第29話 くるか・いるか

 車内は気まずい沈黙に包まれていた。折角の高級車なのに、乗り心地が悪い。


 蒔奈は隣で眠っている。


 実際に経過した時間よりも長い時間を車内で過ごし、ようやく車は水族館の駐車場に停車した。夏休み真っただ中ということもあって、車の数も人の数も多い。


「いってらっしゃいませ」


 いつも通り送り出してくれる執事のマッチョに、筋違いだと思っていてもガッカリする。止めてくれなんて期待は、叶えられるはずもないのに。


 声をかけることもできず、俺は静かに歩き出した。蒔奈も無言で俺の後をついてくる。


 淡々と、蒔奈の前を歩く時間が続いていた。


 お互いに話すことはなく、どこかで立ち止まることもない。


 順路に従って、トボトボと歩いているだけだ。何も面白くない。


 周りからはどう見えているだろうか。少なくとも兄妹には見えないだろう。妹を放って自分勝手に歩く兄がどこにいるというのか。いたとしてもそんな兄ならば、そもそも妹と二人で水族館には来ない。


 普段運動しないせいか、歩いただけでも疲れてしまった。座れる場所を探すが、近くには見当たらない。


 案内図を見つけたが、それらしきところも無かった。設置はしてあるのかもしれないが、少なくともマップに記載はない。


 ここから一番近い座れそうな場所といえば、イルカショーの会場くらいだった。


 人の多い場所に行くのは気が乗らなかったが、幸いにも次のショーまではまだ少し時間がある。蒔奈の様子も確認せずに、俺は会場へ向かって歩き出した。


 急に方向転換したにも関わらず、蒔奈は黙って俺の後についてくる。


 それがまた俺の心を傷つけた。




 イルカショーの会場は、想像通り閑散としていた。


 プールを囲むようにして野球場のように席が配置してあり、まばらに人が座っている。今の内から席をとっているのだろうか。それとも俺のように当てもない居場所を求めた人が集まっているのか。


 目の前の大きなプールでは、ショーに向けてトレーナーがイルカに餌を与えている。


 どうせ誰もいないのならと、最前列の席に腰掛ける。蒔奈もすぐ隣に座ったが、腰を浮かせて俺から少し遠ざかった。


 ――何やってんだろうな。


 自分が情けなくて仕方ない。


 すぐ隣にいる少女に、ただ一言謝れば先に進めると分かっているのにそれができない。


 やっぱり、俺なんかが人にものを教えてはいけなかった。頼まれたときに、例え何を失ってでも断っておくべきだった。それが一番、この子の為になることだったのに。


 なのに、俺は浮かれてしまった。初めて人に必要とされ、優越感に浸り、自尊心を満たしたいという欲望のままに依頼を受けた。


 蒔奈の為じゃない。俺は、俺の為に依頼を受けていたのだ。


 ぼうっと揺れる水面を眺めていると、時間の流れを感じなくなっていく。


 するといきなり右肩に、とん、と重いぬくもりを感じた。


 いつの間にか眠ってしまった蒔奈が、俺に頭を乗せてきたのだ。


 どれだけ考えていたのか、周りには人が溢れていた。もうほとんど席が埋まっている。


「……ようやく見つけました」


 聞き覚えのある声がして隣を見ると、香焼家のロリコンロリ忍者――来架が立っていた。


「全く、いつまで経っても現れないから探しました。順路通り歩くことすらできないんですか」


「男とは話さないんじゃなかったのか」


「私は蒔奈様と話しているんです、今は寝ておられますが」


 来架は蒔奈の隣に腰を下ろすと、愛おしそうに蒔奈の髪を撫でた。こうしていれば、普通の姉妹のように見える。


「……ここからは独り言です。交渉相手のいない交渉です」


 プールではイルカが綺麗に並び、ショーが始まろうとしていた。


 わざとらしく視線をイルカの方に移し、来架は話を続ける。


「単刀直入に言います。大会を棄権してください」


「……え?」


「誠様と深湖子様にとって、GoMは単なる遊びじゃないんです」


「どういう……」


 ピーッと笛が響きわたり、イルカたちが一斉に舞い始める。


「誠様と深湖子様に、血の繋がりはありません。お二人は義理の姉妹なのです。今よりもっと幼い頃、急に姉妹ができると言われたお二人はかなり困惑されました。決して嫌っているわけではないのに、お互いの距離感がつかめずちぐはぐな日々。そんなときにお二人が出会ったのが、GoMでとあるプレイヤーが戦う動画でした」


 ワーッと言う歓声があがる。イルカがまた芸を成功させたのだろうが、その光景を視界にとらえていても、頭には入ってこなかった。


「短刀を手に素早く敵を切り刻んでいくその姿はとても鮮やかで、幼い二人の瞳に熱を灯しました。それからです。お二人がGoMにのめり込み、あのゲームの中でよく笑うようになったのは」


「…………」


「まあ、ほとんど伝聞ですが」


「そんなやり方で俺たちが負けて、あいつらが納得するのか?」


「主人の為を思って行動するのが私の役目ですので。それに、それは私よりもあなたたちの方が分かっているのでは?」


 再びピーッと笛が響き渡り、観客の拍手が響き渡る。


「勿論、納得していただけるとは思っていません。ですので、条件を付けます」


「条件?」


「私と一対一で戦ってください」


「戦えって……喧嘩しろってことか?」


「あなたの脳みそはコバエに食い散らかされているのですか? 私はそれでも構いませんがもちろんGoMで、です。どのみち私ごときに負けるようでは、この先勝ち抜くことはできないでしょう?」


 来架の言うことは最もだ。来架がGoMをプレイしていたのは初耳だが、名も知らぬプレイヤーに負けていては、黄昏の鏡姫トワイライト・ミラージュに勝つことなんてできやしないだろう。


 でも。


「賭けにならない。知ってるだろ、俺は元々ソロプレイヤーだ。一対一のセオリーの方が熟知してる」


「なりますよ。今のあなた相手なら、赤子だって足で操作して勝てます」


 挑発してくるのは性格か、戦略か。それとも自信の表れなのか。


 いまいち来架の目的が見えないし、この賭けにのるメリットもない。


 ――いや、そうでもないか。


「……いいだろう、ただし条件がある。戦うのは俺じゃなく、俺達だ」


「二対一にしろと?」


「そうじゃない。キャラは俺が操作するが、俺は蒔奈の指示通りに動く。問題は?」


「ありませんが……」


 一瞬、来架は思案するように眉を顰めた。


「まあいいでしょう。では地図とカードをお渡しするので後程。裏口を通ることになりますがこのカードを首から下げておけば問題ありません。来るのは蒔奈様が起きられてからで構いませんが、時間がないことは理解しておいてください」


「ああ」


 観客席が一気に騒がしくなる。


 プールの方に目をやると、イルカたちが大ジャンプを決めたようで、客はみなその光景に騒ぎ立てているようだった。


 それに気を取られた一瞬の間に、来架の姿は見えなくなっていた。


 そろそろ蒔奈を起こそうとしたとき、勢いよく水飛沫が飛んできた。


 イルカが思い切り、尾びれでプールの水を飛ばしてきたのだ。熱い夏、イベントのファンサービスなのだろう。


 最前列に座っていたせいで、靴までびしょびしょだ。蒔奈も頭から水を被っていた。


 ――起こそうとはしてがいたがこれは……。


 そう思っていると、蒔奈が顔を拭いながらゆっくりと体を起こした。水しぶきを浴びたにしては大人しい。


「もしかして、起きてたのか?」


「……うん」


 この様子だと、だいぶ前から聞いていたらしい。


 ただ、今はそれどころではない。服が濡れたせいでキャミソール型の下着が透けてしまっている。


 反射的に、俺はTシャツの上に着ていた半袖のシャツを脱いで蒔奈の肩に掛けた。


 蒔奈は驚いていたがかけられた服の端をぎゅっと掴んで、自分の身に引き寄せ……そして、イルカを見て微笑んだ。

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