「Purple Disease」
File1 依頼
その日は朝から雨が降っていて。何となく気だるく、起きて身支度を整えた後、俺はぼんやりとコーヒーを淹れていた。
外が暗いことに加えて。昨日買った新聞で、遂にガーエルン帝国との戦争が始まったと報じられていた。
今のところ市街地へ戦火が及ぶことはないが、遠く離れた戦場では今この時にも、魔術や兵器によって人が人を殺している。そう考えてしまうだけで、気分が暗くなって仕方がない。
戦争が始まった以上、今こうして過ごしている日常も、薄氷の上にあるに等しいものなのだから。
朝食の準備をするのも面倒で、パンにスライスしたチーズを挟んだだけのものを齧りつつ、熱いコーヒーで流し込む。お湯の温度が良くなかったのか、今日のコーヒーは心なしか美味しくなかった。
いつもは依頼人が来て欲しいと思うところだが、こんな日は一人でゆっくり過ごしたい。本でも読むか、事務作業でもするか。とにかくこのだるい気分を紛らせながら、無理せず一日を終えるのが理想的なのだが。
理想的、だったのだが。こんな日に限って依頼人が来るもので。事務所のドアがノックされる音に、俺は渋々カップから顔を上げて、居住スペースを出た。
「どうぞ、お入りください」
それでもきっちりと意識を仕事のものへと切り替えながら、俺が扉に向かって声をかけると。扉が開いて、一人の男が中に入って来た。
「お邪魔します」
高身長に、痩せた体躯。やや癖毛気味の栗色の髪に、金に近い色をした瞳。若干神経質そうなところを除けば、整った顔立ちをしている。また身に着けている衣服は高級そうで、特に頭に被ったベレー帽には、高級老舗帽子店の意匠が見て取れた。
「こちら、スカイヴェール悪魔祓い専門事務所でよろしいでしょうか」
「はい。俺が所長の、シェーマス・スカイヴェールです」
俺が胸に手を当てて頭を下げると、緊張気味な表情を浮かべていた男は、ほっと息を吐き出した。
「良かった……間違っていたらどうしようかと」
「大丈夫です、合ってますよ。さあ、こちらへどうぞ」
客人にソファーに座るよう勧めて、俺は居住スペースに引き返すと、来客用のカップにコーヒーを注いで持ってくる。
「それで、本日はどんなご用件で」
カップを置いて男の向かい側に座ると。俺は彼を真っ直ぐ見つめて言った。
男は細長い指でカップを取って、コーヒーを一口飲むと。息を吐き出し、やっと俺の顔を真っ直ぐ見た。
「祓って欲しい、悪魔がいるんです。少し事情があって、教会に頼むことが出来なくて」
「なるほど」
「あ、申し遅れました。僕は、ウィビウス・ストラーヤといいます」
カップを置き、胸に手を当てて名乗ったウィビウスは、俺に依頼の内容を話し始めた。
「今回祓って欲しいのは、僕の恋人であるロクサナに憑依した悪魔です」
事務机からメモとペンを取り、名前をきっちりメモしながら、俺はウィビウスの話に耳を傾ける。
「ロクサナとの出会いは、ヴァルベロン美術館で開かれたアマチュア作品の展覧会でのことでした。僕はこれでも芸術家で、彫刻や絵画を制作してるんです」
コーヒーをもう一口飲み、ウィビウスは天井に視線を向ける。
「あれは、今日のような雨の日でした。悪天候にも関わらず、美術展は大勢の人で賑わっていて。僕の出店した作品を見て、大勢の人が『上手い』だの『美しい』だの、口々にお世辞を述べていきました」
どうやら回想が始まってしまったようだ。正直かったるいものの、こういうところに重要な鍵が隠されている可能性もある為、俺はコーヒーを飲みながら黙って聞くことにした。
「でも僕は嬉しくなかった。僕は自分の作品が、駄作だって分かってたんです。だのにみんな僕の作品を褒めるのは、僕が貴族の令息だからなんです」
苦々しそうに、拳でテーブルを叩いてから。ウィビウスは気を取り直したように、柔らかな表情を浮かべて言った。
「でもそんな中で、ただ一人の少女だけは違った。彼女は僕の作品を見て、『なにこの彫刻、へんなの』と言ったんだ。そんな彼女に、僕はいてもたってもいられずに声をかけた。それが、僕とロクサナの出会いだったんだ」
これは長くなりそうだ。メモを取りつつ、俺は内心でため息を吐きだす。仕事とはいえ、他人の惚気話を聞いて楽しめる男は滅多にいないだろう。
「始めはいがみ合うこともあったけど。僕とロクサナは瞬く間に愛し合うようになりました。僕の世界にはロクサナしかいなくなって、ロクサナの世界には僕だけしかいなくなった。僕には婚約者がいたものの、もうロクサナ以外と結ばれることは考えられなかったんです」
「……婚約者?」
気になる言葉が出てきて、俺がペンを止めて顔を上げると。ウィビウスは険しい表情で俺に向かって頷いた。
「はい。僕にはウィーラという婚約者がいました。親の決めた相手で、僕の家と同程度の貴族の令嬢で。見た目はまあまあですが、性格と頭はあまりよろしくなく、正直ロクサナとは比べ物にならない女でした」
随分とこき下ろすものだ。だがこれで話の展開が読めて来た。悪魔を憑依させる動機として、嫉妬や復讐は最もよくあるものだ。それが痴情のもつれとなれば、猶更のこと。
「だから僕はウィーラとの婚約を破棄し、ロクサナと結ばれることを選びました。家族には反対されましたが、この気持ちが変わることは絶対にない」
「それで、婚約を破棄されたウィーラ嬢は」
「……彼女は僕の選択に納得せず。僕に捨てられたと一方的に思い込み、僕とロクサナを恨み始めました。最初は面と向かって罵ったり、召使を使って嫌がらせをしたりする程度でしたが。僕がそれでも無視をしていると、彼女は僕の前から姿を消しました」
怒りに満ちた声で、ウィビウスはウィーラについて語るものの。元はと言えば、彼がウィーラとの婚約を破棄したのが元凶である。気持ちは分からなくもないが、どうやらこのウィビウスという男は、あまり他人を思いやることが出来ない性格のようだ。
「その直後のことです、ロクサナに悪魔が憑依したのは。他に心当たりもなく、間違いなくウィーラの仕業でしょう」
「で、憑依した悪魔を祓うために、この事務所を訪れた、ということですね」
俺の言葉に、ウィビウスは頷いた。俺はメモを取る手を止めて姿勢を正すと、ウィビウスを真っ直ぐ見つめて真剣な声と表情で告げた。
「この事務所の依頼料は、通常の三倍です。にもかかわらず、教会ではなく潜りの俺に依頼してくるということは、何か事情があるんですね」
「はい。親にロクサナとの結婚を反対されているというものありますが、教会には頼れないというか、ロクサナに悪魔が憑依したことを公に出来ない事情がありまして」
「その、事情とは」
「それは……ロクサナと対面すれば、分かると思います。お願いです、スカイヴェールさん。ロクサナに憑依した悪魔を、祓っていただけないでしょうか。たとえ相場の三倍だとしても、報酬はきっちりお支払いしますので」
頭を下げるウィビウスを、俺は黙って見つめていた。
このところ癖のある依頼ばかりだったが、今回の依頼は珍しくまともそうだ。ウィビウスの話に曖昧なところがあるのは気になるが、報酬もしっかりと支払うと言っているし、久しぶりの普通の仕事を引き受けないわけにはいかないだろう。
俺は背後の仕事机から契約書を取り出すと、頭を下げるウィビウスに対して差し出した。
「分かりました、お引き受けいたしましょう」
「本当ですか……ありがとうございます!」
顔を上げたウィビウスは、安堵したように微笑んでから。ペンを取って、契約書に必要事項を記入する。
仕事の契約が済んだ後、俺は契約書を大切に仕舞うと、改めてウィビウスに向き直った。
「それではまずは悪魔に憑依されているという、ロクサナさんを診察させてもらいますが……彼女は今どこに」
「グルスナーガ地区の二番地にある、僕の工房にいます。先程もお話しした通り、他人に公に出来ない事情がある為、僕がつきっきりで看護するしかないので……」
やはりウィビウスの曖昧な物言いが、どこか気になる。引き返すなら今かもしれない。
だが結んだばかりの契約を破棄するなんて、それこそウィビウスのやったこと以下だろう。引き受けた仕事は、最後まできっちりとこなすしかない。
俺はウィビウスに頷いて、座っていたソファから立ち上がった。
「分かりました、そちらへ案内してください。診察を行いつつ、悪魔憑きを公に出来ない事情をお伺いしますので」
「すみません……ありがとうございます」
ウィビウスは俺に対して静かに頭を下げた。他人を思いやれない男であるものの、ロクサナに対する愛情は本物なのだろう。
もっとも。今回の場合そのことがより一層、嫌な予感に拍車をかけているのだが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます