File2 診察

 ヴァルベロンの中でも中流階級の家が集まる区画、リルバーン地区にマイリンとハリーの暮らす家はあった。

 家屋はよくある漆喰壁の二階建てで、鉄門のある玄関はきっちりと掃除され、小さな庭にはオレンジ色の小ぶりな実をつける一本の広葉樹が植わっていた。

 辻馬車から降りると、マイリンは門を開き扉の前に立って、ハンドバックから鍵束を取り出した。

「この家も亡くなった旦那さんの?」

 建物を見上げながら呟いた俺の問いに、鍵を開きながらマイリンは頷く。

「はい。商会と、この家と、ハリー。それが夫の遺してくれたものでした」

「なるほど」

 かちゃりという音がして、鍵が開いたのが分かった。マイリンは扉を引き開けると、片手で俺に中に入るよう促す。

「どうぞ。狭い家ですが」

「……お邪魔します」

 事務所に併設された、ワンルームの居住スペースで寝起きしている俺にとっては、十分広い家に思えるのだが。

 ともかく、手に持った道具箱を揺らしながら、俺は家の中に踏み込んだ。

 綺麗に掃除された表玄関とは違って、家の中は生活感がはっきりと感じられた。玄関脇の靴縦の上に乗せられた家族写真や、廊下の片隅に置かれた雑誌の束などから、この家で暮らしている二人の人間の生活が見て取れる。

「ハリーの部屋はこちらです」

 マイリンに案内されて、俺は二階に上がる。二階にはマイリンやハリーなどの寝室があるようで、各部屋の扉には手作りのプレートが付いていた。

「ここです」

 マイリンが立ち止まった部屋の扉には、「ハリー」と書かれたプレートが付いており、その下にはインクで「入るな!」と書き込まれていた。

「あの……入っても大丈夫ですか」

「もちろん。入らないと、診てもらうことは出来ないでしょう」

「それはそうですが……」

 もう一度、「入るな!」の文字を見てから。俺は素早く道具箱を開き、小さな小瓶を取り出しておいた。

「ハリー、入るわよ」

 息子の部屋の扉をノックして、マイリンは再び鍵束を取り出すと、一本の鍵を選んで扉の鍵穴に差し込んだ。

 マスターキーなのだろうが、鍵をかけても母親に容赦なく部屋に入られるハリーが、少々哀れに思えてくる。

 鍵が開錠されると、マイリンは鍵束を仕舞って、ゆっくりと扉を開いた。

「ハリー……きゃあっ」

 開いた直後。何か重いものがマイリンめがけて飛んできた。

 すぐに反応して避けたせいで、直撃はせず背後の壁にぶつかって落下したが。間髪を入れずに、部屋の中から怒声が聞こえてくる。

「勝手に入るなって何度言ったら分かるのか。文字も読めないんですかぁ、クソババアさんは?」

「ハリーなんてことを……」

「危ないっ」

 目を剥くマイリンを庇うように突き飛ばして、追加で投げつけられた瓶を回避すると、俺は開かれた扉から部屋の中に踏み込んだ。

 部屋の中は酷い有様で、床には菓子類の包装やクズが散らばり、ベッド以外の家具は暴力によって破壊され、壁には下品な落書きがびっしり書き込まれていた。

 そして部屋の中央には、件のハリーが座っていた。黒いマッシュルームヘアにグレーのシャツという、見た目だけならマイリンの言う通り大人しそうな姿をしていたが。

 彼の瞳には苛烈ともいえるぐらいの怒りと憎悪が輝いており。ハリーは部屋に入って来た俺のことを認めると、床に唾を吐き捨てて怒鳴った。

「なんだこのおっさん、僕の部屋に勝手に入ってきて、死ねばいいのに。というか死んでくださいよ、早く!」

 ハリーの煽りは無視して、俺は道具箱から取り出しておいた小瓶の蓋を開け、ハリーに対して向ける。

「何してるの、きもいんだけど?」

 俺が何かしようとしているのを感じ取ったのか、棘のある言葉とは裏腹に、抵抗するかのようにハリーは近くの床に落ちていたペンを手に取った。

「死ねって言ってるんだよ、死ねって!」

 少しだけ焦った様子でペンを持って、襲い掛かってくるハリーに対して。俺は短い文言を唱えた後、小瓶に息を吹きかけた。

 準備は出来た。俺は真っ直ぐ襲い掛かってくるハリーに対して、小瓶の中身を振りかける。

「な、なにを―――」

 俺にペンを突き立てる直前、ハリーの態勢は崩れて、彼は床の上に倒れ込んだ。

「なにを、したんだ……くそっ」

 苦しそうに呻き呟いて、ハリーはぱったりと気を失う。

 レクイエム横丁にある薬屋で買った、即効性の睡眠薬。文言で効果を高めておいたこともあり、効き目は抜群だ。

 相手を眠らせる文言もあるが、使用するには対象を拘束する必要があるため。襲い掛かってくる相手を即座に眠らせるには、やはりこの薬が一番有効である。ただ少々お値段が張るのが、難点だったりするのだが。

 散布した睡眠薬を吸い込まないように口を塞いで、拡散して消えるのを待ってから。俺は床の上に倒れ込んだハリーを抱え上げ、乱れて染みだらけのベッドの上に寝かせた。

 一応寝息を確認してから、俺は開きっぱなしの出入り口へと視線を向けて、マイリンに声をかけた。

「もう大丈夫です。マイリンさんも中へどうぞ」

 返事はなかった。代わりに聞こえてきたのは、微かな寝息だった。

「あ……」

 どうやら漏れた睡眠薬を、マイリンも吸い込んでしまったらしい。出入り口から顔を出して確認すると、廊下の壁にもたれて静かな寝息を立てていた。

「参ったな……」

 頭を掻きつつも、とりあえず頼まれた仕事を果たさなければと、俺は部屋の中に引っ込むと、ベッドの上のハリーへ近づいた。

 道具箱を枕元に置いて、診察用の鏡を取り出すと、俺は魔法陣の書き込まれた面をハリーに向けて文言を唱える。

 すると映り込んだ俺の顔が変化し、氷のような姿をした、異形の悪魔へと変化した。ところどころに破損したような痕跡があり、一見すれば痛々しく思えなくないが。透明な氷の正面に付いた虚ろな二つの目によって、この存在が人間に害を与えるということをはっきりと感じさせてくれる。

「抑圧のフロスティ、か」

 この悪魔の名前は、抑圧のフロスティ。中級悪魔であり、憑依した人間の抑圧された感情を解き放って誇張し、邪魔建てしようとする者は悪魔の魔法で害して排除する。

 中級悪魔の中では比較的大人しいほうではあるが、それでも下級悪魔に比べれば危険なことには変わりない。

 鏡を仕舞って測定器を出し、フロスティの力を測る。今回は普通より強力だったりすることはなく、むしろ少し弱いぐらいだった。

 診察は終わった。マイリンの主張した通り、ハリーは悪魔に憑依されていた。それも中級悪魔に。

 だが問題は、ハリーがどうして悪魔に憑依されたかである。極稀に偶発的に憑依されることもあるが、大体は人為的な理由が存在するのが悪魔憑きなのだ。

「……よし」

 やや申し訳ない気もするが、俺はこの部屋の中を調べてみることにした。マイリンが起きていたら許可を取ったのだが、眠っているなら仕方がない。

 測定器を仕舞って、俺は本がまばらに詰め込まれた本棚に近づいた。趣味嗜好を知るには、まず本棚を調べるのが定石である。

 本棚にはマイリンが揃えたと思われる、商売や経済に関する教本や、学習のための数種類の辞典、文学界で高い評価を受けた小説などが並んでいた。何冊かは広がってページを破られているが、無事な本もまだいくつか存在する。

「なんというか……」

 十三歳男子の本棚にしては味気ないというか、もっと流行りの雑誌なんかが揃っていてもいいんじゃないかと思いながら、俺は一冊の辞典を手に取った。

 手に取った瞬間、辞典がやたら軽いことに気が付いて。素早く開いて見ると、ページがくりぬかれて中に数枚の紙束が収納されていた。

 紙束を抜き取って辞典を戻し、開いて内容を確認してみる。彼が悪魔に憑依されたことに関して、何か手掛かりがあると良いのだが。

 が、紙束に描かれていたのは、女騎士の淫らなイラストであり。俺はため息を吐きだすと紙束を元に戻した。なんだかんだ言って、ハリーも年頃の少年と言ったところである。

 一応他の本もざっとチェックしたが、少額のへそくりとエルフとピクシーが絡み合うイラストを見つけただけで、大した収穫はなかった。

 ため息を吐きだすと、俺は部屋の隅に置かれた机の近くへと移動する。机には三つほど引き出しが付いていて、そのうちの一つを試しに開いて見ると、中にはごちゃごちゃとした小物がぎっしりと詰め込まれていた。

「ウッ……」

 中には何かの生物の残骸と思われる物体もあり、鼻を突く異臭に耐えながら調べてみるが、特に気になるものはなかった。

 他の引き出しも同様に調べてみるが、やはり同じような有様で。何も無いなら調べなければよかったと、全て終わった後に軽く後悔しながら、俺は続いてクローゼットへと向かう。

 クローゼットの中には、二種類の服装が入っていた。片方は白いブリーフやシンプルなシャツなど、いかにも母親のマイリンが買いましたというような服の類。もう片方はチェックのジャケットや流行を取り入れた帽子など、ハリーの趣味だとはっきりと分かるもの。

 何か隠されていないか、隅から隅までチェックしたが。やはりここにも何もなく、俺は仕方なくベッドの前に戻った。

 後部屋の中で調べていないのは、このベッドぐらいだが。ハリーを寝かせるために最初に近づいたここに、探していた手掛かりがあるなんて、そんなことがあるのだろうか。

 考えながら、俺がベッドの下を覗き込むと。鍵のかかった箱があっさりと見つかった。

「はああぁぁー……」

 思わず長々とため息を吐きだしつつも、道具箱から針を取り出し、文言を唱えながら鍵穴に差し込む。

 本来は対象の心を開いたり、金縛りを解除したりする文言なのだが。針に仕込んだ術式と俺独自の改造によって、簡単な鍵なら開錠できてしまうのだ。

 箱を開くと、中には数冊の本が入っていた。本にはカバーがかけられていて、内容は開いて見ないと分からない。

 試しに一冊手に取って、開いて見ると。そこには俺の予想していなかった、題名が書き込まれていた。

「……」

 他の本も手早くチェックするが、やはりどれも似たようなもので。俺は本を片付け箱を閉じて元に戻すと、道具箱に針を仕舞って再び鏡を取り出した。

 今度はハリーではなく、部屋の床に魔法陣を向けて、文言を唱える。鏡に写った顔が変化した文様を確かめると、俺は鏡を道具箱に仕舞って部屋から出た。

「マイリンさん」

 廊下で眠っていたマイリンの肩を叩いて軽くゆすると、マイリンはゆっくりと目を開いた。

「う、うーん、あれ、私」

「すみません。ハリーくんを大人しくさせるのに使った術式の余波が、マイリンさんにも及んでしまったようです」

 実際に眠らせたのは睡眠薬だが、文言を使ったのは事実だから、嘘は言っていない。

 俺の説明に、目を擦ったマイリンはきょとんとしてから、軽く微笑んで見せた。

「私の方こそ、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「いえいえ……それよりも、ハリーくんの診察が終わりました。今から、詳しい結果をお話ししますね」

 俺が話しだそうとすると、マイリンは息をのんでから、口元に手を当てた。

「あ、あの、大分長くなりそうですか」

「それなりに、と言った感じですね」

「だったら下のキッチンでお茶を淹れますので、飲みながら話してもよろしいでしょうか。その……まだ結構眠気が残っていて、お話をちゃんと理解できるか不安なんです」

「もちろんです、下、行きましょう」

 マイリンに片手を差し出すと、マイリンは俺の手を取って立ち上がる。彼女を気遣いながら一階に降りて、ダイニングに入ると。マイリンはふらふらとキッチンに入って行って、二つのカップとティーポットを持って戻って来た。

 ダイニングは生活感こそ感じられるもの、きっちりと片づけられていて。壁には振り子の付いた時計が掛けられ、みずみずしい緑をした観葉植物が置かれていた。

 テーブルには四脚の椅子が設置されていて、俺がそのうち一つに座ると、マイリンは俺の正面に腰かけた。

「どうぞ……」

 てきぱきとお茶を淹れたマイリンは、俺にカップを差し出した。初めて体験する色と香りをしたお茶だったが、口を付けて一口飲んでみると、想像以上に美味しかった。

「美味しいですね、このお茶」

 素直な感想を述べると、両手でカップを持ったマイリンは微笑んだ。

「商会で取り扱っている商品のサンプルなんです」

「とすると、もしかして結構いいやつなのでは……」

「そこまでじゃないですよ。一袋一万ルックルぐらいです」

「い、一万ルックル……」

 あの睡眠薬の小瓶ですら、ひと瓶五千ルックルだというのに、このお茶はその倍の値段があるということだ。

 手元のカップをまじまじと見つめる俺に対し、マイリンはお茶を一口飲むと、不安げな眼差しを俺に向けてきた。

「それで、ハリーの様子はどうでしたか?」

 マイリンの言葉に、俺はさっと仕事の顔になる。

 俺が話す診察結果を、マイリンは黙って聞いていた。内心では動揺しているかもしれないが、少なくとも表には一切出さずに。

 説明を終えると、マイリンは静かに目を閉じて言った。

「やっぱり、ハリーには悪魔が憑依していたんですね」

「ええ。それも抑圧のフロスティという、中級悪魔が」

「……改めてお願いします、スカイヴェールさん。ハリーの悪魔を、祓ってやってください」

 予め契約は結ばれているため、断ることは出来ないし、断るつもりもないのだが。俺はマイリンに、静かに頷いて見せた。

「もちろんです。潜りとはいえ、俺にも悪魔祓いとしての矜持がありますから。必ずハリーくんの悪魔を祓って、元に戻して見せます」

 マイリンとハリーの関係が、どんなものかは分からない。だがマイリンがハリーを「大切」に思っていることは確かなのだ。

 この母子の為に、自分に出来ることをしよう。脳内で儀式の計画を練り上げながら、俺は一万ルックルのお茶をもう一口飲んだ。

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