File2 準備

 シルマヴィット地区は、ヴァルベロンの西端に位置している地区である。

 主に企業や国の所有する工場が建ち並び、工業製品や保存食、マジックマッチなどの魔道具の生産を行っている。ヴァルベロンで暮らす下級層の市民の多くは、これらの工場での労働で家族を養っており、一部の工場には社員寮が併設されているものもある。

 だがお世辞にも労働環境はよろしくなく、十時間以上休憩なしで働かされたり、些細なミスにより給料が半減したりという悲惨な噂話をよく耳にする。

 そんな環境に比例するように、地区内の治安もヴァルベロンで一、二位を争う悪さであり、路地裏で男が集団リンチに遭っていたり、工場の片隅で怪しげな取引が行われていたりするのも、この地区では日常的に見られる光景である。

 そんなシルマヴィット地区の一角にある廃工場が、不良グループ「黒塗りの十字架」のアジトだった。

「……ふむ」

 落書きだらけの廃工場を一瞥すると、俺は周囲の確認を始める。廃工場は凸字の形をしていて、凸字の出っ張った部分に正面の入り口が、反対側に二か所裏口が設置されていた。正面の入り口には鎖で施錠された痕跡があるが、錠前は錆びついて鎖が断ち切られて近くに転がっている。

 建物の側面には大きな窓があり、汚れた窓には板が打ち付けられて封鎖されているものの、一部の釘が外れて隙間が出来ており、ガラスが割れて欠けたところから、中の様子を伺うことが出来そうだった。

「……あの」

 コンパスを持って方角を確かめ、手帳に簡単な地図を描き込むと。俺は戸惑った様子のオノレを振り向いた。

「この中に、例のヌーフという少年が」

「そのはずっす」

 頷いたオノレに頷き返し、俺は割れた窓から廃工場の中を覗き込む。

 覗き込んだ瞬間、俺の目に飛び込んできたのは。胸のでかい少女とねっとりとしたキスを交わす、小太りの少年の姿だった。

「あー……」

 少年はぐちゃぐちゃとキスを続けながら、少女の豊満な胸を揉みしだく。そんな彼らの周囲には、布面積の少ない衣装を身に着けたこれまた発育の良い少女二人と、山のような食べ物や飲み物、そして床に跪く数十人の不良少年たちの姿があった。

「あいつ……キュッリッキの姉御にあんなことを……許せねえ!」

 俺の背後から中の様子を覗き込んだオノレが、怒りに震えて拳を握り締める。俺はそんなオノレに対し、唇に人差し指を当てて見せてから、道具箱から鏡を取り出す。

 欲望の赴くままにやっているヌーフに対し、鏡を向けて小さな声で文言を唱えると、はっきりと使役のグラファイトに憑依されている反応が出た。

 診察を終えた俺は鏡を仕舞って窓から離れると、なおも中を覗き込んでいたオノレを手招きで呼び寄せる。

「……スカイヴェールさん」

「怒りたくなる気持ちは分かるが、今は抑えろ。感情に任せて突っ込んでも、ろくなことにならないぞ」

 他人を意のままに操って支配できるのが、使役のグラファイトという悪魔なのだ。そんな悪魔に憑依されたら、好きな相手を思うがままにしたいというのは、人間という生き物の仄暗い性なのだ。

 オノレにとっては、自身の所属する集団がめちゃくちゃにされているのは、耐え難いかもしれないが。俺からすればこの程度の光景なんて、嫌というほど見慣れている。

 ともかく相手の戦力は大体わかったのだ。駒が少年少女数十人なら、予め考えていた方法が通用するだろう。

「……オノレ、お前に任せたい仕事がある」

 道具箱の中から俺は小さなケースを取り出すと、先程手帳に書いた地図にいくつか印を書き込んでページを破り取った。

「これは?」

「このケースの中に入っている釘を、この地図の位置に打ち込んでくれ。もちろん、中にいるヌーフに絶対にばれないようにだ」

 地図とケースを差し出すと、オノレはそれを素直に受け取った。俺は頷き、オノレの肩を叩く。

「俺はその間に、色々と準備をしてくるから」

「分かりました、スカイヴェールさん」

 力強く頷いたオノレに背を向け、俺は辻馬車の停留所へ向かう。

 自分より数のある相手と戦う時に、何よりも重要なのは下準備である。

 相手のことを調べ、十分に策を練り、調整と仕込みをあらかじめ済ませたうえで、しっかりと天に対して祈りを捧げておく。

 といっても今回は、オノレがしっかりとやってくれれば祈る必要もないだろう。スアンを脅す話術と、使役のグラファイトへの憑依耐性がある彼なら、例えヌーフに気づかれたとしても与えた課題をこなしてくれるだろう。

 だったらその間に、俺もやるべきことをやっておかなければ。頭の中で着々と計画を練り上げながら、俺は辿り着いた停留所で、一台の辻馬車に乗り込んだ。


 一通りの準備を終えた後、俺はスアンの店にやって来ていた。

 スアンの店「すずらんの処女」の店内は、彼の趣味でファンシーに飾り付けられていることを除けば、一見普通の書店に見える。実際に売られている書籍には認識改変の魔術がかけられ、先に店主のスアンに話しかけ魔術を妨害する名札を貰わないと、それが悪魔の関連書籍であると認識できない仕組みになっているのだ。

 しかし今回俺が求めているのは、悪魔関連の書籍ではない。スアンから名札を貰った俺は、店の隅の棚に置かれている、魔道具を一つ手に取った。

「これ、貰ってくぞ」

「買う、じゃなくて貰うんだね、シェーマス」

「必要経費だ、このぐらい」

 頂いた魔道具を服の中に仕込むと、俺は近くに設置された椅子に座り、レースのクロスがかけられたテーブルに、懐から取り出したナイフを置く。

「そうだ。ついでにここで、メンテナンスしていってもいいか」

「もちろん。何なら僕に任せてくれても―――」

「お断りだ。ただでさえ繊細な物なんだ、お前にやらせると壊れるどころか、魔術が逆流してもおかしくない」

「……酷いなあ」

 頬を膨らませるスアンは無視して、俺は己の獲物であるナイフを、丁寧に点検していく。

 錆はなし、刃こぼれもなし、汚れも大丈夫。日頃からしっかりと手入れしているだけあって、外面に傷一つなかった。

 しかし肝心なのはここから。俺はナイフの柄に触れると、文言を唱え始める。

 悪魔の使う魔法とは違い、魔術というものはこの世に存在する見えないエネルギーを、術式や呪文で形にして使用するものであるが。術式とエネルギーのパイプ役となるのが、杖という訳である。

 俺のナイフ、剣杖の刃には専用の細かい術式が刻まれていて、唱えた呪文や文言に反応して起動する。

 今唱えたのはその術式に不具合が無いか、確認するための文言であり。文言に反応して普段は目に見えない術式が、赤い光の筋となってナイフの刃に浮かび上がる。

「凄いな……」

 横で調整の様子を眺めるスアンが、息をのんだのが分かった。だが集中力を必要とするこの作業の間、余計な茶々を入れる奴に構っている余裕はない。

 俺がさらに文言を唱えると、ナイフに通った光の筋が赤から青色へと変わってゆく。この変化は、ナイフの術式が問題なく機能することを示しているのだが。

 果たして、全ての筋が綺麗な青色に変わり、俺は調整を終了させる文言を唱えると、光の筋が消えたナイフを懐に仕舞った。

「よし、これで準備は完了だ」

「そのナイフ……かなり良いものみたいだけど、一体どこで手に入れたんだ?」

 コートの襟をきっちりと締める俺に、スアンが興味に目を輝かせた顔を向けて来た。俺はそんなスアンに対して、少し苦い顔をして見せる。

「これは、餞別だよ。昔のな」

「ふーん……」

 初めて握った時から、このナイフは俺の全てを見てきた。暗いところも醜いところも、何もかも。

 俺は今独りで悪魔祓いをやっているが、もし相棒がいると思うのなら、このナイフこそが相棒なのだろうと思う。

 なんて考えながら、俺は支度を終えて「すずらんの処女」を出ようとしたのだが。

「ちなみに、なんて名前なんだい」

 背後からスアンに聞かれて、俺は立ち止まって振り向く。

「名前はない。つける必要もないからな」

「へぇ、なんで」

「こいつは俺の分身であり、俺自身だからだ」

 俺はありのままの言葉を言ったつもりだったが、スアンは目を丸くすると、途端に笑い出した。

「また、格好つけちゃって。そんなこと言って、本当は良い名前が思いつかないだけじゃないの?」

「うるさいな。それよりも必要経費は、後でまとめて請求するからな」

「はいはい。それじゃあ、いってらっしゃい」

 手を振るスアンにため息を吐きだして、俺は今度こそ「すずらんの処女」を後にする。

 このナイフを手にしてから、もう随分と長い月日が過ぎたものだが。今晩は久しぶりに、その力を思い切り振るうこととなるだろう。


 俺がシルマヴィット地区の「黒塗りの十字架」のアジトに戻ったのは、夕方の七時を回った頃のことだった。

 日が落ちて辺りが薄暗くなったことにより、廃工場の汚れた窓から見える明りが際立っている。恐らくマジックカンテラでも、持ち込んでいるのだろう。

「オノレ」

 廃工場の前に着いた俺が小さく名前を呼ぶと、建物の陰から動く気配があり、手招きする手が見えた。

 俺が近づくと、全身砂埃にまみれたオノレが姿を現し、安どのため息を吐きだす。

「良かった……来てくれなかったらどうしようって思ってたっすよ」

「依頼を受けたのに逃げるはずがないだろう。それよりも、所定の場所に釘は全部打ったか」

 廃工場の様子を伺いながら投げかけた俺の問いに、オノレは頷いて空のケースと汚れた地図を見せる。

「ちゃんと。大変でしたけど、頑張りましたよ、俺」

「よし。それじゃあお前はもう、家に帰ってろ。あとは全部、俺が片付ける」

 引き続き廃工場の様子を確認しながら、俺がオノレに告げると。オノレは戸惑ったような声を上げた。

「え……どういうことですか?」

「どういうこと、とは」

「その……まさかスカイヴェールさん一人で、中に入るつもりじゃないっすよね」

 不安げなその言葉に、俺はオノレを振り向くと、にやりと笑って見せた。この薄暗闇では見えないだろうが、雰囲気が伝われば十分だ。

「そのまさかだ。そのためにお前に、準備をしてもらったんだろう」

「でも……あまりにも、多勢に無勢じゃないっすか。相手は数十人いるんですよ?スカイヴェールさん一人で、さすがに勝てるわけが―――」

「じゃあ、お前がいれば、二人なら勝てるのか?」

 俺の言葉に、オノレが押し黙ったのが分かった。

 そう、この人数相手では、一人増えただけで大して変わらない。むしろ庇ったり守ったりする必要が無い分、二人より一人の方が動きやすいのだ。

 要するに、足手まといになるから帰れと言っているわけだが。やっと俺の意図に気づいたオノレは、一瞬何か言いたそうにしたものの、黙って頷いて背を向けた。

 オノレが走り去り、その姿が見えなくなるのを闇に慣れた目で確かめてから。俺はゆっくりと廃工場に視線を戻し、懐から相棒のナイフを取り出した。

「よし、行くか」

 準備は万全。ならばあとは、敵をねじ伏せ悪魔を祓うのみである。

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