File2 診察
グルスナーガ地区はヴァルベロンの中でも、下級層から中級層の狭間に位置する者たちが暮らす地区である。
地区内には無数の賃貸住宅が立ち並び、ここからシルマヴィット地区や他の地域へと働きに出る者も少なくない。
建ち並ぶ商店は、大体が大衆向けの量販店で。飲食店も味より量と値段を重視した食堂や飲み屋が多く、美味くはないが食べられないことはない店がほとんどだ。
賃貸住宅で暮らす、子供たちが楽しそうに駆けてゆくのを横目に。辻馬車から降りた俺は、先に降りていたウィビウスの案内で、ロクサナがいるという彼の工房へと向かった。
「こちらです、ここが、僕の工房です」
ウィビウスの工房は、グルスナーガ地区の中でも比較的小綺麗な二階建ての賃貸住宅のアパートにあった。ウィビウスが芸術家としてどれだけ売れているかは知らないが、若い彼が真新しいアパートの一室を工房として使用できるのは、親が裕福なおかげなのだろう。
きれいに掃除された廊下を進み、一階の一番北にある部屋の前まで行くと。
ポケットから鍵を取り出したウィビウスは、扉を開く前に俺を一度振り向いた。
「……スカイヴェールさん。この扉の先に何があっても、驚かないでくれませんか」
ウィビウスは心なしか、緊張しているように見えた。だから俺は営業用の笑顔を浮かべて、力強く頷いて見せる。
「ええ、お約束します。これでも色々な事情を抱えた人間の、悪魔を祓ってきましたからね。滅多なことでは、驚きはしませんよ」
「そう、ですか……分かりました。すみません」
自分に言い聞かせるように言って、ウィビウスは扉に視線を戻すと、鍵を開錠する。
ゆっくりと扉を引き開けると。俺はウィビウスと共に部屋の中に踏み込んだ。
部屋の中は如何にも芸術家の工房と言った感じで、作りかけの彫刻や、描きかけの絵画が並んでいた。
壁には完成済みの作品と、受賞した賞の額縁が掛けられており。ウィビウスの自己顕示欲がはっきりと感じられる。だが賞の全てが参加賞や奨励賞などの残念なものであり、横の作品も正直上手とは言えなかった。
しかし。そんな分析を断ち切る様に、工房の奥にある部屋から、女性の呻き声が聞こえてくる。悪魔に憑依され苦しむもの特有の、精神を削るような悲鳴と絶叫が。
俺は手に持った道具箱から鏡を取り出し、ウィビウスに顔を向ける。ウィビウスはそんな俺に対して、無言で頷いて見せた。
工房の内部を横切って。奥にある部屋の扉までたどり着くと、俺はゆっくりと扉を開いた。
「いや、いやああああぁぁぁぁッ、はぁ、はぁ、はぁ……」
扉を開いたことにより、よりはっきりと聞こえる叫び声にも臆することなく。俺は鏡を構えて、部屋の中に踏み込んだ。
正直なところ、悪魔祓いとしてかなりの場数を踏んできた人間として、大抵の惨状には動じない自信があったが。
部屋の中でベッドに横たわった、ロクサナの姿を見た時。俺は思わず言葉を失って、手に取った鏡を危うく取り落としそうになる。
「嘘、だろ……」
ロクサナは水飴色の髪をした、小柄で可愛らしい女性だった。だが今はその可愛い顔は異常なほど青ざめ、表情は歪み荒い呼吸を繰り返している。
しかしそんなことは、どうでもいい。問題はロクサナの身に纏ったネグリジェの腹部が、大きく膨れ上がっていることだった。
「彼女は……身ごもっているのか」
俺が呟くと、隣に立つウィビウスが気まずい表情と声で俺に言った。
「すみません……お話したら、引き受けてもらえないと思いまして」
俺は許しを請うような眼差しを投げかけるウィビウスを無視して、ロクサナに鏡を向けて文言を唱える。
妊婦に対する悪魔祓いの儀式は、通常とは比べ物にならない程危険が高い。妊婦というのは通常の女性よりも悪魔が憑依しやすく、一度憑依したらそう簡単に祓うことが出来ない。
その理由は。ロクサナに対して行った診察の結果、鏡に「異常なし」の反応が出たのを確認すると。俺は鏡を彼女の腹部に向けて、別の文言を唱える。
妊婦に憑依した悪魔は、胎児に寄生してそこから母親を支配するのだ。そのため最も手っ取り早くかつ安全な儀式の方法は、悪魔の憑依した胎児を始末すること、即ち堕胎である。
だが目の前のロクサナの様子からして、既に妊娠六カ月は超えているだろう。こうなると堕胎することも難しくなってくる。
鏡に反応が出た。ロクサナの胎の中にいる胎児に、「悪魔の瘴気」という下級悪魔が憑依している。
悪魔の瘴気はどちらかというと呪いに近い存在で、憑依した者に疫病をもたらす悪魔である。しかし所詮は下級悪魔であり、祓うことは容易いのだが。
それは通常の場合であって、胎児に憑依した場合は話が違う。悪魔の瘴気が憑依した胎児が胎の中にいる限り、母体であるロクサナは病に苦しみ続け。悪魔の魔力によって、産み落とすことも叶わずにただ衰弱していくのみである。
診察を終えた俺の横で、ウィビウスが静かに頭を下げる。
「お願いです、シェーマスさん。二倍、いや三倍の報酬をお支払いしますから……どうか、お腹の子供とロクサナを、救ってやってくれませんか」
確かに教会に依頼すれば、間違いなく堕胎によって胎児ごと悪魔を処理されるだろう。母体に後遺症が残ろうと、悪魔を始末することを優先するのが教会の悪魔祓いなのだ。
だがウィビウスが俺に依頼したのは、ロクサナとお腹の子供を救いたいだけではないのだろうとも思う。
貴族のウィビウスにとって、未婚の女性を婚前交渉によって孕ませることは、明かに醜態となりえるだろう。たとえロクサナとどれだけ愛し合っていても、自分のやらかしが発覚することを、彼は恐れたのだろう。でなければここまで悪化する前に、もっと早く悪魔祓いに依頼しているはずだ。
しかし俺はそのことを口にせず、ウィビウスに向き直った。契約した内容とは話が違うものの、一度引き受けた仕事である以上、目の前のロクサナを放っておくことは出来ない。
「ウィビウスさん。仕事内容が契約と違う場合、違約金として元の報酬の五倍の金額を支払うことになると、契約書に書かれていたことは覚えていますね」
俺の冷たい言葉に、ウィビウスはびくんと体を震わせると、観念したように項垂れる。
「はい……覚えております……」
「そのうえで。契約通りに五倍の依頼料を支払うというのなら、ロクサナさん―――正確には彼女の胎の中にいる胎児ですが―――彼女に憑依した悪魔の瘴気を祓いましょう」
「……本当ですか?」
勢いよく顔を上げたウィビウスに、俺は頷いて見せる。厳しさを見せた後に、優しさを見せると、人間は思ったよりも容易く落ちるものだ。
「ええ。契約違反とはいえ、ロクサナさんのことを見捨てるわけにはいきませんから。もっとも先ほども言ったように、あなたが五倍の依頼料を支払えたらの話ですが……」
「払います!何ルックルだろうと、ロクサナが助かるなら構いません!」
食い気味に答えたウィビウスに、俺は頷いて見せた。やっていることは紛うことなきぼったくりだが、嫌なら教会の悪魔祓いに依頼すればいいだけだ。
「分かりました。ではさっそく、儀式の準備に取り掛かりたいところですが」
ちらりとロクサナを見やってから、俺は項垂れるウィビウスに視線を向けた。
「儀式の為には、二人の人間を探し出す必要があります」
「二人の、人間?」
顔を上げて首を傾げるウィビウスに、俺は再び首肯する。
「まず一人目は、口の堅い産婆か医者。儀式の際、ロクサナさんと胎児に万が一のことが起こった場合、直ぐに対応できる専門家が必要です」
「なるほど……」
「といっても、これは俺の方に伝手があるので、ウィビウスさんにはもう一人を探してもらいます」
「それは……」
「ウィーラさんです。少しでも儀式の成功率を上げるため、詳細な召喚方法を知りたい」
通常の下級悪魔ならその必要もないのだが、今回ばかりは詳しい召喚方法を突き止め、文言を調整した方が良いだろう。出来れば使用した召喚書が手に入るといいのだが。
俺の言葉に、ウィビウスは力強く頷いた。
「分かりました。必ず、ウィーラを探し出して見せます」
「ええ、よろしくお願いします」
その後、俺は苦しむロクサナの苦痛を少しでも和らげるために、周囲に簡単な文言をかけた。といっても気休め程度で、治すにはやはり根本的な原因である、悪魔の瘴気を祓うしかないのだが。
苦痛を緩和するための結界を張った後、俺はウィビウスの工房を後にして、停留所に向かうとそこから辻馬車に乗りこむ。
威勢の良さそうな若い御者に少し多めの料金を渡して、行先を告げると。走り出した馬車の中で、俺はロクサナのことを思い出す。
実を言うと悪魔に憑依された妊婦には、嫌な記憶があるのだ。暗く、苦々しく、辛い思い出が。
仕事だと割り切ってはいるものの、じんわりと湧き上がってくる仄暗い感情を振り払うように、俺はてきぱきと仕事道具の確認をする。
一通りの確認が終わったところで、馬車が停車した。俺は馬車から降りると、目的地である、レクイエム横丁の入り口に立つ。
そう。俺の探している人物は、レクイエム横丁の住人なのだ。横丁の中に入り、事務所の入っている建物の前も、バー「サンダー・クラウド」の前も通り過ぎて、奥へ奥へと踏み込んでゆく。
レクイエム横丁の一番奥には、この横丁でも特に怪しい仕事をしている者たちの店が建ち並んでいる。
俺はそんな店の中で、「ナマニク販売所」と「呪い百貨店」の間にある細い通りを抜け、奥にある一軒の建物を目指した。
三階建てのその建物には看板が掛かってはいないものの、入り口に小さく「ユリカゴ産婦人病院」と書かれた、薄汚いプレートがはめ込まれている。
何の躊躇いもなく、俺がドアを開くと。中から女のすすり泣く声が聞こえて来た。
入ってすぐの部屋は待合室になっていて、何人かの女性が暗い顔をして座っていた。女性は腹が大きな者もいれば、普通と変わりなく見える者もいて、俺が目の前を通り過ぎると、微かに顔を上げて反応した。産婦人科に男一人で訪れるのは、珍しいと思ったのだろうか。
俺は真っ直ぐ受付に向かうと、中に座ったにこやかな笑顔の老婆に告げた。
「悪魔祓いのシェーマス・スカイヴェールだ。ドクター・ユリカゴに頼みたい仕事がある。詳しいことは、彼女と直接会って話したい」
「了解しました。お伝えしておきますので、順番までお待ちください」
魔導式回線で俺の話を伝える受付に頷き、俺は待合室の椅子に座った。
他に待っているのが全員女性なことと、診察室の方から時折絶叫や呻き声が聞こえてくることを除けば、待合室は快適だった。魔導式空調機で温度調節がなされており、壁も床もソファーも清潔で、退屈を紛らわすための雑誌まで置いてある。
もっとも。雑誌を手に取って読めるほどのまともな精神状態をしている女は、こんなところには来ないだろうが。
持ち掛ける仕事の交渉について考えながら、俺は本棚の雑誌を一冊手に取って開く。数年前の文芸誌だが、気を紛らわすには十分だろう。
しばらく無心で文字を追いながらページをめくっている間、何人かの名前が呼ばれて、何人かの女性が出て行った。そのことを極力意識しないよう詰めながら、俺はただひたすらに自分の名前が呼ばれるのを待つ。
「シェーマス・スカイヴェールさん。診察室へどうぞ」
げっそりとした表情の女性が、俯きがちに出てきた後。受付の老婆が、俺の名前を呼んだ。読みかけの雑誌を元の場所に戻って、俺は立ち上がると診察室の扉を開く。
交渉の為の台詞はまとまった。あとはそれをぶつけつつ微調整していく、だけだったのだが。
診察室の扉を開いた瞬間、伸びて来た腕が俺の体を拘束し。容赦のない力で締め上げてくる。
「あらあ、シェーマス久しぶりじゃない。一体今回は、どんな女を孕ませたのよ?」
「孕ませてない、そもそも一度も孕ませて来たことないだろ!」
思わず声を荒げつつ、俺は髪の毛を派手なマゼンタに染め上げた、厄介なその女を引きはがす。
長く伸ばしたマゼンタの髪を、独創的な形に結って。口紅と爪も同じマゼンタで塗り、ラズベリー色の目の上には、たっぷりとしたアイシャドウを乗せている。
この場所が診察室であり、彼女が白衣を着ていなければ。目の前のこの女が、医者だとはとても思えないだろう。
「久しぶりだな、ドクター・ユリカゴ」
俺が名前を呼んで、近くにあった丸椅子に腰かけると。ユリカゴはつまらなそうに唇を尖らせて、机の前にある自分の椅子に座る。
かかとの長いヒールを履いた足を組むと、ユリカゴは改めて俺に向き直り、妖艶かつ不敵な笑みを浮かべて言った。
「今回は一体どんな案件なのかしら―――ねえ、シェーマス」
ドクター・ユリカゴについて知っていることは、彼女がレクイエム横丁の奥で産婦人病院を構える闇医者であることと、その稼業で食いつないでいけるだけの腕と胆力を持った人物であるということだけだ。
本名も年齢も一切不明。見た目は女性に見えるものの、本当に「女性」であるかどうかも分からない。魔術と医療技術により、体の何もかもを組み替えていてもおかしくないのが、ドクター・ユリカゴという存在なのだ。
もっとも裏社会で生きる者の礼儀として、ユリカゴの正体について詮索することはしない。そんなことをしても何の得にもならないし、そもそも興味がない。
だが前に仕事を依頼した時に、患者から質問されたユリカゴが、こう答えていたのを耳にしたことはある。
「ワタシがこの仕事をやってる理由?そんなの、生まれてくる新しい命の為に決まってるじゃない」
裏社会の産婦人科医として。堕胎や去勢はもちろんのこと、産んだものの育てられない赤ん坊の人身売買まで仲介する彼女が、そう答えるのはおかしく感じられるかもしれない。実際にユリカゴに問いかけた患者は、冗談だろうとまともに取り合わなかった。
だけど俺は、あの時のユリカゴが本気でそう言ったと思っている。裏社会で生きる人間には、時々自分の行動と信念が矛盾している奴がいる。彼女もきっと、そういう存在なのだろう。
そんな奴らを、嫌う者も多いが。少なくとも俺は、彼女の矛盾を責めることはしないし、責める資格もない。だからこうして厄介な仕事が入った時に、度々協力を依頼しているのだ。
「儀式の付き添いを頼みたい。対象は妊婦で、憑依しているのは下級悪魔だが、妊婦本人ではなく胎児の方に憑依している」
「なるほど……確かにそれは、厄介ねえ」
俺の話を聞いたユリカゴは、露骨に眉をひそめて見せた。
「しかもさらに厄介なことに、依頼人は胎児も救ってほしいとのたまってる」
「うわあ……めんどくさいわね」
思わず口を開いて手を当てるユリカゴに、俺も頷いてため息を吐きだした。
「まったくな。まあ一度引き受けた以上、やれるだけのことはやるつもりだ。ということで、お前に協力を依頼しに来たんだが」
「なるほどね、ワタシの役割はさしずめ、儀式の際に何かあった時の補助と対応ってところかしら」
「そういうことだ。報酬はぼったくった依頼料の三割でどうだ」
「了解。じゃ、今日の仕事が終わったら、さっそく診察に行くから」
「ああ、頼んだ」
近くにあったメモ用紙とペンを手に取り、俺はウィビウスのアトリエの住所を書いて、ユリカゴに手渡す。ユリカゴはそれを長い指で折り畳み、身に纏った白衣のポケットに突っ込む。
金にがめつい他の奴らと違って、ユリカゴは提示した報酬で納得してくれやすいのも有難いところだ。もっともさすがに低すぎれば、彼女も文句を言うのだが、その辺りはしっかりと弁えている。
「シェーマスも誰かを孕ませたら、いつでもいらっしゃあい」
「……そっちで世話になるのはお断りだ」
ユリカゴの余計な軽口を突っぱねてから、俺は診察室を後にすると、カウンターの老婆に依頼した仕事の内容を伝え、病院の薄暗い建物を出た。
路地を抜け、レクイエム横丁の中でも賑わいがある方に向かって歩きながら、俺は頭の中で儀式の段取りを組み立ててゆく。
対象が妊婦である以上、あまり強引な手段は使えない。かといって下級悪魔だからと、生半可な儀式を行えば間違いなく失敗するだろう。
限られてくる手段の中の一つを思い浮かべながら、俺はレクイエム横丁にある一軒の店の前で足を止めた。
緑を基調とした外装のその店には、「ベルトリン植物店」と雑な文字で書かれた看板が掛けられていた。
奥にある店程きな臭くはないものの。非合法な商売の店が建ち並ぶ、この横丁で店を構えるだけあって、それなりの物品を取り扱っている。
ここなら俺の求めるものもあるだろう。頭の中で素早く予算を計算しながら、俺は「ベルトリン植物店」の扉を開いて中に踏み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます