約束の日
次の日曜日、一花は約束の十分前に公園にやってきた。ママチャリを漕いでここまで来て、公園の駐車場を見ると、すでに美里先生が来ていた。
紺色の軽自動車の後部は自転車がそのまま積めるようになっていて、そこから二台のロードレーサーを降ろしている所だった。
一花は先生からは見えないように、少し離れた所からその様子を伺っていた。
約束の九時になっても、一花がやってこないので、先生は腕時計に時々目をやってはソワソワした感じになってきた。先生が駐車場をウロウロとし出したので、一花は見つからないようにうまく隠れた。
座ったり、立ったり、ウロウロとしたり、スマホを見たりしていた先生は三十分待って一台の自転車を車にしまった。諦めたのだろう。ヘルメットを被り、サングラスを付け、シューズに履き替えると、ロードレーサーに跨って漕ぎ出した。
美里先生は長袖Tシャツに膝までのズボンを履いていて、本格的な服装ではなかったけれど、その姿はとても格好いいと思った。
その後ろ姿を見送ってから、一花は自分のママチャリに乗って自宅に戻った。家には誰もいない。真っ直ぐに自分の部屋に行って、ドサッとベッドに身体を預けた。
「あ〜あ」
天井を見つめながら、髪の毛を掻きむしった。
あたし、何やってるんだろう?
★
一花にとって高校の教室での一日目はとても衝撃的だった。思ってもみない展開に胸が高鳴った。
あの時から、一花はずっと色々な事を考えていた。美里先生が自分に掛けてくれた言葉。自転車の事、競技の事、トラウマみたいになって封印していた事を思い出していた。
小学生の時は本当に楽しかったな。
あたしが小学生になった時、日曜日になると三つ上のお兄ちゃんが父さんと一緒に近くにあるBMXコースに通うようになった。
ある日、あたしも一緒に付いていくと、沢山の自転車がコース上を走っていた。すごいスピードで走って飛んで、技を決めたりしていてびっくりした。小学生も沢山いて、長い髪を
あたしもやってみたい! ひと目見てそう思った。
「あたしもやる〜。やりたい〜。やりたい〜」
「お兄ちゃんの自転車は大き過ぎるし、一花にはまだムリだ」
父さんにそう言われても、駄々をこねて泣き叫ぶ私を見かねて、一人のお兄さんがやってきた。
「この自転車なら小さいから乗れるかもしれない。乗ってみる?」
「うん!」
あたしはその自転車を奪い取って跨り、漕ぎ出した。
「こら!待て待て!」
いきなりコブだらけのコースに向かおうとしたあたしは、そのお兄さんに力づくで静止させられた。
「ヘルメットを被らないとダメだよ。それにいきなりあんな所は走れないよ。ちょっとだけ教えてあげるから後ろからついておいで」
それが最初だった。
あたしは大して練習する事なく、すぐに他の人より速く上手く走れるようになっていった。
お洒落な格好をして、髪を靡かせ、サラッと涼しげに速く上手く走る。それが格好いいと思っていた。
レースは楽しんだものがち。勝ち負けはこだわらなかった。適当に練習して、楽しく走って、入賞でもすれば、なお嬉しい。そんな感じでずっと楽しんでいた。
友達もできた。
特にそこそこ走れる女子友達の
とにかくあの頃はBMXが楽しくて仕方なかったな〜。
またあんな風に自転車に乗れたらどんなに楽しいだろう? ちょっとそんな風に思っていた。
だけど‥‥‥
二度とあんな思いはしたくはない。楽しい思い出は一瞬にして打ち砕かれる。
美里先生はあんな風に言って、あたしを厳しい自転車競技の世界に引き摺り込もうとしているに決まってる。本場のヨーロッパで六年間もやってきた人がいい加減な部活をやるはずがない。
そうだ、美里先生の事、ググってみよう。きっと何か出てくるはず。
何か出てくるどころじゃなかった。少し調べただけで美里先生のこれまでの輝かしい戦績がずらっと出てきた。
写真も沢山出てきた。今でも素敵なスタイルだと思っていたけど、選手として走っていた時は今よりずっと痩せていて、研ぎ澄まされたアスリートの美しさがあった。
これが美里先生。
一花はこんなに凄い先生を悲しませたくないと思った。あたしには厳しい競技は無理だ。苦しみたくない。頑張りたくない。だから最初からやらない方がいい。
約束の日は明日。集合場所に行って、やっぱり出来ないと先生に謝ろうと思った。
★
そう思っていたのに‥‥‥
実際に約束の場所に行ったけれど、先生を見ていただけで、隠れていただけで、声を掛ける事も出来なかった。約束を破ってしまった。ごめんなさい。明日、学校で先生にどんな顔を向ければいいのかな? 先生は怒るかな? 無視するかな?
そうだ。先生に嫌われるのが一番楽かもな〜。この子はどうしようもないって諦めてもらうのが一番いいんじゃないかな。
明日はちょっと濃いめの化粧をして突っ張ってみよう。意地でもあたしからは謝らない。
一花はそう決めた。
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