Real 訪問者
目を覚ますと、そこはいつもと変わらない事務所の中で。
ぼんやりした頭で周囲を見回すうちに、俺は自分が居眠りをしていたことに気が付いた。
随分と長い夢を見ていた気がする。心が妙にかき乱され、何とも言えない気分がする。
ふと自分の手に視線を落とす。物理的には汚れていないものの、この手で一体何人の人間を殺してきたことか。
呪われた自分の手に息を吐きかけて、俺は立ち上がる。とりあえずやることをまとめて、一つずつ片付けていく前に。コーヒーか水でも、一杯飲んでおこう。
そう思い、居住スペースに向かおうとしたのだが。背後で扉を叩く音がして、俺は立ち止まって振り向いた。
「どうぞ、お入りください」
声をかけると、扉が開いた。一体どんな客が来たのだろうと、俺が顔を上げると。
「……」
そこには、蒼い髪とオリーブ色の瞳をした、一人の少女が立っていた。
リイン・インソード。かつて俺が愛し、そして殺した、ルイン・インソードの妹。
なんで彼女がここに。驚きに目を見張り、言葉を失う俺に対し。リインは事務所の中をぐるりと見回すと、俺に向かって言った。
「シェーマス、邪魔するぞ」
「あ、ああ」
俺が頷くと、リインは事務所の中に踏み込んできた。興味深そうに視線を動かしながら、来客用のソファーに腰かける。
昔の夢を見た直後に、リインが尋ねてきたのは、何かの因縁か。とりあえず俺は、当初の目的通り居住スペースに向かうと、マグカップに二人分のコーヒーを淹れて事務所へと戻る。
片方はリインの前に置き、もう片方は手に持ったまま、俺は彼女の正面に座る。
「……どうしたんだ、一体」
コーヒーを一口飲んで、乾いた声で俺が言うと。リインもカップを手に取って、俺の問いに答えた。
「別に。何となく、だ」
「……は」
きょとんとする俺の前で、リインはカップに口を付けてコーヒーを啜る。その仕草が、かつてのルインに重なって。俺はしばし硬直してしまう。
何となくで、仇の事務所を訪れたりすることがあるだろうか。絶対に何か、目的があるはずだ。それを見極め、対処しなければ。
精神を警戒態勢に切り替える俺をよそに、カップから口を離したリインは微笑んだ。
「美味しいな、このコーヒー」
やはり、何かがおかしい。今まであれだけ、俺に殺意を向けて来たリインが、俺の淹れたコーヒーを飲んで、微笑んでいるなんて。
「何か、あったのか」
震える声で俺が訊くと、カップを置いたリインは、少しだけ目を伏せた。
「いや……ただ少し、昔のことを思い出して」
「……」
「姉さんが死んで、六年になるな」
昔を懐かしむように、リインは俺に言った。彼女も俺と同じく、過去の夢でも見たのだろうか。
「お互い変わったな、シェーマス」
六年の月日が流れる間、色々なことがあった。全てを失った俺は、潜りの悪魔祓いとして依頼を受けるようになり。リインは俺への憎悪を糧に、一級悪魔祓いとなった。
俺は老けたし、リインは背も伸びて強く美しくなった。彼女の言う通り、お互い随分と変わったものだが。
それでも根幹にある想い、ルインの記憶は何も変わることが無い。三人で過ごしたあの日々も、俺の愛も罪もなにもなかも、決して変わることはないのだ。
だから。俺はコーヒーをもう一口飲むと、カップを置いてリインを真っ直ぐ見つめて言った。
「……俺を、殺しに来たのか」
リインにどんな事情があるかは分からないが。突然の訪問におかしな態度、わざわざ昔の話を持ち出したことから。目的があるとすれば遂に決意を固め、全てをぶつけにきたのではないだろうか。
だが俺のそんな至極真面目な考察に対し、リインは一瞬だけ驚きを顔に浮かべてから、諦めたように首を横に振った。
「それも、いいかもな」
「……」
「シェーマス、私はお前が憎い。出来ることなら、殺してやりたいくらい憎くて。そのためにお前と同じ一級悪魔祓いになって、ここまで来たんだ」
懐かしむように、同時にどこか寂しそうに言いながら、リインは俺から視線を逸らし、事務所の天井を見上げた。
「だけど同時に。お前と姉さんと一緒に過ごしたあの三年間が、私の人生の中で一番幸せだったんだ。もう二度と、戻ることはないけれど。思い出は今でもずっと、私の心の中に在る」
胸に手を当てて、リインは目を閉じる。心の中の大切な記憶の存在を、はっきりと確かめているかのように。
やがて目を開いたリインは、オリーブ色の眼差しを、真っ直ぐ俺に向ける。
「お前を殺したい、殺したかったよ、シェーマス。今までも、これからも、ずっと」
「それは……」
「でも……最後に、もう一度会いたいと思うのもまた、お前だったんだ」
最後。その言葉の意味を問い詰める前に、リインは立ち上がって俺にまた微笑む。
まるで死に逝くみたいじゃないか。あまり似てはいないのに、どうしても愛する女の面影を感じるその微笑に。俺が言葉を失っていると、リインはくるりと俺に背を向ける。
「次に会った時は、必ずお前のことを殺す。約束だ、絶対に」
「リイン―――」
「……さようなら。どうか、元気で」
微かに願うように、リインは笑顔で俺に言って。俺に背を向け、伸ばした手も顧みず。事務所の出入り口から出て、そのまま去って行った。
何で俺は立去るリインを追いかけなかったのだろうか。追いかけてその腕を掴み、言葉の真意を問わなかったのだろうか。
過去の罪がそうさせたのだろうか。現在の油断がそうさせたのだろうか。分からない、俺自身分からないが。ただ一つ言えるのは、俺はあの時リインを追いかけるべきだったということだ。
思考を放棄するのは、死と同義だと知っている癖に。あの時俺の思考は痺れて、迷いと躊躇に支配され、立ち上がることすらできなかった。
いつも、いつだって。俺の人生は、後悔の積み重ねだった。気づいた時にはもう手遅れで、どうしようもなくなっているのだ。
今も、この先も、これからも、ずっと……。
リインが去ってから数日後。ガーエルン帝国との戦場に、蒼の聖女が姿を現したと、新聞が大々的に報じた。
蒼の聖女の伝説は、さすがの俺も知っている。この国が危機に陥るたびに現れ、救済をもたらすとされる伝説の聖女。
俺が生まれる少し前に現れたと耳にしたこともあるが、単なるおとぎ話に過ぎないと思い、気にも留めなかった。
だが新聞によると、ガーエルン帝国との戦線に現れた蒼の聖女は、その圧倒的な力を持って敵をなぎ倒し、劣勢だった戦況を瞬く間に覆したというのだ。
当然のことながら、国中は歓喜に湧き、皆が口々に蒼の聖女の活躍をたたえた。新聞には毎日のように彼女の雄姿が載り、写真でも分かるその美しさに、誰もが息をのみ手を叩いた。
だが俺は新聞に載った、蒼の聖女の姿を見て。あの時のリインの言葉の真意にやっと気づいたのだ。
俺の事務所を訪れた時点で、リインは覚悟を決めていたのだろう。だからあんなことを言って、返事を待たずに去ってしまった。
掲載されていた写真に写る、蒼の聖女の姿は。リイン・インソードに瓜二つだった。
瞳の色こそ、髪と同じ蒼へと変化していたものの。長さも顔立ちも背格好さえも、全てリインそのものだった。
彼女に何があったかは、悪魔祓いとしてすぐに想像がついた。教会がリインに何らかの魔術的儀式を施して、彼女を蒼の聖女に変化させたのだろう。
今のところ蒼の聖女は、その圧倒的な力を持って勝利を積み重ねているが。全てが片付いたとしても、教会は「彼女」を見逃すとは思えないだろう。
「……クソッ」
ぐしゃぐしゃと新聞を握りしめて、悪態をついても。もはやすべては手遅れで、どうにもならないことだった。
俺は馬鹿で愚かで役立たずだ。結局救いたい人間は、誰一人だって救うことが出来やしない。
薄暗い事務所の中で、汚れた瓶から粗悪な酒をあおりながら、俺はぼんやりと天井を見上げる。蒼の聖女の記事を読んでから、仕事をする気も起こらず、事務所はずっと締め切ったままだ。
スアンとイエナが尋ねてきたが、すぐに追い返した。二人とも心配そうな顔をしていたが、今は放っておいてくれと言った。
何もできずに、ただ自分を責めて。情けなくて、死にたくなる。
ほとんど酒だけ摂取して。ぼんやりとした意識の中で昼夜を繰り返す生活を、一体どれだけ続けただろうか。
「―――、―――」
誰かが呼ぶ声が聞こえて、俺は重いまぶたをゆっくりと押し上げる。
「―――マス、シェーマス!」
ぼやけた視界が落ち着いてくると、目の前にいるのがスアンだということが分かった。少し落ち着きのない様子で、手には新聞を持っている。
「……スアン」
「よかった、生きてた……」
「放っておいてくれと、言っただろう」
投げやりに言う俺の頬を軽く叩いて、スアンは手に持った新聞を差し出して来た。
「そういうわけにもいかなくてね。理由は聞かないけど、君がおかしくなったのは『蒼の聖女』の記事を読んでからだろう」
「……」
「その、蒼の聖女について最新情報が入って来た。ガーエルン帝国が、降伏を認めたらしい」
「……何だと」
「先日無事に終戦協定が結ばれてね。外じゃ連日のお祭り騒ぎだよ」
スアンはそこで一度言葉を切り、差し出した新聞に視線を落とす。
「で、だ。戦争が終わった以上、『蒼の聖女』はもう不要だ。だから聖貴教会は―――彼女を処刑するらしい」
新聞の一面には、鮮やかな青色の大きな文字で、見出しの一文が載っていた。
救国の英雄『蒼の聖女』に感謝を。その下に、添えるように一文。
己の命は、マルガリアの為に。
「……シェーマス」
目をカッ開いて、新聞を読む俺に対し。スアンは少し呆れた顔をしながら言った。
「君は、本当にこのままでいいのか?」
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