ディートハリス・アンドレイア――青き血の義務―― その2
それは室内を覗いていた猿型魔族。
その首に走った線だった。
一瞬の後、頭部が横にズレ、
「――――あ」
瘴気が一斉に霧散する。
その霧の中から、飛び込んでくる影が三つ。
軽やかに観客席の中央に着地した。
大柄な獣人族の従者と小柄な獣人族の侍女。
二人を従えるように軍靴を鳴らす男。
帝国の軍服姿。
手には戦杖を持ち、逆の手でオールバックの髪をかき上げる。
おおっ、と男たちの誰かが声を上げた。
「アンドレイア殿……!」
「如何にも、ディートハリス・アンドレイアだ。俺を覚えているとは結構、王国貴族諸君。判断は遅かったが記憶力は悪くないようだな。だが歌劇愛好家として最低限のことはできているだけ悪くない」
気障に笑う伊達男。
彼のことを、少女も知っている。
半年ほど前、少しの期間だが劇場に通っていた帝国の大貴族だ。
もう一度、おおっと声が上がった。
「この棘がある物言い……!」
「まさしくアンドレイア殿!」
「判断は間違えたけど、役者たちを守っていて偉い! ということですな!」
「ふっ……あまりそう解説するものではないよ同士諸君!」
腕を広げて笑うディートハリスは、残っていた客たちとは旧知らしい。
そういえば半年前にこの歌劇について彼らと語り合っていた姿を見た気もする。
「それに」
彼は目を細め、歌劇場内を見回す。
「ここで防衛ということ自体は悪くないが、しかしやはり遅かったというべきだな。収容人数はそこそこあるが、如何せん防衛準備が間に合わなかった。天井も壊れた以上、早急に脱出するべきだ」
「しかしアンドレイア殿、この人数で移動するには危険では?」
「ふっ……何のための俺が来たと思っている!?」
「おぉ……!」
彼らだけで盛り上がっているが微妙についていけなかった。
そもそも彼らは貴族であり、大半の劇団員には遠い存在だ。
その上ディートハリスは他の国の大貴族の次期当主。
別の世界と言っていい。
ただ、
「……私たち、助かるの?」
その理解だけが、少女から零れ落ち、
「ん――如何にも、若き歌姫よ」
「ひゃ、ひゃい!」
ディートハリスは少女の小さな呟きに答えた。
彼は軽い動きで壇上へと上がり、彼女の前に膝をついた。
「遅れてすまなかったな、恐ろしい思いをしただろう。だが、もう大丈夫だ」
「あ、えと、その……そんな、お立ちくださいお貴族様! そんなことをなされるなんて……!」
「何を言うか……ふむ? いかんな、怪我をしている。―――どれ」
言うや否や。
ディートハリスは自ら着ていた軍服の裾の一部を引きちぎり、少女の脚の傷に巻き付けた。
「ぃひぃ……!?」
引きつった声が漏れる。
周りにいた同僚も似たような反応だった。
ディートハリスのような大貴族の服なんて、今の自分が一生働いて稼げるかどうかというレベルだと聞く。
王国はそこまでではないが、帝国貴族はとにかく金を使いたがるらしい。
「お、お貴族様がどうしてこんな……!」
「ふっ……これが貴族の義務だからだとも」
少女には分からないことを言って。
それこそ彼は舞台のワンシーンのような笑みを浮かべた。
舞台俳優になって主役を勝ち取れそうな甘い笑みに、思わず少女の胸は高鳴り、
「若様! なにをしていらしているのですか!」
「止めるなアデーレ。これまた貴族としてせねばならぬ――」
「なぁーにがせねばならぬですか! ここ来るまでどんだけ魔族倒して瓦礫退かして救助して来たかお忘れですか! そんな衛生的に問題しかない布を傷口に当てるんじゃないですよ! 痛み傷になって腐ってしまいますよ! はい、どいて! 舞台から降りてください! 熱消毒だけしますから! 他の人も、さっきの崩落で怪我をしていたら教えてください、応急処置を行います! ローマン、手伝って!」
「ウス、姉さん」
「若様はあっちの方々と脱出についての相談を!」
「…………………………すまぬぅ」
「い、いえ……その、お気遣いありがとう、ございます?」
アデーレという侍女に貴族であるディートハリスは怒られてシュンとしていた。
「すみません、うちの若はこういう人でえぇ。やはり未来永劫私が侍女兼愛人として世話を焼かないとダメですね」
何やら凄いことを言いながらアデーレは懐から取り出した紙を少女の傷に巻かれた布に貼る。
本に挟むような栞のそれは、
「っ……」
「少し我慢を、熱で穢れを払う魔法符です」
あらかじめ魔法が刻み込まれた魔法具の一つだ。
高価なもので、庶民が触れることはほとんどないが当然の様に使っているあたり財力の違いを感じる。
「これで一先ずは。止血と消毒だけですので、詰所かどこかに行ったら処置をされると良いでしょう」
「は、はい! ありがとうございます!」
「いえ、当然のことですから」
軽い一礼をしてアデーレはすぐに別の怪我人の元に駆けよっていく。
弟らしいローマンという大男も同じように符を使って手当を行っていた。
「……なんか、思ってたのと違うな」
王国の貴族というのはほとんど役人のようなものだ。
なので無暗矢鱈に偉そうということはないし、そういう横柄な貴族を取り締まるのも衛兵の仕事の一つでもある。
だが帝国貴族は昔ながら身分の差が激しいと聞く。
アンドレイアといえば少女のようなまともな学がない身でも知っているような大貴族。
なのに、彼は平民である自分を気遣い、侍女に怒られ、そして今王国の貴族と脱出の段取りを話し合っていた。
その事実に、少し笑みが零れそうになって。
失礼かなと背後を向いて。
「―――――え?」
異変を見た。
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