語の授業はすこぶる評判が良かった。


 ヨーロッパに渡った時、美里は十年間も真面目に学校の英語の授業を受けてきたのに全然役に立たない事にがっかりした。

 向こうで生活をし、必要に迫られて学んだ英語、実際に役に立つ英語を教えたいと思っていたし、英語を話せるようになった事で自分の世界がグッと広がった事を伝えたかった。


 教科書の内容から脱線する事が殆どで、英語での失敗談や国によっての習慣や価値観の違いなどを面白おかしく話して聞かせた。


 生徒には実際に英語で会話をさせる事が多かった。

 上手な英語は話せなくても、物おじせずに話す一花はよく指名された。

 一花のように下手な英語でも恥ずかしがらずにどんどん話す事が大切だと、一花の事を褒めた。

 美里先生と一花の英語での会話は漫才みたいで教室は笑い声で溢れた。殆どの生徒達がそんな英語の授業を楽しみにしていた。

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