第2話 彼女はお年寄りに優しいけど優しくない

 4月7日。

 僕、阪柳丈一郎は進級し、高校二年生となった。

 といっても、生活に大きな変化はない。

 相変わらず、一緒に遊ぶような友達はゼロ。

 今年度も、学校と自宅を往復する日々が続くのだろう。


 始業式終了後。

 新クラス最初のHRがそれなりに盛り上がったせいか『皆で昼食でも食べに行こう』という雰囲気が漂う教室を、僕は無言で飛び出した。

 毛ほども興味が無いから、と言えば嘘になる。

 一方で、行きたくて仕方ないと言えば、これもまた嘘になってしまう。


 正直、どっちでもいい。どうでもいい。


 そんな心持ちで参加すれば、きっと、無駄金を払った末、他者に迷惑をかけることになるだろう。

 だったら、家で読書したり、アニメを観たりしている方が楽しい。

 中学の頃は、もう少し積極的に、他人と関わろうと努力していた。

 これまで、対人コミュニケーションにおいて、致命的な地雷を踏んだことはない。と思う。

 その反面、大きな喜びを感じたこともない。

 むしろ、ああいう空間にいると、形容しがたい虚しさばかりが募るのだ。

 嘆息して、窓ガラスに映った自身を確認。


 ……なんと無個性で、面白みのない容姿だろう。


 一年生の頃のクラスメイトに『阪柳丈一郎の印象は?』と問えば、大多数の生徒は『良い奴』と評するだろう。

そんな僕だからこそ、断言できる。


『良い奴』とか『優しい奴』なんていう人物評は、信用に値しない。


 当人の特徴も、自身との交友も無いから、雑に褒めているだけだ。

 むしろ、そういう印象が根付くと、勝手に『都合の良い奴』と勘違いされて、損することも少なくない。

 『掃除当番を代わってくれ』と頼まれた際、『バイトがあるから』と断っただけで、悪評が立ったからな。ギャップ効果が裏目に出た形だ。

 何となく髪をかき上げ、オールバック風に整えながら、玄関で靴を履き替えて外へ。

こんな時間に学校を出る生徒は、僕以外に一人もいないだろう。

と、思っていたが、予想は外れた。

僕と全く同じタイミングで、一人の少女が靴箱の死角から現れたのだ。


三角凛。今回のクラス替えで、同じクラスになった女生徒。


そんな三角と完全に、視線が交錯した。

生まれて初めて、人間の瞳を見て、綺麗だと思った。

一方、彼女は当然のごとく僕を無視して、校門を通過し、地平線の彼方へと消えてしまった。

さらさらと風になびく黒の長髪が、たなびく羽衣を彷彿とさせた。

一年生の時は他クラスだったが、噂は聞いたことがある。


――とにかく、性格が悪いらしい。


 僕に負けず劣らずの、漠然とした人物評だ。

 僕と異なるのは、根拠の有無。

 性格が悪いという総評には、確たる理由がある。


 ちょうど一年ほど前。

 ある女生徒が、自信満々に言ってのけた意見を、三角に全否定され、号泣してしまった。

 しかも、一回ではない。

 何人もの生徒が、彼女を叩き潰そうと挑み、あえなく返り討ちに遭った。

 更に言うと、別の女生徒からの『他人を論破して楽しい?』という皮肉にも『自分は論破などしていない。相手が途中で議論を放棄しただけよ』と返したことで口論へ発展し、その末に相手を論破してしまったことすらあったそうだ。


 ゆえに、彼女は一人。


 孤高の性悪である。

 そんな彼女と、この日、初めて会話を交わすことになるとは思わなかった。



 午後五時頃。

 喫茶店で文庫本を丸々一冊読破した僕は、心地よい疲労感に微睡みながら、バスに乗り込んだ。

 時間帯のせいか、やや混雑した車内。


 その中に三角を見つけた。一人用の座席に腰かけ、読書していた。


 少し驚いた。こんな時間まで、どこで何をしていたのだろう。

 ……向こうの台詞か。

 ぴんと背筋を伸ばした彼女は、手元の単行本に視線を落としている。

 何年か前に、大きな文学賞を受賞した作品だ。

 表紙に貼られたラベルを見て察した。

 なるほど。駅前の図書館に行っていたのか。

 駅の方へ目線を向けていると、バスが静かに走り出した。

 と同時、右半身に軽い衝撃。

 反射で右を見やれば、僕と同じタイミングで乗車したお婆さんが、肩で息をしている。

 お婆さんは顔を上げて、申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさいね」

「いえ、全然大丈夫っす」


 僕がそう答えたところで、彼女の疲労は癒えない。

 せめてかばんだけでも持とうか。いや、貴重品が入っているかもしれない。迷っていると、


「この席、座ってください。私、もうすぐ降りるので」


 三角は躊躇ためらいなく立ち上がり、よく通る声で言った。

 三人称を使っていないのに、不思議と、お婆さんに向けて言ったのだと理解できた。

 ゆっくりと三角の方まで移動したお婆さんは、彼女へ柔和な笑みを浮かべる。

「あぁ、ありがとね」

 直後の返答に、僕はかなり驚かされた。



「感謝する必要はありません。転倒して、怪我されたら面倒だと思っただけなので」



「……そ、そう」

 お婆さんは何ともいえない面持ちで、座席に腰を下ろした。

 そんなお婆さんを一瞥もせず、付近のつり革を掴む三角。

 ……いや、普通に譲ればいいだろ。何でそんな言い方するんだよ。

 周囲の乗客も僕と同意見なのか、三角に白い目を向けている。

 しかし、彼女はまったく気にしていない。

 気だるげに窓の外を眺めている。図太い女だ。

 三角の三角たる所以を目の当たりにした僕は、感心半分呆れ半分といった心境。

 バスが自宅に近づいてきた。降車ボタンを押す。

 ……三角も同じバス停で降りるみたいだ。

 バスが静かに停車した。

 ブザー音と同時、前方にある降車用の自動ドアが開く。

 それなりの人数が、ここで降りる模様。

 定期を手に持って、降車しようとする乗客の列に並ぶ。

 ……進まない。

 不満を抱き、前方に視線を向ければ、三角が渋面じゅうめんで鞄の中を漁っていた。

 何かを探しているっぽい。

 ……ひょっとして、定期を忘れたのか?

 僕の洞察力が優れている訳ではない。

 よほど察しの悪い奴でない限り気付くはずだ。

 だが、誰も動こうとしない。

 先ほどのお婆さんみたく、邪険にされるではないかと思い、躊躇しているのだ。


 ……そう考えると、ある種の自業自得なのかもしれない。


 愛想よく振舞うこともまた、周囲に対する優しさだから。

 常日頃、敵を作りかねないような言動ばかり繰り返してきたことが、現在の状況を作ったのだと言えなくもない。

 三角は、困った時、周囲の人間に助けてもらう努力を怠ってきたのだから。


 ……本当に?


やり方に問題はあったかもしれないが、彼女が誰よりも先んじて、お婆さんに席を譲ったことは事実だ。

じゃあ、報われて然るべきじゃないのか?

 そんな具合の、気まぐれだった。

 特別な理由は、何も無かった。

 僕は列を離れ、三角に接近。

 財布から千円札を取り出し、それを彼女の横合いから差し出した


「ん」


いきなり視界に千円札が現れて驚いたのか、三角は両肩を少しだけ跳ねさせた。

呆けた様子の彼女に、改めて千円札を押し付ける。


「使え」

「……どうも」


彼女は小さく僕にお辞儀して、千円札を両替し、運賃を支払った。

そして、余った小銭を握りしめ、僕に言う。


「えっと、これ、お釣り」

「とりあえず降りろ。邪魔になってるから」


三角は慌ててバスを降りる。

彼女以外の乗客は、支払いをスムーズに済ませた。僕は最後に降車した。

バス停のそばには、三角が所在なげに立っている。

おずおずと近づいてきた彼女は、改めて小銭を僕に返そうとする。


「これ」

「無一文で歩いてると、いざって時に困るぞ。さっきみたいに」

「……」


一理あると思ったのか、逡巡の後、彼女は小銭をポケットに仕舞った。

 そして、小さく咳払いする。


「私、【ありがとう】を乱発する人間は、信用しないことにしているの」


……いきなり何の話だ? 視線で説明を促す。


「【ありがとう】を乱発しているということは、周囲の人間に助けられてばかりいるということでしょう? だから、一緒にいると迷惑を被る可能性が高い」

「……まぁ、一理あるかもな」

「そういう訳で、私は意識的に、そういう人間から距離を取るようにしているの」


 乱発している側も、多分お前には近づかねぇよ。

 ……で、結局こいつは何が言いたいんだ。

 僕の胸中を察したのか、三角が話をまとめた。


「要するに【この女生徒は、そういう人間ではない】と踏まえた上で、今から言う台詞を聞いてほしいの」

「はいはい、分かった。で、何だよ」


 問うと、彼女は頬を染めて、小声で呟く。


「……あ、ありがとう」

「……どういたしま」


 僕の返答を聞かず、三角が逃げるように立ち去った。

 あんな前置きが無いと、感謝の言葉も言えないのか。

 なんて面倒くさい女だ。

 ていうか、あいつの家、どの辺なんだろう。

 僕が通ってた中学校とは別校区のはずだが。

 悔しいが、家に帰ってからしばらくは、三角のことばかり考えてしまった。


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