第9話 彼女はショートカットしようとしたことを悔やむ



 妹のせいで、100万円分の奉仕を課された僕の青春は暗黒に――染まらなかった。



 やっていることは、以前と変わっていない。

 三角は変わらず、僕に勉強を教えてくれている。

 不思議だ。どうして、逃げずに付き合ってくれているのだろう。

 ……嫌われてはいないと、思ってもいいのだろうか。

 週末の午前九時。

 改装工事の終わった図書館。

 その入り口前に、三角は腕組みして立っていた。

 服装は、ベージュのパーカーと迷彩のショートパンツというラフな格好。

 足には黒のスニーカーを履いている。

 ラフな恰好をした時にこそ、当人のセンスが存分に発揮されるかもしれない。

 三角の着こなしを見て、何となく思った。

 彼女が僕の到着に気付いた。機械的に敬語で挨拶。


「オハヨウゴザイマス」

「二分の遅刻よ」

「許容範囲だろ」

「それは、待たされた私が決めることよ」


 ……正論だ。

 ふと思う。三角が周囲に【性格が悪い】と評される理由は、正しいことを、ストレートに言うからかもしれない。

 正しい人間が、正しいことを言うと、多くの人間は反発する。

 ほとんどの人間は正しくないからな。

 だから、横を歩く彼女に、尋ねたくなったのかもしれない。


「お前って、僕のこと、嫌いか?」

「貴方に限らず、『そんなことないよ』と言ってもらえる前提で質問してくるヤツは全員嫌いよ」


 前言撤回。普通に性格が悪いだけかも。

 今の皮肉めいた台詞、絶対に言う必要なかったし。

 改めて回答を求める。


「正直に答えてくれて良い。今更、お前に何を言われてもヘコまないから」

「なるほど。じゃあ、本気で行かせてもらうわよ」

「……ゴメン、やっぱ手加減して」


 あまりに大量の罵詈雑言を浴びせかけられると、二度と立ち直れなくなっちゃうかもしれないから。

 僕の頼みには返事せず、三角が答えた。


「不快ではないわ」

「つまり、愉快なのか?」

「揚げ足を取るような質問のせいで、たった今、不快になったわ」


 もう黙っておこう。喋れば喋るほど、評価が下がりそうだ。



「そろそろ潮時ね」


三角の呟きが聞こえた。

ノートから顔を上げて、壁掛け時計を見やる。

もう16時半か。

17時閉館だから、じきにスピーカーから【蛍の光】が流れ出すだろう。

三角の方を見やる。今日は、かなり分厚い長編ファンタジーを読破したようだ。


「……お前、勉強しなくて良いのか? 僕と一緒にいる間、本ばっかり読んでるけど」

「する必要が無いのよ。教科書の内容は、ほとんど頭に入っているから」


 事もなげに言う三角。

 自慢っぽくない所が、かえってしゃくに障る。

 流石は、県下トップの偏差値の誇る我が校の主席だ。

 これを才能と呼ばずして、何と呼ぶ?

 ……まぁ、かくいう僕も、勉強の才能は、比較的ある方なんだろうけど。

 日々の憂いなく、勉強できる環境も整っている。恵まれている方だ。

 だからといって、僕が学業で失敗した際に、『自業自得だ』などと切り捨てるのは良くない。絶対にダメだ。

 日々、自己肯定感を下げるような指導を続けた三角にも、責任が無いとは言い難い。

 もし仮に浪人したら、この論法で、また三角に勉強を教えてもらおう。

 脳内で懸命に責任転嫁しながら、三角と並んで図書館を出た。

 時おり、二言三言の会話を繰り返しつつ歩いていると、彼女が急に、いつもの帰宅ルートを外れた。

 そのまま、ビルとビルの隙間にある、道幅二メートル以下の裏路地へ入っていく。

 反射で尋ねた。


「お、おい。どこ行くんだ?」

「ここを通ると、ショートカット出来るのよ。昨日、発見したルートよ」


 得意げに言って、小路こみちをスルスルと進む三角。猫みたいだ。

 慌てて後を追う。

 どうして、こんな場所を、あんな風に堂々と歩けるんだ。

 今にも、そこの非常口から、全身にタトゥーを彫った筋骨隆々の外国人が飛び出してきそうだ。怖い……。

 堪えきれず、三角の背に声を掛けた。


「こういう場所、あんまり一人で歩くなよ。危ないから」

「貴方に言われる筋合いは無いわ」

「そうかもしれないけど、……心配だから」


 それこそ、僕に言われる筋合いは無いか。

 さぞキツい𠮟責が返ってくると覚悟した。

 が、実際の返答は、全くおもむきの異なるものだった。



「はいはい。分かったわよ。今後、夜間に一人でこういう道を歩かないようにするわ」



気だるげな返答。僕は衝撃を受けた。思わず足を止めてしまう。

足音が聞こえなくなったことに気付いたのか、三角が振り返り、薄目を向けてきた。


「何? まだ言い足りないの?」

「いや、まさか、そんなあっさり聞き入れるとは思わなかったから」


 こっちの発言にこそ、三角は気分を害した様子だった。


「馬鹿にしないで。それくらいの柔軟性は有しているわ」


 それが、めちゃくちゃ意外なんだよ。

 頬を膨らませた三角が、歩調を速めて右折。僕も追従する。

 直後、彼女が足を止めた。そのせいで、背中にぶつかりかけた。


「おい、急に止まるなよ。危ないだろ」 


 すぐそばで文句を言っているのに、返事が無い。

 三角はただ目を見開き、口を戦慄わななかせていた。

 不審に思い、視線の先へ、僕も目を向ける。

 

――ビルの壁際で、カップルと思わしき男女が、キスしていた。


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