File2 日記

 処刑台のある広場は、目立ちすぎるということで。俺たちは広場から少し離れたところにある、路地の中へと踏み込んだ。

 街中お祭り騒ぎとはいえ、さすがこの国の首都だけあり、路地裏一つとってもきっちりとタイルが敷かれて、壁には小型の街灯が設置されていた。とはいえ表通りに比べれば薄暗く、また静かでもある。

 少し汚れの目立つ漆喰の壁の前で、エマニュエルは立ち止まると、俺の方に向き直った。路地の薄闇の中では、彼の蜂蜜色の髪が輝いて見えるようだ。

「リインは。リイン・インソードは、僕の憧れでした。悪魔祓いとしても、女性としても」

 真剣な表情から、彼が至って真面目なのは分かるが。現在の状況と、リインの自称兄貴分としては、少々複雑な気分である。

「身分の差こそあれど、リインはとても魅力的な女性で。いつか彼女に追いつき、隣に立つことが出来た時には、胸に秘めた思いを伝えようと、ずっと思っていました」

 彼の言葉に嘘が無いのは、込められた感情が証明していた。少し震えた声で、エマニュエルは言葉を続ける。

「ですがある日……ある日、リインは僕の前から姿を消しました。戦地の支援に行った、少し後のことです」

「……」

「リインが僕の前から消えた直後、戦場に『蒼の聖女』が現れました。ところどころ違っても、彼女はリインにそっくりで。すぐに彼女自身が、何らかの要因により蒼の聖女となったのだと思いました」

 俺と同じだ。国民が蒼の聖女の活躍に湧く一方で、俺とこいつは、蒼の聖女の中にいるリインのことをずっと追い続けてきた。

 いや。俺はリインが蒼の聖女に成り果てたことに絶望し、飲んだくれていたのだ。そんな俺に比べたら、まともに動いていたエマニュエルの方が、ずっとリインのことを想っていたに違いない。

 自称兄貴分が、笑わせてくれる。心の中で自嘲する俺の前で、エマニュエルは悪魔祓いの制服の中に、片手を入れて一冊の本を取り出した。

「リインが蒼の聖女になったと気づいた僕は、彼女の跡を追いました。リインの身に何が起こったのか、それを知りたくて」

「……それで」

「それで。リインの部屋にあった机の、鍵のかかった引き出しの中に、この日記があるのを見つけました」

 差し出された本は、碧色の布表紙をした、厚みがある頑丈そうな一冊だった。表紙には何も書かれていないが、傷み具合からかなり使い込まれているのが分かる。

 リインの、日記。彼女が想いの丈をありのままに綴った、一冊の本。

「ここに、彼女の身に起こったこと、彼女の葛藤、そして決断の全てが書かれています。スカイヴェールさん、あなたのこともこの日記で知りました」

「……」

「リインは、あなたのことを信用していた。彼女との間に、因縁があるのは分かります。ですがスカイヴェールさん、リインのことを救えるのもまた、あなたなんです」

「俺は」

「読んでください、この日記を。そうすれば、全てわかります」

 差し出された日記を、俺は恐る恐る手に取った。重みと布表紙の感触が、はっきりと伝わってくるのを感じつつ、微かに震える指で開く。

 最初のページには、リイン・インソードの名前と生年月日、そして「日記」の文字が書かれていた。綺麗な文字を数秒間眺めてから、俺はページをめくる。

 最初の一文は、殴り書いたような強い筆跡で書かれていた。

『シェーマス・スカイヴェールを殺す、その日まで。私はこの日記を、書き続けるつもりでいる』

 なるほど、この日記は元々リインが、滾らせた憎悪と殺意を、ぶつけるために書き始めたものなのだろう。一ページ目の文字はきっと、後から書いたに違いない。強く乱れた筆跡で綴られた憎悪の言葉からは、余裕がないことがはっきりと伝わってくる。

 数ページの間は、ずっとそんな調子だった。俺への恨み言や罵倒、姉のルインの死を嘆くことばかり。「ルイン姉さん」の文字を見るたびに、痛む心に見て見ぬふりをし、俺はさらにページをめくっていく。今は過去の感傷に浸っている場合じゃない。

 リインは毎日日記を付けていたわけではないようで、書き込まれた日付はまばらだった。悪魔祓いの試験に受かっただとか、儀式に失敗し上司の司祭に怒られただとか、何か特筆すべきことがあった日に、日記を書いていたようだ。

 ページが進むごとに、筆跡は落ち着いていった。憎悪による力強さは変わらないものの、経過した時間が、リインの心にある程度の落ち着きを与えてくれたようだ。

 また一級悪魔祓いに上がった日や、初めて上級悪魔を祓った日の日記は、文章から嬉しさがはっきりと伝わって来ていた。さらに時々、過去の日々を思い返すこともあるようだった。もっともその場合、最後は必ず俺への恨み言で締められていたのだが。

 やがて半分ほど読んだところだろうか。不意に筆跡が変わるページがあった。力強さは消え、代わりに文字少し震えているのが分かる。

『シェーマスと再会した。ずっと憎んで、恨んでいたのに。あの人は、あの時のままで。何も、何も―――殺せなかった、殺せなかった、ずっと殺したいと、思い続けてきたというのに!』

 それからは動揺のせいか、文脈がばらばらな文章が書き連ねられていた。しかし次のページでは、日を跨いだのか文字から震えは消えていた。

『今は目の前の儀式に集中しなければ。代替のフランボワーズは厄介な悪魔だ、気を抜けば大きな被害が出てしまう。シェーマスのことは……ひとまず、様子を見ようと思う。奴のことは把握した、これから山ほど、チャンスはあるはずだ』

 それからリインの筆跡から力強さが消え、代わりに前よりも頻繁に、過去を懐かしむ文章が書かれることが多くなった。

『毎日のように、ルイン姉さんとシェーマスと、三人で過ごした毎日の夢を見る。二度と戻ってこない、あの男がすべて壊したのに。なんで、何でこんなにも、懐かしさを感じてしまうのだろうか。ああ、出来ることならあの日に戻りたい。ルイン姉さんと、シェーマスともう一度……』

 ページをめくる指が、震えていることに俺は気づいた。ここにはリインの心が書き記されているのだ。リイン・インソードという、十八歳の少女の心が。

 だが。俺の誕生日を祝ったあの日のことを、夢に見たと書かれたページを捲った時。驚くほど淡々と、「真実」は書かれていた。

『口外するなと言われたが、もしもの時の為にこの日記に書いておこうと思う。絶対に誰にも見せないようにしまい込み、いざとなったら燃やすつもりだ―――蒼の聖女になれと、ドゥーガル司祭に言われた。蒼の聖女アルバストゥルは、上級悪魔であり。召喚書を見せられ、お前にはアルバストゥルをその身に宿す適性があると、司祭は私に告げた』

 蒼の聖女が、マルガリアの守護神が、上級悪魔。

 公表されたら国を揺るがすであろう事実。心臓の鼓動が早まるのを感じながら、俺は続きの文章に目を走らせる。

『少し時間を下さいと、私は司祭に言った。正直、どうしていいか分からない。誰にも相談できないのが苦しい。今のところその気はないが、司祭はこの前の和平条約の決裂を気にしているようだ。もうすぐ戦争が、始まると』

「……」

 さらに俺は、ページをめくる。しばらくの間、リインが迷っていること、マルガリアとガーエルンの戦争が始まったことなどが、淡々と書き連ねられていたが。

 ある一ページで、俺は手を止めた。そのページに書かれた字はまた震えており、微かに濡れ跡が付いていた。

『戦場に行った。死にゆく人々を見た。私は、私は。アルバストゥルをその身に宿せば、蒼の聖女となれば、みんな救われると司祭は言う。私は、私は』

 そこで一行置いて、ただ一文書かれていた。

『シェーマスに会いたい。会って話がしたい』

 息が出来ない。喉がからからに渇いている。ページをめくりたくない、何が書いてあるのか、嫌でも予想できてしまうのだが。

 助けを求める様に、俺が顔を上げると。日記を読んでいた俺を、何も言わずに見つめているエマニュエルと目が合った。

 エマニュエルは俺のことを、真っ直ぐ見据えると。静かに首を、横に振って見せた。

 開いてしまった以上、読んでしまった以上、リインの心に触れて、彼女の想いを知ってしまった以上。目を背けるな、逃げるなと。

 俺はぎこちなく日記に視線を戻し、最後のページをめくった。

 最後のページには、本当に綺麗な筆跡で、たった一言書かれていた。

『最期に元気そうな顔が見られてよかった。さようなら、私の愛しいシェーマスお兄ちゃん』


 日記を閉じて、俺が動揺から回復するまで、十数分の時間がかかった。

 いつの間にか空は茜色に染まり、路地の薄闇に夜の気配が混じり始めている。エマニュエルは、俺に向かって水の入った瓶を差し出した。先程表通りの売店で、買ってきたものだ。

 俺はビンを受け取る代わりに、日記をエマニュエルに返すと。栓を抜いて冷たい水を、一気に流し込んだ。渇いた喉が潤ったことにより、ようやくまともに喋ることができるようになる。

「リインは……蒼の聖女は、アルバストゥルという上級悪魔」

「ええ。上級悪魔が憑依しているとなれば、無限の魔法を使えるし、少し攻撃された程度で怯むこともない。そして……全てが終わった後は、憑依した人間ごと首を刎ねてしまえば、口封じも簡単だ」

「……処刑はアルバストゥルを還すための、儀式でもあるってことか」

 おそらく召喚者との間に、協定が結ばれているのだろう。明確な意思を持つ上級悪魔が召喚者と契約する際に、己を退散させる儀式の内容を定めることは、稀なことながらないわけではない。

 蒼の聖女は、召喚されるたびに処刑されてきた。恐らくアルバストゥルは、処刑により還ることを条件に、マルガリアを守護してきたのではないだろうか。

 でも、だとしたら。蒼の聖女が、アルバストゥルという上級悪魔だとしたら。

「何とかして処刑される前に祓えば、リインを救うことができる……」

 俺の言葉に、エマニュエルは待ってましたとばかりに頷く。

「その通りです。処刑によって儀式が完了する前に、アルバストゥルを祓うことが出来たならば。リインの命を、救うことができます」

 聖貴教会は口封じをしようとするだろうが、逃げる手段はいくらでもある。なんなら俺と同じように、潜りの悪魔祓いになったっていいだろう。

 何とかして、アルバストゥルを祓えば。心の中で反芻して、俺はふと、エマニュエルの言葉を思い出す。

『リインのことを救えるのもまた、あなたなんです』

 俺がエマニュエルに視線を向けると、彼は俺の内心に気付いたように、やや悔しそうな顔をして目を伏せた。

「……僕は、まだ二級悪魔祓いです。上級悪魔を、祓ったことはない。そんな僕が挑んだところで、間違いなく殺されるのがオチでしょう」

「エマニュエル……」

「だからあなたにしかできないんです。リインのことを想っていて、なおかつ一級悪魔祓いであった、あなたにしか。お願いします、スカイヴェールさん。リインを、アルバストゥルから解放してやってください」

 そう言って、エマニュエルは俺に頭を下げた。彼の悔しさは、痛いほど伝わってくる。

 だから、だけど。俺は一度目を閉じて、息を吸って吐きだすと。目を開いて、目の前で頭を下げるエマニュエルに言った。

「お前に頼まれるまでもないさ。リインは俺の、大切な妹分なんだ。絶対に、処刑させなんかしない」

「スカイヴェールさん……」

「魔術で変化させられていたらどうにもできなかったものの、上級悪魔に憑依されているならやりようはいくらでもある。さっき、出来ることなら何でもすると言ったな?」

「はい!リインの為なら、僕は何だって惜しむことはありません」

「よし。処刑まで、時間がない。出来る限りの準備をして、『儀式』に挑もう」

 俺の言葉に、顔を上げたエマニュエルは嬉しそうに頷いた。

 悪魔祓い以外の生き方を、俺は知らない。だがだからこそ、シェーマス・スカイヴェールという一人の悪魔祓いとして、為すべきことを成してやろう。

 リイン・インソードという一人の少女に憑依した、上級悪魔アルバストゥルを祓う。

 儀式と称して、悪魔に憑依された人間を殺していた男が。悪魔を祓い、人間を救うのだ。

 皮肉的で、滑稽かもしれないが。きっとこれが、本来あるべき悪魔祓いの姿なのだから。

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