File3 召喚者
ウィビウスが俺の事務所に顔を出したのは、俺が「ベルトリン植物店」で買い物を済ませた翌日のことだった。
ロクサナに施した結界の様子を見に行くため、ウィビウスのアトリエに向かおうと身支度を整えていると、事務所の扉が激しくノックされ、鍵を外したら彼が飛び込んできたのだ。
「ウィーラの居場所が見つかりました!」
息を切らしながらも、ウィビウスは顔を上げて俺に言った。
「親のコネを使って、シルマヴィット地区にある労働者用のアパートの一つに、隠れ住んでいるようです」
「思ったより早く見つかりましたね、お手柄です」
「ありがとうございます……さっそく彼女の元に、向かいましょう。ロクサナに悪魔を憑依させたあのクソ女を、ぶちのめしてやります!」
「落ち着いてください。我々はウィーラさんから、ロクサナさんに憑依させた悪魔の情報を聞きだすために彼女の元に向かうんです。どうかそのことを、忘れないように」
興奮気味なウィビウスをなだめると、彼は何か言いたげに口を開きかけたものの、直ぐに頷いてそのまま俯いた。
俺もそんなウィビウスに頷き返してから、剃りかけの髭を剃るために、剃刀を手に取る。
「こちらも産婦人科医に話をつけて、儀式の準備を進めています。ロクサナさんのことが心配かもしれませんが、焦らずに行きましょう」
「分かりました……」
もどかしげではありながらも、素直に受け入れたウィビウスの前で。俺は剃り残した髭をきっちりと剃って、手早く身支度を終わらせる。
ウィビウスと共に事務所を出て、停留所から辻馬車に乗り。ウィーラが潜伏しているという、シルマヴィット地区のアパートの住所を告げる。
朝の支度を終えてすぐに出てきたため、馬車の中で仕事道具の点検をしていると。あっという間に、シルマヴィット地区の停留所に着いてしまった。
「こっちです」
相変わらず煤煙が立ち込めるシルマヴィット地区の汚れた空気に顔をしかめつつも、ウィビウスはポケットから一枚の地図を取り出して、迷うことなく道を歩き始めた。俺もハンカチで軽く口を押えながら、ウィビウスの後について行く。
たどり着いたのは、主に消耗品の魔道具を生産する企業の、社員用アパートだった。もっとも社員といっても、工場で馬車馬のごとく働かされている、最下層の労働者のことであり。そんな労働者の寝起きする場所となっているのが、このアパートというわけだ。
ろくに管理もされていないのであろうアパートは、お世辞にも清潔とは言えず。壁は落書きだらけで、ゴミ捨て場には未回収のゴミが溢れ、廊下には蜘蛛の巣が張って蛾の死骸が転がっていた。
ウィビウスは薄汚れた廊下に不快そうな表情を浮かべながらも、二階に上がると一番奥の部屋の前で足を止めた。
「この部屋です。この部屋に、ウィーラが潜伏しているはずです」
ウィビウスと入れ替わるように、俺は扉の前に立つと。簡単な神聖魔術で、掛けられた鍵を破壊する。
ナイフを仕舞って、俺はウィビウスへと視線を向ける。
「覚悟は出来てますね」
「も、もちろん」
ウィビウスが頷いたのを確かめると、俺は扉を勢いよく開いた。
部屋の中は廊下以上に酷い有様だった。食べ物の容器や包装が散乱し、転がった薬瓶から発せられる刺激臭と、腐った食べかけの腐敗臭が混ざり合って吐きそうなくらい酷い臭いがする。
この部屋の唯一の家具ともいえる本棚には、傷んだ書籍が乱雑に詰め込まれ。その上には汚れ切った衣服や下着が引っかけられている。
そして。そんな部屋の奥に、彼女は蹲っていた。ぼさぼさで虱のわいた髪に、充血した瞳と薄汚れた頬。何日も風呂に入っていないのか、体からはすえた臭いが漂っている。
「ウィーラ……」
口と鼻を手で押さえたウィビウスが名前を呼ぶと、ウィーラはゆっくりと顔を上げて、血走った目を俺たちに向けた。
向けて。その目を大きく見開くと、彼女は勢いよく立ち上がり、虱を飛び散らせて髪を振り乱しながら、ウィビウスに向かって突進してきた。
「よくも!よくもぬけぬけと、私の前に!」
「ヒッ……」
ウィーラの気迫に後ずさるウィビウスを庇うように立ち、俺は襲い掛かってくるウィーラに軽めの蹴りを叩き込む。
加減したとはいえ、狂った女にとっては十分な威力であり。ウィーラは口から呻き声を漏らして後ずさると、腹を押さえてゲホゲホと咳き込んだ。
汚れた床に胃液の混じった唾液を吐き出すウィーラに、俺はナイフを抜いて刃を向け、低い声で言う。
「つまらない御託はなしだ。お前が召喚・憑依させた、悪魔について答えろ」
背後でウィビウスが息を飲んだのが分かったが、気にせずにウィーラを睨みつける。召喚者への尋問も、悪魔祓いの仕事の一つである。
ウィーラは俺の問いに対し、口から零れる涎を拭うと、顔を上げて狂気に支配された表情を浮かべてまくしたてた。
「なるほど、あんたはそこのクソ野郎に雇われた、悪魔祓いってわけね。うふふふふ、じゃああの悪魔は、ちゃあんとあの泥棒猫に憑依したってことねえ」
笑いながらも、ウィーラはまた咳き込む。だが今度は、咳き込み方が少々わざとらしい。この程度で、俺の同情を誘えると思ったら大間違いである。
「いいから答えろ。答えるつもりが無いなら、多少なりとも痛い目に遭ってもらうことになるが」
ナイフの刃先を軽く動かすと、ウィーラはびくんと体を震わせた。このナイフは切るためのものではないが、それでも脅しには十分使える。
「やってみなさいよ……パパが、黙ってないわよ」
「生憎、仕事なんでな。穏便にカタを付ける手段はいくらでもある」
正直、ウィーラのことを両親は既に見限っていると思っていいだろう。でなければ、もっといい隠れ家に匿うはずだ。
そのことには、ウィーラも気づいているはずであり。彼女は黄ばんだ歯でぎりぎりと歯ぎしりをすると、立ち上がって再び叫び始めた。
「全部そこにいる男が悪いのよ!あんな貧乏人の不細工女より、絶対私の方が魅力的だっていうのに!なのに、なのになのになのに!私のことを捨てて、あんな娼婦も同然のクソ女を選んだ、あんたが悪いのよ!」
体を揺らしながら、ウィーラはウィビウスを指さし、不愉快な笑い声をあげる。
「……ウィーラ」
背後でウィビウスが、小さい声で彼女の名前を呼んだ。
待て、という暇もなく。ウィビウスはウィーラに掴みかかると、彼女を押し倒して馬乗りになり、顔面を拳で殴りつける。
「よくもロクサナを!死ね、死ね、このクソ女!」
「落ち着いてください、ウィビウスさん」
俺の言葉にも耳を貸すことなく、ウィビウスは笑い続けるウィーラを何度も殴りつける。血が飛び散り、歯が折れて転がり、骨が折れる嫌な音がした。
さすがにこのままではいけない。俺はナイフを仕舞うと、ウィビウスを背後から羽交い絞めにして、ウィーラから引き離す。
「離してください、スカイヴェールさんッ」
ウィビウスは当然のごとく暴れたものの。所詮は自称芸術家の貴族の坊ちゃんであり、完全に取り押さえることは難しくなかった。
「ウィーラさんに怒りをぶつけたところで、何もなりません」
「離して、離せ、離せこの野郎!」
「……あはは」
暴れるウィビウスを必死に取り押さえる俺の前で、ウィーラがゆらりと立ち上がった。その手には、割れた瓶の破片が握られている。
「私はね、あんたの一番大切なものに悪魔を憑依させたのよ。あんたが一番大切にしてるのは、あの女だってわかってたから。そうすればあんたもあのクソ女も、同時に苦しめることが出来るんだから」
「ウィーラ、この―――」
「苦しんで死ぬように、あの女に言っておいて。それじゃ、さようなら。地獄からあなたのことを呪ってるわね」
にっこり笑って片手を振り、ウィーラは自分の喉に瓶の破片を突きつけた。俺がウィビウスの拘束を離して伸ばした手が届く間もなく。ウィーラは破片を喉に突き立て、深く切り裂いて倒れ込んだ。
喉から溢れる真っ赤な鮮血。ウィーラはしばらく目を白黒させながら、水槽の小魚のように口を開閉していたが。やがて動かなくなり、こと切れたのが分かった。
「う―――う、うぅ―――」
目の前の光景に唖然としていたウィビウスは、漂ってきた血の臭いに、その場にしゃがみ込んで嘔吐する。
俺は無言でウィビウスの背中をさすって解放してやると、ナイフをウィーラの死体に向けて、神聖魔術の詠唱を始める。
「―――主よ。穢れを浄化し、死骸を塵へと帰し。魂を向かうべき場所へ」
本来は葬儀などの際に使われるものであるが、これほど証拠隠滅に向いた呪文もあるまい。呪文の効果によって、ウィーラの死体は淡く発光し、次の瞬間塵となって消え去っていった。
床に染みついた血痕は残るものの、周囲の治安を考えると、もみ消される可能性が十分に高いだろう。下手に干渉するのも悪手だろうし、こうして時間稼ぎをしておくぐらいがちょうどいいのだ。
そんなわけで、俺はまだえずいているウィビウスの傍らで、痕跡が残らないようにするための神聖魔術を自分にかける。浄化魔術を改変したもので、悪魔祓いの間で暗黙の必須魔術となっているものだ。必要はないとは思うが、一応死者が出ている以上念を入れておくに越したことはないだろう。
「す、スカイヴェールさん、なにを―――」
「本人から話は聞けなくなってしまいましたが。探せば手掛かりぐらいはあるかもしれませんので」
ナイフを仕舞って、俺はてきぱきとゴミの山をかき分けてゆく。容器の間から這い出したゴキブリに、背後でウィビウスが短い悲鳴を上げるのが聞こえた。
目的のものはすぐに見つかった。本棚に雑然と詰め込まれた中の一つに、使用済みの「悪魔の瘴気」の召喚書があった。
だが俺が召喚書を抜き取って開くと、ペンでぐちゃぐちゃに塗りつぶされたうえで、刃物で切り裂かれたページが飛び込んできた。証拠隠滅のためにやったのか、あるいは狂気の赴くままにやったのかは分からない。しかしここまで破壊されていれば、召喚書の専門家であるスアンでも修復は難しいだろう。
ため息を吐きだして、俺は召喚書を閉じると、元の場所に戻した。召喚の詳細が分からないとなると、焦点を絞って儀式を行うのは難しい。やはり出来る限りの準備をしたうえで、一般的な手段を用いて儀式を行うしかないだろう。
「ウィビウスさん、ここを出てロクサナさんの元に向かいましょう。儀式の準備の為に、今は少しでも時間が惜しい」
「はい……」
手足の汚れを軽く拭って、俺が振り向くと。そこには少し怯えた表情をした、ウィビウスの顔があった。
「どうしたんですか、ウィビウスさん」
俺が尋ねると、ウィビウスは慌てたように両手を振った。
「え、いや……スカイヴェールさん、なんというか、手際いいなあって思いまして……」
「……ああ」
死体処理も、部屋の物色も。俺にはあまりにも慣れ親しんだこと過ぎて、すっかり忘れてしまっていた。
悪魔祓いにも色々な者がいるが、大抵は依頼人に良い顔だけを見せるものだ。特に俺みたいな、両手が血で染まっているものなら猶更のことである。
だから俺は営業スマイルを浮かべて、ウィビウスの方を軽く叩いた。
「潜りの悪魔祓いとして、こういうことには慣れてるんですよ」
「そ、そうですか……」
「そうです。さ、それよりも早くロクサナさんの元に行きましょう。ドクター・ユリカゴがついているとはいえ、愛する人が傍にいた方が、ロクサナさんも安心するでしょうから」
「そう、そうですね」
ロクサナのことを持ち出されたウィビウスは、気を取り直したように頷く。単純な男で、有難いことだ。
ウィビウスと共に、アパートを後にするとき。俺は一瞬だけ、背後を振り返る。
ウィーラは同情の余地もない、狂った女だったが。ウィビウスはきっと、自分の行動がウィーラの心をどれだけ蝕んだのか、これっぽっちも理解していないのだろう。
その一点だけ、ウィーラのことを哀れだと思えるかもしれないが。憐れんだところで何にもなりはしないため、するだけ無駄というところだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます