Memory3 姉妹

 体が熱い。喉がカラカラに乾いている。

 目を覚ました瞬間、俺は自分が発熱していることに気が付いた。しかもその上、体中が痛い。特に太ももはずきずきと痛み、吐き気を感じるほどだ。

 息を吸って、吐いて。酸欠の魚のように口を動かしながら、何とかして痛みをこらえる。酷い気分だ、水が飲みたい。

「……うぅ」

 起き上がろうとして、胸に痛みが走り、俺はまた呻き声を上げる。そういえば肋骨も折れていたのだ。ああ本当に、最悪だ。

 とりあえず、現状を把握しなければ。俺はムーンレス司祭から任された「仕事」を終えた後、上級悪魔の儀式の応援に向かって、それで―――。

「……あら、目が覚めたのね」

 なんて。俺がぼんやりとした頭で思考を巡らせていると。横からそんな声がして、俺は目を見開いてそちらへ顔を向ける。

 そこには水差しを持った、一人の修道女が立っていた。芯の強そうな碧い瞳が、真っ直ぐ俺のことを見つめている。

 思い出した。気を失う寸前、彼女が俺に駆け寄ってきたのだ。

「手当はしたし、回復魔術もかけたけど。重症だったのと、単純に私の技量が足りてないのもあって、なかなか効き目が出ないみたいだから。少なくとも熱が下がるまでは、大人しく寝てた方が良いわよ」

 修道女らしからぬサバサバとした口調で言って、彼女は近くのテーブルに置いてあったコップに水を注ぐ。水差しを置き、コップを手に取ると、彼女は俺の横たわるベッドへと近づいてきた。

「少し体を起こせる?無理そうだったら大丈夫だけど」

「……」

 修道女の言葉に従って、体を起こしてから。俺はコップを受け取ろうと、震える手を伸ばす。

 だが彼女はやんわりと俺の手を避けると、コップを持っていない手を俺の背中に添え、コップを口元に持ってきた。どうやら水を飲ませようとしているらしいと、俺はやっと気が付く。

「……自分で飲める」

「その、がくがく震えてる手で?こぼしたら私が困るから、素直に飲んで頂戴」

 俺が返事を返す前に、修道女は俺の口にコップを押し付けた。仕方なく従い、コップから水を飲む。

 水分が入ったことにより、ほんの少しだけ楽になった気がする。コップが口から離れていくと、俺は修道女に顔を向けて、落ち着いた口調で言った。

「……ここは」

「あの廃墟街の近くにある、聖貴教会よ。といっても私が一人で管理している、小さい教会だけど。近くで大きな音がして、気になって様子を見に来てみたら酷い有様で。その中で重傷を負ったあなたを見つけたから、運び込んで手当したってわけね」

「なるほど」

「そういえば、まだ名乗ってなかったわね。私はルイン・インソード。見ての通り、聖貴教会の修道女よ。あなたは……見たところ、悪魔祓いみたいだけど」

「ああ。シェーマス・スカイヴェールだ」

 名乗ったところで、俺は盛大に咳き込んだ。折れた肋骨がずきずきと痛み、負傷と発熱の辛さが一気に襲い掛かってくるのが分かる。

「ほら、無理しないで横になってなさい。私が言うのもなんだけど、今のあなた結構ボロボロよ?」

「……」

 なんだか物凄く気に食わないものの、今の自分に抵抗する気力もない。大人しく横になると、ルインは俺の額に濡らした布をそっと乗せた。

「少し熱が下がったら、おかゆでも作ってあげるから。今は食欲も無いでしょうし、無理せず休んでおきなさい」

 そう言って、ルインは俺の黒い前髪に触れて軽く撫でた。碧い瞳が、優し気に細まるのが見える。

 熱のせいか、そんな彼女を見ていると息が苦しくなってくる。再び上がった熱に、荒い息を吐き出しながら、俺は再び目を閉じた。


 次に目を覚ました時には、まだ熱はあるものの、傷の痛みは随分とましになっていた。おそらくルインのかけたという、回復魔術が効いてきたのだろう。

 息を吸って吐いて。俺がゆっくり体を起こすと。ベッドの傍に座っていたルインが、顔を上げた。その目は充血しており、疲れたような表情が浮かんでいる。

「ん……ああ、起きたのね、シェーマス。随分と、顔色が良くなったみたいで安心したわ」

「お前……ずっとそこにいたのか」

 驚きに目を見張る俺に、ルインは充血した目を擦って笑って見せた。

「当然でしょ……病人を放っておくわけにはいかないじゃない」

「だが……俺なんかの為に」

 そこまでする必要があるのか。なんて言葉は口から出てこなかった。ルインは椅子から崩れ落ちる様に、俺の横たわるベッドに突っ伏す。

「おい、大丈夫か!」

「ごめん……少しだけ寝かせて……」

 そう言って、俺の返事も待たずに、ルインは静かな寝息を立て始めた。俺はしばらく戸惑った顔でルインを見つめていたが、やがてため息を吐きだすと、彼女の頭にそっと触れる。ベッドに突っ伏した拍子に、被ったヴェールが外れて。瞳と同じ碧い髪が露わになり、それがとても美しかった。

 なんてぼんやりと思いながら、しばらくルインの頭を撫でていたが。ふと、自分のやっていることの異常性に気が付き、俺は慌てて手を引っ込める。

 出会ったばかりの女性の頭を撫でるなんて、自分は一体何をしているのだろうか。熱のせいで冷静な判断が出来ないことを差し引いても、さすがに失礼ではないだろうか。

 微かに鼓動が早まるのを感じながらも。俺は眠るルインの邪魔にならないように、周囲の状況を改めて把握することにした。

 どうやら自分が寝かされているのは、客室のような部屋らしい。置かれている家具は、ベッドとクローゼットとテーブルと椅子だけ。テーブルの上には水差しとコップと、水の入った洗面器が置かれている。

 部屋の壁には小さな窓が一つあって、窓からは朝陽の光が差し込んできている。自分は一体、どのぐらい眠っていたのだろうか。

 傷を確かめようと、自分の体に視線を落とすと。いつの間にか制服が脱がされ、ローブのようなものを着せられていることに気が付き、顔が熱くなるのが分かった。いくら傷の手当てをするためとはいえ、男の裸を見ることに抵抗はなかったのだろうか。

 いや何を今更、恥ずかしがっているのだろうか。別にルインに裸を見られたところで、どうということはないはずだ。羞恥心なんて、持ち合わせる方が馬鹿だと考えていたじゃないか。

 自分を落ち着かせるように言い聞かせてから、改めて傷の確認をする。折れた肋骨と腕、食いちぎられた太ももは、さすがにまだ完治とはいかなかったものの。ルインのかけたという回復魔術のおかげなのか、痛みは大分ましになっていた。手当も丁寧であり、太ももの傷は化膿しないように薬を塗ったうえで包帯が巻かれ、折れた腕はしっかりと添え木をして固定されていた。

 本人は技量が足りないと言っていたが、魔術の中でも比較的高度とされる回復魔術を使えるだけでも、かなりの実力があると言っていいだろう。改めてルインに感謝しつつ、気が付くと俺はまた、すやすやと眠る彼女の頭に手を乗せていた。

 だが今度は、何をやっているのかと我に返る前に、部屋の扉が開く音がした。

 俺が顔を上げると、扉の隙間から、一人の少女が部屋の中を覗き込んでいた。蒼い髪に、オリーブ色の瞳。顔にはどこか怯えたような表情が浮かんでおり、心配そうに眠るルインを見つめている。

「君は」

 俺が声をかけると、少女は驚いたように目を見張って、逃げ出すように立ち去ってしまった。彼女は一体、何者なのだろうか。

 それから。三十分後にルインはやっと目を覚ました。まだ眠そうな顔をしているものの、先程よりは多少ましになったようだ。

「ん……おはようシェーマス」

「……おはよう」

 しれっと名前で呼ばれていることに、何とも言えない感情を抱きつつ。俺がとりあえず挨拶を返すと、ルインはにっこりと笑った。

「うん、やっぱり随分と顔色が良くなったみたいね。これから朝ご飯作るけど、食欲はあるかしら」

「ああ。そうだルイン……いや、インソードさん」

「ルインでいいわよ。私だってシェーマスって呼んでるし」

 気を使ったつもりが、あっさりと返され。また少し恥ずかしく思いながらも、俺は彼女にあの少女の話を聞くことにした。

「ルイン。先程蒼い髪の少女が、部屋の中を覗き込んでいるのを見かけたんだが。彼女は一体」

「ああ、そういえば言ってなかったわね。あの子は妹のリイン。一緒にこの教会で暮らしてるの」

「……娘かと思った」

「そりゃあ十二歳も年が離れてるからね。まあ、人見知りなところを除けばいい子だから。優しくしてあげて」

 俺の言葉をさらりと笑って流して、ルインは立ち上がると、ベッドの上からヴェールを拾い上げて被り直す。

「それじゃあちょっと待ってて。飛び切り美味しいおかゆ、作ってあげるから」

 片目を瞑って、ルインは部屋から出て行こうとして。一度立ち止まって、俺の方を振り向く。

「別に頭撫でられたくらいで、怒ったりしないわよ」

 そう言って、彼女は今度こそ俺に背を向けると、部屋から出て行った。

 きっとその時の俺の顔は、真っ赤に染まっていたに違いない。ぐっすり眠っていたはずなのに、どうして気づかれてしまったのだろうか。

 それにしても、今日の俺は一体どうしたのだろうか。まるで年端もいかない少年みたいじゃないか。もう十八にもなるんだし、一級悪魔祓いがこれじゃあ示しがつかない。

 悶々とした気持ちを抱えつつも、俺はとりあえずベッドから離れることにした。これ以上彼女の世話になっては、本当にどうにかなってしまいそうだ。


 ルインは心配していたが、さすがに押し切って朝食は食堂で食べることになった。食堂といっても、厨房のすぐ隣にある小さな小部屋の事なのだが。

 おかゆを作ると言っていただけあり、出されたのはオートミールと蜂蜜の掛かったビスケット、そして林檎が数切れだった。

「こんなものしか出せなくてごめんね」

「いや……ありがたい」

 申し訳なさそうに言うルインに礼を言って、俺は彼女の前に座る。ルインの横には、気まずそうな顔をしたリインがちょこんと座っていた。

 そんな妹の蒼い髪をわしゃわしゃと撫で、ルインは軽く抱きしめる。

「そんなに緊張しなくても大丈夫よ。この人は正義の味方なんだから」

「せいぎの、みかた?」

「そう。人間の心に巣食う悪い悪魔を、祓ってくれるのよ」

「……」

 リインに向けられる純粋な眼差しに耐えられなくなり、俺は思わず目を伏せる。俺は正義の味方じゃない。むしろ正義の味方とは、最もかけ離れた存在と言えるのに。

「さあ、それじゃあ食べましょうか。冷めちゃわないうちに」

 食前の祈りを、手際よく済ませると。ルインはスプーンを手に取って、オートミールに口を付ける。

 その仕草に、一瞬見惚れてしまいながらも。俺も折れていない方の手でスプーンを手に取って、オートミールを一口食べてみた。

 旨い。単なるオートミールでも、本部の食堂で出されるものとはまるで違う。これと比べたら本部のオートミールなんて、食べられる吐瀉物のようなものだ。

 しばらく無心で、オートミールを口に運んでいたが。ふと、ルインがにこにこした顔でこちらを見つめていることに気が付いて、俺はやっと手を止めた。

「……どうした?」

「別に。凄く美味しそうに食べるんだなって思っただけ」

 再び湧き上がって来た羞恥心を必死に抑えながら、俺は俯いてスプーンを置く。さすがに少し、がっつきすぎてしまったようだ。

 そんな俺に対して、一回り小さなスプーンを持つリインが、満面の笑顔で言った。

「おにいちゃん、おかわりもあるよ?」

「……いらない」

「そんなこと言わないの。食欲があるんだったら、ちゃんと食べてきなさい」

 返事も待たずに、俺の皿にオートミールが追加される。物凄く文句が言いたかったが、ここで言ったら逆に子供っぽくなってしまうだろう。

 だから俺はため息を吐きだすと、再びスプーンを手に取った。そんな俺を見たルインとリインがまた、嬉しそうな笑顔を浮かべる。俺が飯を食うのが、そんなにも面白いのだろうか。

 おかわりのオートミールも、蜂蜜のかかったビスケットも、切り分けられた林檎でさえも。冗談みたいに美味しくて、あっという間に食べきってしまって。

 ルインから返してもらった制服に着替え直し、懐のナイフに大きな異常がないことを確かめると。俺はインソード姉妹に礼を言って、教会の外に出た。体にだるさと痛みは残るものの、これなら本部まで帰ることが出来るだろう。

 どうやら俺は、三日ほど寝込んでいたらしいが。空は三日前と同じ、清々しいほどの晴天で。太陽の眩しさに、俺は思わず目を細める。

「シェーマス」

 名前を呼ばれ、俺が振り向くと。そこにはルインとリインが立っていた。目と髪の色こそ違うものの、こうして並ぶと顔立ちがどことなく似ているのが分かる。

「世話になった」

「おにいちゃん、きをつけてね」

「どういたしまして。くれぐれも無理しないようにね」

 何でそんなことを言うのだろう、と首を傾げて見せてから。俺は彼女たちに背を向けようとしたのだが。

 何故だか、どうしようもない名残惜しさを感じ。気が付いたら背を向ける前に、一言口走っていた。

「……あの、良かったら今度、お礼をさせてもらっていいか」

「お礼?」

「あ、いや……」

 言ってしまってから、しまったと思ってももう遅く。俺はまた俯いてしまいながら、柄にもなく細い声で言った。

「世話になった、お礼を……今度何か贈るから……」

 まごつく俺に対して、ルインは一瞬驚いたような顔をしてから、嬉しそうに笑って見せた。

「楽しみにしてるわね、シェーマス」

「……ああ」

 これ以上は俺が耐えられなくなる。眩しいルインの笑顔から逃れる様に、俺は彼女に背を向けて今度こそ歩き去った。

 足の傷には痛みが残り、体もだるいはずなのに。心なしか足取りが軽かったのは、きっと―――。


 本部に帰還すると、食堂の方がやたら騒がしかった。

 何事かと様子を見に行くと。そこには全身に包帯を巻いた、ノルベルト・トルマリンが取り巻に囲まれて鎮座していた。どうやら生きていたらしい。

 さしずめ気絶していたところを、事後処理に来た悪魔祓いに回収されたというところだろうか。教会には回復魔術の専門家がいるため、あんなに包帯を巻く必要もないはずだが。

「―――それであの上級悪魔が襲い掛かって来た時、俺は渾身の神聖魔術を叩き込んでやってだな」

 ノルベルトの言葉に、食堂を出ようとしていた俺は一瞬だけ足を止める。どうやら彼は上級悪魔メラハの討伐を、自分の手柄として語っているようだ。

 別に手柄を横取りされたからといって、怒りを感じることはない。たとえ誰であろうと、悪魔を祓えればそれでいい。それが、悪魔祓いというものなのだから。

 だから俺はそのまま、食堂を出ようとしたのだが。どうやら向こうが、俺の存在に気が付いたらしい。

「おやあ、そこにいるのはシェーマス・スカイヴェールじゃないか」

 仕方なく、俺が振り向くと。そこには整った顔に軽薄な笑みを浮かべる、ノルベルトとその取り巻たちがいた。

「この三日間姿を消して……上級悪魔から逃げた腰抜け野郎が、今更のこのこと戻ってきやがったんですねえ」

「……」

「何とか言ったらどうだ。え、この腰抜けが」

 今ここで真実を主張するのは簡単だが、そうしたところで何もならないことは知っている。だから俺はノルベルトに背を向けると、食堂の扉を開いた。

 俺は教会の駒であり、従順な僕である。下らない正義や正当性なんかを主張して、揉め事を起こすつもりはない。

 だけど、それでも。たまには一言ぐらい、言ってやりたくなることだってあるものだ。

「どこかの誰かが、儀式に失敗しなければ、もっと楽だったんだけどな」

 小さく低い声で言って、俺は食堂を後にした。俺の言葉がノルベルトに聞こえたかどうかは分からないが、少なくとも「言った」ということに、意味があるのだと思う。


 一度自室に立ち寄って身だしなみを整えてから。俺はムーンレス司祭の執務室に向かう。ノックをすると中から返事があり、俺は扉を開いた。

「シェーマス」

「遅くなりました、司祭殿。負傷により、少し身動きが取れませんでした」

「……いや、お前が無事でよかったよ」

 わざとらしく目を見張ってから、安堵した表情を浮かべ。ムーンレス司祭は座っていた椅子から立ち上がった。

「現場からちゃんと報告は受けているよ。上級悪魔・メラハの始末よくやってくれたね」

「いえ、やるべき仕事を果たしたまでです」

「それでも、強化済みの上級悪魔を一人で倒すのは大変だっただろう。改めて、よくやったね、シェーマス」

 立ち上がって、俺の肩を軽く叩いてから。ムーンレス司祭は優し気な微笑みを浮かべた。

「……その前の、シャロン議員の方も。滞りなくやってくれて、私はとても嬉しい」

「……」

「これからも、市民を悪魔の魔の手から守る、『正義の味方』として、頑張ってくれるね?」

 正義の味方。ふと、ルインの顔が心をよぎり、突き刺さるような痛みに似た感情が胸の中に走る。

 だがそれを顔に出さないよう取り繕いつつ、俺はムーンレス司祭に頭を下げた。

「お前が頑張ってくれると、父親代わりとして私も嬉しいよ。シェーマス」

 相変わらず容姿に似合わない優しい笑みを浮かべたムーンレス司祭は、立ち去ろうとする俺に言った。

「これからも、私の為に働いてくれるね、愛しい我が息子よ」

 返事は返さず、逃げるように執務室を後にする。物理的に逃げたところで、根本的に逃げられることは出来ないだろうが。自分の部屋に戻る間、ずっと息が苦しかったことを覚えている。

 今までは何も感じなかったはずなのに、今日は一体どうしてしまったのだろうか。動揺を抑え込むように自室に逃げ込むと、俺はやっと息を吐き出す。

 分からない、分からないが。何かが変わってしまった気がする。きっかけは何だろうか、あのメラハとかいう上級悪魔を倒したからだろうか。

 それとも……。頭の中にルインの顔が再びよぎり、俺は慌てて首を横に振る。

 もっとも。俺が自分の気持ちと、変わってしまったその理由に、気づくのはそう遠くないことの話なのだが。

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