File3 儀式

 重い両開きの扉を開いて、俺が廃工場の中に入ると。

 中にいたグラファイトの駒たちが、一斉に俺の方へと顔を向けた。皆一様に虚ろな瞳をしていて、己の意志が無いことがはっきりと見て取れる。

 そんな駒たちの奥、相変わらず周囲に性欲に忠実な容姿をした女子を侍らせた、肥満体質の少年。使役のグラファイトに憑依された、ヌーフ少年が顔を上げた。

「……おっさん、こんなところに何しに来たんだ」

 ヌーフはぼりぼりとクラッカーを齧りながら、気だるげに言う。明らかに人を見下したような、言葉と態度をしている。

 俺はそんなヌーフに対して、冷静かつ力強い口調で言った。

「お前を祓いに来た、使役のグラファイト」

 その言葉を聞いたヌーフは、腹を抱えてげらげらと笑い出した。マジックカンテラに照らされた脂肪まみれの顔が、より醜く歪んでゆく。

「ボクに憑いた悪魔を、祓いに来ただって?おっさん、一人で?」

 自分の言葉がツボに入って、ヌーフはまた笑い始める。腹が立つ態度だが、この程度の挑発で苛立ち感じていては、とてもじゃないが悪魔祓いなんかやってられない。

「数の有利って知ってる、おっさん。頭おかしいのか、狂ってるのか、いったいどっちなのさ」

 下品な笑い声を上げる、ヌーフに対し。俺は静かに息を吐くと、彼を真っ直ぐ睨みつけた。

「そうだ、俺は狂ってる」

 ほんのわずかな殺意を込めるだけでも、効果は全然違うもので。俺に睨みつけられたヌーフは表情を凍り付かせ、口から息が短く漏れたのが分かった。

 ヌーフという少年の底を見通すような視線を送りながら、俺は彼に対して言葉を続ける。

「狂ってなきゃ、こんな人数相手に、たった一人で正面から挑んだりしないさ」

「だったら―――」

「もっとも」

 そこで言葉を切ると、俺はヌーフに向かってナイフの刃を向ける。

「悪魔の力に溺れ、己の欲と快楽に溺れた。お前に比べたら、随分とまともだろうがな」

 台詞の終わりと同時に、ナイフの刃を揺らし、俺は文言を唱え始める。

「な……お前たち、かかれッ」

 俺が何かしようとしていることを察したヌーフが、ハムのような片手を上げると同時に。周囲に待機していた駒たちが一斉に立ち上がって、両手を広げて俺に襲い掛かってくる。

 だがその手が俺に届く前に、俺は素早くかつ正確に文言を唱え終える。染みついた詠唱訓練の記憶と、先程の挑発による時間稼ぎにより、時間はむしろ余るぐらいだった。

 文言の詠唱が完了すると同時に、廃工場の外で爆音とともに閃光が迸り、窓の汚れたガラスが音を立てて割れる。

「な、何が起きたんだッ」

 動揺のあまり立ち上がったヌーフだったが、もうすでに手遅れであり。彼の眼前にいる駒たちが、一斉に頭を抱えて苦しみ始めた。

「いったい何を―――何をしたんだッ」

 太い両手を振り回し、叫ぶヌーフに対し。俺はゆっくりと身構えながら、微かな笑みを浮かべて見せた。

 悪魔祓いが神聖魔術を修めるのは、信仰を起源とする魔術だからという理由以外にも、儀式などに用いる対悪魔専用呪文、通称「文言」と非常に相性が良いということがある。

 今回俺が使ったのはそんな神聖魔術の一つであり、地面に打った楔を起点に結界を張るというものなのだが。楔、即ちオノレに打たせたあの釘に仕込んだ術式に、少し手を加えて通常のものから効果を変えてある。

 一つは文言で起動させることができる効果。一つは結界内にいる悪魔の影響を受けた人間の、動きを鈍らせ苦痛を与える効果。

 急ごしらえな一品であるが故に、使役のグラファイトそのものに憑依されたヌーフには効かないが。彼の使役する厄介な駒を押さえつけるには十分である。

 このように、たとえ数で不利を取っていたとしても、入念な準備と計画さえあれば、割と何とかなるものだ。

 その数が脅威となる雑魚さえ何とか出来れば、あとは一人残った大将の使役のグラファイトを、ゆっくり祓うだけでいい。

 はずだったのだが。いつの間にかヌーフの手には、木製の杖が握りしめられていた。

「くそっ……ボクのしもべを役立たずにしやがって、絶対に許さないからな!」

 叫ぶヌーフの周囲に光が反射し、薄い膜のようなものが見えた。

 反呪文結界。多くの呪文を遮断し、防御する無属性魔術のひとつ。どうやら俺に何かされたと気づいたヌーフが、とっさに張ったらしい。

「魔術の心得が、あるんだな」

 俺が言うと、ヌーフはフンと鼻を鳴らして、手に持った杖を構える。

「どうやらボクのことを、随分見くびってくれたようじゃないか。その慢心を、後悔してももう遅いぞ!」

 ヌーフが杖を振ると同時に、結界が分散する。分散した結界は、彼の背後に控えていた二体の駒の周囲へとまとわりついた。これで俺の複合結界の影響を受けない、耐性持ちの駒が完成したということである。

「こいつらはとっておきの二体でね。さあ行け、チュクエメカ、キュッリッキ!」

 ヌーフの言葉を合図に、二体の駒が俺の前に進み出る。

 片方は頭を刈り上げた、筋骨隆々な青年。もう片方はナイフを手に持った、しなやかな体つきの少女。ヌーフの言った名前には、両方とも聞き覚えがある。

 この「黒塗りの十字架」の本来の支配者なのであろう彼らは、焦点の定まらない瞳で俺を見ると、それぞれ戦闘態勢に入った。

 二体一、数の暴力は回避したものの、戦いなれている様子の彼らを一人で相手取るのは、少々厳しいかもしれない。

 通常なら。通常なら、恐らく厳しい戦いになっていただろうが、使役のグラファイトの駒に成り果てている今なら話は違う。

「そのいきったおっさんを殺せ!」

 ヌーフの号令に物騒な号令により、襲い掛かって来たチュクエメカとキュッリッキに。俺はナイフを振るうと、素早く文言を詠唱する。

 神聖魔術との複合術式は、ヌーフの発動した防護呪文に無効化されてしまうが。純粋な文言のみならば、よほど悪魔祓いに造詣が深くない限り無効化することは不可能だ。

悪魔に特化した呪文である文言は、悪魔に憑依された者、またその眷属となっている者に対し、最小の詠唱で強力な効果を発揮することが出来る。

 そう。例えば一言呟くだけで、大きな拳を振りかざすチュクエメカを痺れさせ、もう一言呟くだけで、己のナイフを振り下ろすキュッリッキを眠らせることも可能なのだ。

 がっくりと倒れ込むキュッリッキの横で、俺は麻痺して動かないチュクエメカに軽く蹴りを叩き込んだ。チェクエメカは微かに呻き声を上げると、その場に倒れ込んで痙攣し始める。

「……さて」

 切り札の駒をさっくりと片づけた俺は、改めてヌーフに向き直る。彼を、彼に憑依した使役のグラファイトを、挑発するための嘲笑を浮かべて。

「これでお前の手駒は、全て無力化したわけだ。あとはお前をじっくり祓うだけだな、グラファイト」

「く……よくも、ヨクモ、ボクノ下僕ヲ!」

 挑発されたヌーフの周囲に、微かな靄のようなものが現れる。どうやらやっと、悪魔としての本性が見えてきたようだ。

 俺に向かって杖を向け、詠唱を始めるヌーフに対し。俺もナイフを振るいながら、素早く文言を詠唱していく。

 使役のグラファイトの儀式では、その配下である駒を必ず掃討する。そうすることで駒を支配してお山の大将となっている憑依者を裸にし、己の無力さを痛感させることが、祓うための条件なのである。

 その条件を満たした今となっては、向こうが魔術の詠唱を終える前に、分離と退散の文言を唱えるのみ。つまりあとは、詠唱の速度勝負ということだ。

 いくらブランクがあるとはいえ、現役時代に死ぬほど鍛えさせられたのだ。ヌーフの詠唱が三分の一ほど終わった時点で、俺は顕現と分離の文言を立て続けに叩きこむ。

「ガハッ」

 よろめくヌーフの体から、使役のグラファイトが分離する。無骨な金属が寄り集まったような、堅牢にして歪な見た目をしたグラファイトは、金属の軋む耳障りな音を立てながら呻く。

「グググ……ヨクモ……ヨクモ……」

 これで後は、退散の文言を刻み込んでやるだけ。だったのだが。

 ナイフを振り下ろそうとした俺の腕に。背後からいつの間にか伸びてきていた、植物の蔓のようなものが巻き付いたのだ。

「な……」

 自身の体から分離した使役のグラファイトの元で。ヌーフがゆっくりと、顔を上げる。脂ぎった顔面には汚い汗粒がびっしりと浮かんでいたが、その表情は必死そのものだった。

「……お前も予め、仕込んでたのか」

「ああ!この廃工場の地面には、術式を仕込んだ植物の種が埋まってるんだ!本当はへまをやらかしたしもべに制裁を加えるためのものだったんだけど……まさかそれが、こんなふうに役に立つとはね!」

 術式をあらかじめ仕込んだ種なら、短い起動用の呪文を詠唱するだけで、強力な効果を発揮することが出来る。俺の張った結界が、そのいい例である。

 荒い呼吸を繰り返しながらも、ヌーフは杖を持って追加の植物魔術を詠唱する。地面を突き破って生えた蔓は、たちまち俺の体を拘束し縛り上げる。

 別の蔓が俺の手に打ち付けられ、持っていたナイフが地面に落下する。これで俺は、獲物を失ったわけだ。

「ふ、ははは、手こずらせやがって……」

 ヌーフが杖をひと振りすると、蔓が俺の両手を拘束する。万事休す、と思っているのだろう。

 額から流れ落ちる滝のような汗を拭って、ヌーフは分離した使役のグラファイトを見上げる。

「危ないところだった……まったく」

 ポケットから冊子を取り出すと、ヌーフは空中を漂う使役のグラファイトに杖を向ける。冊子の装丁には見覚えがある、あれがスアンの作った召喚書だ。

「さて、何とかして、グラファイトをボクの中に戻さないと……」

 俺を拘束したことで油断が生まれ、ヌーフの意識が使役のグラファイトへと向く。グラファイトの方も、ヌーフの体に戻ろうと宙で蠢き始める。

 その僅かな隙さえあれば十分だった。俺は拘束された腕を動かし、スアンの店で仕込んできた魔道具のスイッチを入れる。

 マジックマッチの強化版と言える、マジックライター。これはそんなマジックライターの改造品ともいえる代物で、スイッチを入れると前方に向かって真っ直ぐ火柱が発射される。

 射程距離は短いため、基本的に簡単な加工や着火にしか使い道はないが。こうして腕と体に巻き付いた、植物の蔓を焼き切るには十分である。

「―――な」

 再憑依する前なら、退散させるのは非常に容易いことで。転がっていたナイフを拾い上げると、俺は素早く退散の文言を刻みつける。

「ア―――グギギャアアアァァァ……」

 ぎしぎしと不快な音を立てながら、使役のグラファイトは絶叫を上げながら散ってゆく。駒の軍団さえ何とか出来れば、祓うのは容易い悪魔なのだ。

 残されたヌーフはがっくりと膝をついて俯く。手からは杖が転げ落ち、彼は太い腕をぎゅっと握りしめて、震える声で言った。

「なん、で。なんでそんなものを、仕込んでたんだ。まるで……まるでボクが植物魔術を使うって、知ってたみたいじゃあないか」

「ああ、知ってたさ」

 ナイフを仕舞いながら、俺はこともなげに頷いた。

 オノレに結界の下準備として、廃工場の周囲に釘を打ってもらっている間。俺はヌーフ、本名ヌーフ・フリャスカヤというこの少年について、一通り調査を行っていたのだ。


 彼の本名はヴァルベロン表通りの役場前に設置された、公共掲示板ですぐに見つけることが出来た。

あまり似ていない似顔絵が描かれた、行方不明の貼り紙。紙がだいぶ傷んでいるところからして、貼られてから長い時間が経っており、かつ貼り替えることもしなかったのだろう。

 貼り紙に描かれた住所によると、フリャスカヤ家はリルバーン地区にあり。馬車を飛ばして訪問すると、中年の太った女性が対応してくれた。

「何の用ですか、この忙しい時に」

 対応が面倒だということを、一切隠す様子もなく顔に浮かべて見せる女性に、俺は営業スマイルを貼り付けて言った。

「お初にお目にかかります。公共掲示板の、貼り紙を見てきました」

「……そんな貼り紙、出してませんけど」

 女性は眉を寄せて考え込む。どうやら本当に覚えていないようだ。それでも俺は根気強く、にこやかな表情のまま言った。

「確かに貼られてから時間は経っているようでしたが、街中で貼り紙に描かれていたヌーフくんとよく似た人物を見かけたんです。ヌーフ・フリャスカヤくん。お宅の息子さんで間違いないですよね?」

「……ああ」

 名前を出したことによって、女性はやっと思い出したように手を叩く。しかしその表情に喜びの色が広がることはなく、むしろ逆に眉間にしわが寄って、より一層面倒くさそうな顔になった。

「あのろくでなしの次男坊のことなら、ほっといてくださって結構です。世間体もあって捜索の貼り紙は出しましたけど。正直見つからない方が、こちらとしても都合がいいんですよ」

「そうですか……」

「ええ。ですから賞金目当てでいらっしゃったのなら、期待外れもいいところですわ。お帰りください」

 女性は俺の返答も聞かずに、家の中に引っ込んで扉を閉めた。中から男のものらしい、話し声が微かに聞こえる。

 俺はため息を吐きだすと、玄関のすぐ近くにあるポストに近づく。鍵はかかっているものの、魔術対策は一切なされておらず。簡単な術式が仕込まれた針金で、すぐに開錠することが出来た。

 中には数枚の広告と、一通の封筒が入っていて。封筒の表面にヴァルベロン屈指の魔導学校である、「ラルヴィックル魔導魔術学院」の校章が印字されているのを確認すると、俺は封筒を戻してポストを閉じた。

 ラルヴィックル魔導魔術学院は、ヴァルベロンの中でも五本の指に入る名門校であり、小等部から高等部まで、将来この国を支えることになる有望な魔術師の卵が通っている。

 ヌーフはこの学院に通っていたのだろうか。近くまで馬車で乗り付けた俺は、校門の近くでナイフを取り出す。

 さすがにこの学園に通う大勢の生徒の中から、ヌーフに近しい生徒を見つけ出すのは骨が折れる。そのため神聖魔術を悪用して、色々と楽をしようという魂胆なのだ。

 校内に進入するには、厳重な警備を潜り抜けなければならないが。学校から出た生徒に関しては、その限りでもない。

 ということで学校の校門前に、神聖魔術の一つである「ビジブル・コネクション」の術式を設置する。これは特定の人物と接点がある人間に反応する魔術で、ヌーフ・フリャスカヤの名前を術式に組み込んでおいた。

 あとは反応するのを待つだけだったが。ちょうど授業が終わる時刻となり、外出する生徒たちが校門からまばらに出始めた直後、すぐに術式に反応があった。

 術式が反応したのは、髪色を鮮やかな緑色に染めた背の低い少年で、俺は軽く身だしなみを整ええると、堂々とした態度で近づいて声をかけた。

「キミ、少し話を聞いてもいいだろうか」

 はきはきとした声で言いつつ、偽造した悪魔祓いの証明書をチラ見セする。少年はすぐにぴんと背筋を伸ばし、緊張した表情を浮かべた。

「あ、悪魔祓いさんが、何でしょう」

「ヌーフ・フリャスカヤという少年について調べている。彼について知っていることを、何でもいい、話してくれないか?」

 はっきりと力強く、だが優しい声で少年に言うと、緑髪の少年は頷いてヌーフについて話し始めた。

 元々、ヌーフは特進クラスの生徒だった。特に植物魔術は目を見張るような才能があり、成績上位の常連だったという。

 しかしどこか尊大な態度と、お世辞にも良いとは言えない外見が相まって、彼の才能を妬む者たちから手酷くいじめられていたらしい。

 執拗ないじめによって、成績はみるみる落ちてゆき。地位と世間体を何よりも大切にする、実家から度重なる叱責を受けたことも相まって。ついには普通クラスに落ちたヌーフは、ある日学校から姿を消したという。

「……気に食わないやつでしたけど、ここまで見事に転落すると、ちょっと哀れに思えます」

 緑髪の少年は、何とも思っていなさそうな顔で、最後にそう締めくくった。

「ありがとう。参考になった」

 少年に礼を言い、俺はその場を立ち去ると、馬車の停留所に向かいながら懐中時計を取り出して時間を確認する。

 時刻は午後四時を少し回ったところであり。これなら廃工場に戻る前に、スアンのところに寄れそうだった。

 確か「すずらんの処女」では、少数ながら魔道具を取り扱っていたはずだ。ヌーフが植物魔術を使うというのならば、火炎魔術を素早く行使できる魔道具を拝借していけばいいだろう。

 敵を知ることは、それだけ有利になるということである。それが軍団の長となれば、なおさらのこと。

 こうして情報を集めるのもまた、勝利を手にするための事前準備の一つなのである。


「くそ……クソッ」

 悔しそうに拳で床を殴りつけるヌーフに、俺は背を向ける。周囲では使役のグラファイトによる支配の魔法が消えたことにより、結界の効果からも解放された「黒塗りの十字架」のメンバーが、徐々に意識を取り戻しつつあった。

「待て、くそ、逃げるのか!」

 立ち去ろうとした俺に、ヌーフが叫ぶ声が聞こえた。俺がとどめを刺すとでも、思ったのだろうか。

 立ち止まって、一瞬だけ振り向くと。俺はヌーフに冷ややかな視線を投げかけた。

「俺は悪魔祓いだ。使役のグラファイトを祓うという仕事は終わった。残されたただの哀れな少年に、用なんてないさ」

 ヌーフは何か言おうと口を開きかけたが、何も言わずに俯いた。俺は改めて彼に背を向けると、廃工場から足早に立ち去る。

 正面の扉から外に出たところで、後ろから溢れんばかりの怒声と暴力の音が聞こえて来た。別に俺が制裁を加えずとも、今まで駒として操られてきた者たちが、彼に報いを受けさせることだろう。

 廃工場の敷地から出たところで、ポケットから煙草を取り出してマジックマッチで火をつける。ついでに使い切った魔道具を腕から外しておいた。

 後はゆっくりと煙草を味わいながら、辻馬車の停留所に向かうだけだったのだが。

「スカイヴェールさん」

 歩き出そうとした瞬間、闇の中からオノレが姿を現した。どうやら帰るふりをしてずっと、暗闇に紛れて俺のことを待っていたらしい。

 オノレはちらりと廃工場の方に視線を向けてから、煙草を揺らす俺に向き直る。

「……終わったんすね」

 俺はオノレに対し、何も言わずに頷いた。オノレも俺に頷き返すと、ヌーフに対し凄惨な制裁が行われているであろう廃工場に背を向けて、振り返らずに歩き出す。

 オノレも俺の隣を無言で歩いていたが、やがてぽつりと呟いた。

「黒塗りの十字架は……これから……」

「それは、お前たち次第だろうな」

「……」

 他人が見れば単なる不良少年の集まりでも、彼らにとっては掛け替えのない場所なのだ。使役のグラファイトによって凌辱されたその場所がどうなるかは、今はまだ分からない。

 傷の痛みが明るみになるのは、これからのことだろう。生半可な気持ちで悪魔に手を出したその報いを、彼らは受けることとなる。

「……スカイヴェールさん」

 煙草を吸いながら歩いてゆく俺に、俯きながら進むオノレが言った。

「煙草って、美味しいんですか」

 それは。これからまた変わってゆく現実に対する、恐怖から来た言葉かもしれない。だが同時に力強い意志も、確かに含まれていたのだ。

 だから俺はたったひとりで決断し、行動をした彼に対して、微かに微笑んで見せた。

「仕事が終わった後のやつはな」

 今はまだ幼いこの少年も、いつかは煙草の味が分かる大人になる日が来るのだろう。

 このオノレという少年はきっと、強い大人になるのだろう。自分たちの犯した罪に伴う、責任と代償に向き合うことが出来るのだから。

 もっとも。三十路手前で潜りの悪魔祓いなんかをやってる、俺の予測なんかまるであてにならないことだろうが。

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