第12話 彼女は一周回って馬鹿なのかもしれない

歯ぎしりしながら、まだ少し顔の赤い三角を睨んでいると、菜月が戻ってきた。

泣きっ面に蜂だ。

三角が何事もなかったかのように言う。


「出来の悪い弟を持つと、苦労しますね。心中お察しします」

「いやいや、そんなことないよ~。『手のかかる子ほど可愛い』って言うでしょ?」


 いや、まずは『出来の悪い弟』っていう部分を否定しろよ。実の姉だろ。


「……可愛い? これが?」

「やかましいわ」


三角の暴言に、反論せずにはいられなかった。

その間、姉貴は僕の問題集を勝手に開き、中を見ている。

もう強く止める気力もない。


「これ、答え、丸写しした?」

「してねぇよ。舐めんな」


 即答に、頬を膨らませる姉貴。


「好きな子の前だからって、威圧的な言い方しないでよ。そういうの、却ってダサいよ?」

「普段からこういう喋り方だよ」

「【好きな子の前】って言う部分は否定しないんだね」

「……その二重トラップみたいな言い回し、止めろ。マジで」

「まだ否定しない! ってことは、本当に好きなんだ!」

「黙れカス」


 はやし立てられることに耐えかねたのか、まだ少し頬の赤い三角が、会話に割って入った。


「彼は生まれつきダサいです」


 それ、どうしても言わなきゃダメだった?

 ていうか、僕はダサくねぇよ。多分。

 疑心暗鬼におちいった僕に、姉貴が聞く。


「数学、得意になってきた?」


 うわぁ……。答えたくねぇ……。


「……最近、三角に教えて貰ってるから」


 途端、喜色満面で声を張る姉貴。


「なるほどー! 愛の力だね!」

「黙れ」


 吐き捨てた言葉を完全無視して、姉貴は携帯電話をいじる。


「おっ! 友達来たから、そろそろ行くね! じゃーねー!」


 突発的に現れ、各地で猛威を振るい、甚大な被害をもたらし、最後は跡形もなく消える。

 相変わらず、台風みたいな奴だ。

 姉貴の姿が見えなくなると同時、僕は三角に謝罪した。


「すまん。生まれつき、鬱陶しい奴なんだ」


 まだ少し頬の赤い三角は、平坦に返す。

 ……顔、ずっと赤いな。


「大丈夫よ。貴方ほどではないから」

「あいつより鬱陶しいと思われるのは心外だ」

「貴方より鬱陶しい人間は、もはや人外よ」

「……それ、姉貴の悪口じゃね?」

「……前言撤回するわ」


 だったら、ついでに、これまで僕に浴びせかけてきた罵詈雑言も撤回してくれ。

 ……駄目ですか。そうですか。

 不貞腐ふてくされていると、誰にともなく三角が呟いた。


「……最後まで、否定しなかったわね」

「否定? 何を?」

「何でもないわ」


 そう返した彼女の頬は、まだ少し赤い。



 その日は、閉館時間の一七時まで勉強に励んだ。

 疲れているせいか、こめかみがかすかに痛い。

 隣を歩く三角は、本を読みながら階段を下りていく。


「危ないぞ。ちゃんと前を見て歩け」

「あと5ページよ。すぐ読み終わるわ」

「それ、事故死フラグだぞ」

「フラグなんて、くだらない迷信よ。信じている人間は馬鹿よ」


その発言こそが、事故死フラグそのものなんだよ。

フラグ回収は、割と早い段階で訪れた。

三角が、足を踏み外したのだ。

すかさず手を伸ばして、安全バーの代わりを務めようとする。

素早い判断は徒労とろうに終わった。

彼女自身は転倒せず、どうにか階段の上に踏み止まったのだ。

空中に投げ出されたのは、彼女が熱中していた単行本の方だった。

直後。三角は僕の手をくぐり、階段からジャンプ。

地面に落ちようとする単行本を、右手でつかんだ。

そして、見事に踊り場へ着地。

 実質、二メートルほどの高さから飛び降りたようなものだ。

 とりあえず、声をかける。


「……ナイスキャッチ」

「……」

 

返事が無い。ただの屍じゃないのに。

もう一度、名前を呼ぶ。


「三角?」


彼女は鬱陶しそうに振り返り、半眼を向けてきた。

「……何?」

「いや、早く立てよ。帰らないのか?」


 問いに、三角は答えない。ただ黙り込み、唇を尖らせるだけ。

 数秒後。僕は、ある可能性に思い至った。


「……ひょっとして、足、ひねった?」

「……」


何か言えよ。言わなくても分かるけどさ。

嘆息たんそくして、彼女の横でしゃがみ込む。

三角は低い声で聞いてきた。


「『その脆い足で、蹴れるものなら蹴ってみろ』と挑発しているの?」

「ちげぇよ」


こいつ、実は馬鹿なのか? 

呆れ交じりに正解発表。


「乗れ。負ぶってく」


返答は迅速じんそくかつ饒舌じょうぜつだった。


「嫌。貴方の背に乗るくらいなら、無理やり歩いて足を潰した方がマシ」

「背に乗る方がマシだろ。絶対に」


 正論に、三角が間を置いてから返す。


「分かった、譲歩するわ。貴方は四つん這いで移動しなさい。背中の上に、私が立つから」

「それのどこが譲歩なんだよ」


ていうか、それは『屋外での卑猥な行為』に含まれないのかよ。

しびれを切らし、僕は懇願こんがんした。


「頼むから、早くしてくれ。この体勢で待ち続けるの、普通に恥ずかしい」

「……あせらせて、相手の判断能力を狂わせる。詐欺さぎ常套手段じょうとうしゅだんね」


 ブツブツ不満を言いながら、僕の背に体重をかける三角。

 僕は彼女の両脚を、腕で抱え込む。


「ふ、太ももを触らないで。絞め落とすわよ」

「無茶言うな」

「持ち方が卑猥よ」

「痛い痛い痛い痛い。絞めるなって」


 顎を引き、絡みついた腕から気道を守る。


「緊急事態なんだから、少しくらい我慢しろ」


 咳き込みながらの注意を受けて、ようやく三角は抵抗を諦めた。

 三角のエナメルバッグは、肩にかけて運ぶことにした。

 反対側の肩にはサブバッグもかけているため、傍目には奇妙な奴に映るだろう。

 でも仕方ない。他に方法は無いのだから。

 背中に顔をうずめたのが、感触で何となく分かる。

 布越しの吐息は、妙になまめかしい。

 人知れず動揺していると、三角のくぐもった声が聞こえてきた。


「馬鹿の匂いがするわ」

「そんな匂いはねぇ」

「制汗剤を付けすぎだと言っているのよ。過度に強い香りは、却って下品な印象を与えるわ。気を付けなさい」

「……最初から、そうやって言えよ」

「端的な方が、分かりやすいと思ったのよ」

「端的は、悪口の類義語じゃないぞ」

「知っているわ。馬鹿にしないで」

「僕を馬鹿にしてるのはお前だろ」


 反駁はんばくしながら、三角を背負い直す。文句は言われなかった。

 代わりに、彼女は聞き覚えのある台詞を口にした。


「私、『ありがとう』を乱発する人間は信用しないことにしているの」

「ストップ。言いたいことは分かった」


 あの口上こうじょう、事あるごとに聞くのダルい。


「僕に対しては、好きなだけ『ありがとう』って言え。お前と違って、どんだけ言われても、軽蔑したりしないから」

「軽蔑はしていないわ。能力がいちじるしく低いと判断し、見下し、一定以上の距離を取るだけよ」


 それが世に言う軽蔑だろ。

 嘆息する僕に、三角は謝辞を述べた。



「お、負ぶってくれて、ありがとう」



ぶっきらぼうな口調だった。言い慣れていないことが丸分かりだ。


「……こっちこそ、いつもありがとう」

「急にどうしたの? 気持ち悪いわよ?」

「珍しく素直に感謝してるんだから、素直に聞け」

「素直に聞いてほしければ、常日頃から私への感謝を口にしなさい」


 割と言ってないか? お前と違って。

 ……言ってないな。

 普段の素行そこうを反省していると、三角が言った。


「学力が向上した最大の理由は、貴方あなたが努力したからよ。私は少し手助けしただけ。だから、変に気をつかわないで。過度に感謝されると、却ってわずらわしいから」

「少しの手助けが、大きなプラスの影響を及ぼすことは少なくない。これは、その好例だと思うぞ」


少し間が空いて、三角は答える。


「こういう上辺うわべだけの謙遜合戦けんそんがっせん、嫌いよ」

「……分かったよ。もう言わない」


 会話は途切れた。車の走行音や街路樹がいろじゅの葉鳴りが、大きくなったような気がした。

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