File4 儀式
以前、この部屋は暖かく心地の良い、子供部屋だったのだろう。
だが今は荒れ果て、破け綿の出たぬいぐるみが床に転がり、ドレッサーの鏡はひび割れ、歯の欠けたオルゴールが不愉快なメロディーを垂れ流している。
もっともこのぐらいなら、悪魔が憑依された人間のいる部屋としては、よく見るレベルと言えるのだが。
部屋の中央に置かれた、天蓋付きのベッド。そこにこの部屋最大の異常があった。
ベッドの上にはシルクのネグリジェを身に着けた、一人の少女が横たわっていた。それだけならいいのだが、問題は少女がとっくに死んでいるということであり。
かけられているはずの腐敗防止の魔術は、とっくにその効果を失って。死肉は腐り虫が湧いて、耐え難い異臭を放っていた。
あれがメグ、いや、かつてメグだったものなのだろう。伯爵が愛した娘の成れの果て。可愛かったのであろう娘も、今やただ崩壊していく腐敗物に過ぎない。
だが。メグの死骸に、代替のフランボワーズは憑依していなかった。メグの死骸があるのは僥倖だが、リインの話からすでに「代わっている」とは思っていた。
ベッドの手前に置かれた、一人掛けの椅子。そこにフランボワーズは座っていた。傷んだ声帯から発せられる、調子の狂った歌を口ずさんでいる。
「……フランボワーズ」
俺が名前を呼ぶと、フランボワーズは歌うのをやめた。
「おじさん。どうしてここに?」
「お前を、祓いに来た。代替のフランボワーズ」
「……わたしはそんな名前じゃないよ。わたしは」
染みだらけのドレスの裾を持って立ち上がると、フランボワーズはゆっくりと振り向く。
「メグ。メグ・グルスシルフだよ」
右目の眼窩から垂れた眼球、腐ってびっしりと蛆の湧いた頬。陥没した頭からは、血の気の無い脳みそが覗いている。
「ひっ……う、おえええぇぇぇ……」
背後でメイシーが息を飲んで、そのまま嘔吐する音が聞こえた。無理もない、俺もこの悪魔に初めて挑んだときは、同じような反応を示したものだ。
代替のフランボワーズは、死体に憑依させる悪魔だ。憑依すると依り代となった死体の生前の行動を模倣し、召喚者の望むままに動くようになる。
それだけならいいのだが、問題は憑依している間も依り代の腐敗が止まらないということで。ある程度腐敗が進行すると、フランボワーズは取り入った召喚者に新しい依り代をねだるようになる。
拒否した場合、フランボワーズは召喚者に牙をむくのだが。大抵の召喚者はフランボワーズの要求を受け入れ、新たな依り代、つまり新たな死体を用意することになる。
伯爵もその道を辿ったのだろう。崩壊しているとはいえ、目の前のフランボワーズには、街で見かけた行方不明の貼り紙にあった、少女の面影がどことなくある。
「お前はメグじゃない。無関係な少女の死体に憑依した、胸糞の悪い悪魔だ」
ナイフを構えて、俺は真っ直ぐフランボワーズと対峙する。厄介な悪魔だが、祓うこと自体はそこまで難しくない。
臨戦態勢を取ったことにより、フランボワーズも俺が本気で祓うつもりだと気づいたのだろう。
「おじさん、メグに酷いことするの?」
少女のものとは思えない、冷たい声と共に。腐敗した肉体の周囲に、見えない障壁が現れる。
「やだ!やめてよ、やめてよ、ヤメロ!」
フランボワーズが叫ぶのと、俺が防壁の文言を口にしたのは同時のことだった。
フランボワーズの一声によって、部屋の壁に亀裂が走った。部屋全体が震えて軋み、立っているだけでも苦労する。
が、防戦一方というわけにもいかない。防護壁を張りつつ、俺は障壁を解除するための文言を唱える。
「ツッ―――」
文言を受けたフランボワーズが、よろめくのが分かった。ナイフを振って、そこにすかさず突破の文言を叩きこむ。
「ぐ―――ぎゃあッ」
突破の文言により、障壁が破られるとともに、フランボワーズの肉体が後方に吹っ飛び、ベッドの上を通り抜け、奥の壁へと叩きつけられる。肉片と数匹の蛆が飛び散ったが、俺は気にすることなくナイフを振るい続ける。
「ヤメロ!ヤメロ!」
叫び続けるフランボワーズに、俺は拘束の文言を叩きつけると、メグの死体があるベッドへと駆け寄る。
後はこの死体を使って、とどめを刺すだけなのだが―――。
「……やめろ」
俺がメグの死体にナイフを向けた時。背後から低い男の声が聞こえた。
「メグから離れろ」
ナイフを振る手を止め、俺が振り向くと。
そこにはガウンを羽織った一人の男がいた。男の手には短剣が握られており、短剣の刃は真っ直ぐ、メイシーの喉へと向けられていた。
「キップリング、さま……」
キップリング。名前を呼ばれた男は、伸びたぼさぼさの黒髪を振り乱しながら、血走った目で俺を睨みつけた。
「この女を殺されたくなければ、今すぐメグから離れろ。そしてこの城からとっとと立ち去れ」
「……キップリング伯爵」
内心で湧き上がってくる動揺を抑えつけて。俺は冷静を装って、静かに言った。
「あれはメグじゃない。あなたも分かっているはずだ」
「うるさい!」
黄ばんだ歯をぎりぎりと軋ませながら、キップリング伯爵は短剣を持った手を不安定に動かす。何度か刃先がメグの首筋に触れ、微かな傷をつけるのが恐ろしかった。
「私の可愛いメグが、井戸なんかに落ちて死ぬはずがない!メグは、メグは今でもそこにいる!」
「おとうさま、おとうさま……」
背後で拘束されている、フランボワーズが悲し気な声を上げた。今すぐにでも黙らせてやりたいところだが、それが出来ないのがもどかしい。
「キップリングさま……どうか……どうか目を……」
震えながらも、キップリング伯爵を説得しようと言葉を紡ぐメイシーに、俺は素早く目配せをする。
何を言っても無駄だ。完全に正気を失っている。彼は完全に、あの動く死肉を自分の娘だと思っているのだ。
この部屋に入る前なら、知らん振りをして立ち去ることもできたが。この状況で、フランボワーズを放置することは出来ない。一度儀式に失敗した悪魔は、より狡猾で強力になるからだ。
かといって強引に突破しようとすれば、メイシーの命が危ない。既に数人の少女に手をかけているのだ、殺人に対する抵抗感なんて微塵も持ち合わせていないだろう。
万事休す。俺は静かに、キップリング伯爵のことを睨みつけた。
こうしている間にも、フランボワーズにかけた拘束の文言は弱まっていっている。時間が無い、すぐに次の行動を決めなければ。
悪魔を優先するか、依頼人を優先するか。俺はそっと目を閉じ、息を吐き出した。
そんなもの、決まってるじゃないか。
「―――無様だな、シェーマス!」
覚悟を決めた、俺が目を開き。行動に移ろうとしたその瞬間、聞き覚えのある声が聞こえた。
揺れる蒼い髪、オリーブ色の瞳。強気な笑みを浮かべながらも、一切手を抜くことはない。
キップリング伯爵の背後に姿を現したリイン・インソードは、彼の首を素早く絞めると、よろめいたところで短剣を持った腕を掴み、容赦なくへし折った。
「げほっ……な、なにをす―――グアアアアァァァァッ!」
「何か隠してるんじゃないかと思って、尾行して正解だった。全く、この程度のことで追い詰められるなんて、元一級悪魔祓いが聞いて呆れる」
床に落ちた短剣を蹴り飛ばし、キップリング伯爵の脇腹に蹴りを叩き込みながら、リインは驚きに目を見開く俺に向かって叫ぶ。
「何をやってるんだ、シェーマス!早く祓え!」
「……ああ!」
リインの言葉に俺は頷き、フランボワーズへと向き直る。
中級悪魔である代替のフランボワーズを祓うには、弱点を突いた儀式を行う必要があるが。
フランボワーズの弱点は、所詮オリジナルの摸倣に過ぎないということ。つまりそれを否定し、オリジナルの権威を示せば、簡単に祓うことが出来る。
通常の場合は、元となった人物の肖像画などを使うのだが。今回の場合はもっといいものがある。
目の前のベッドに置かれた、メグの成れ果て。俺はナイフを振るい、本物のメグの死体に文言をかける。
すると腐っていた肉が元通りになりはじめ、汚れ果てたネグリジェも綺麗になって行く。
「ア……ア……」
一見再生しているように見えるが、実際には肉に刻まれた記憶を幻覚として投影し、巻き戻しているだけだ。だがお粗末な摸倣を得意とする悪魔には、オリジナルの美しく可愛らしい姿は、非常に刺激が強いものである。
拘束の文言が解かれると同時に、フランボワーズが揺らぐのが分かった。そこに素早く、分離の文言を叩きこむ。
「ヤダ、ヤダ……アアアァァァッ!」
滞りなく、分離したところで。退散の文言を叩きこむと、フランボワーズが霧散したのが分かった。
儀式完了。俺はナイフを下げて、額の汗を拭う。目の前の本物のメグは、元の死肉へと戻っていた。
「ありがとう、リイン。助かった」
振り向きながら俺が言うと、キップリング伯爵を叩き伏せていたリインは、腕組みをしながら鼻を鳴らした。
「腕が落ちたんじゃないか、シェーマス」
「……そうかもな」
そう言って俺が少し笑うと、オリーブ色の瞳に睨みつけられた。
「後のことは私がやっておく。お前はこの女を連れてさっさと立ち去れ」
気の済むまで俺を睨んだ後、リインは床にへたり込んでいるメイシーを顎でしゃくった。俺は頷き、メイシーに手を差し出す。
「立てますか?」
「は、はい……あの」
俺の手を取って立ち上がりながら、メイシーは倒れて伸びている伯爵に視線を向ける。
「キップリングさま……彼は一体、どうなるんでしょうか」
「悪魔召喚及び誘拐と殺害の罪で、良くて一生監獄、悪くて死刑だろうな」
俺の代わりに答えたリインに、メイシーは一瞬だけ否定するような顔をしてから、すぐに目を伏せて疲れ切ったように息を吐いた。
「そう、ですか……」
「ああ。いくら動機が悲劇的とはいえ、無関係の少女が犠牲になってるんだ。自分のやったことの報いは、しっかりと受けるべきだ」
「……」
リインのその言葉は、半ば俺に対して向けられているような気がした。
だから俺はメイシーの背中を優しく叩き、逃げるように部屋を出た。
最後に一言、振り向かずに。
「……またな」
小さく呟いて、俺は弱り切ったメイシーを気遣いながら城を後にした。
リインから返事はなかった。彼女が何か言ったとして、俺にはきっと聞こえなかった。
キップリング伯爵と、メイシーの関係がそうであったように。俺とリインの関係もまた、一言では言い表せないものだ。
いつか絡まった糸がすべてほぐれる日が来ることを望みながらも、そうするには断ち切ってしまう以外にないと、心の何処かでちゃんと分かっているつもりだ
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